金魚池で会いましょう

act.1


『高橋涼介』
 その宛名を何度も確認した。
 けれど住所は拓海が知る彼の自宅のものではなく、大学病院宛になっていた。
「これ……」
 不思議そうに振り分けされた荷物を眺める拓海に、先輩のドライバーが被っている制服の帽子を取り、額から零れ落ちる汗を拭う。
「ああ、よくいるよ。医者とかさ。なかなか自宅に帰れないせいか、病院宛に荷物とか送るんだよ」
「へぇ……」
 何気ない振りを装いながら、拓海はドキドキする心を押し殺した。
 荷物の中身はどうやら書籍らしい。
 大学内に同姓同名の人物がいるならともかく、拓海が知る高橋涼介への荷物を自分が宅配することになる。その事実にやけに胸が騒ぐ。
『…涼介さん、どんな本を読むんだろう?やっぱり難しそうな医学書かな?』
 そんな事を考え、頬を染める。
「藤原、何してんだ、早く出ないと遅くなるぞ」
 荷物を手にしたままぼうっとしている拓海に、先輩ドライバーの叱責が入る。我に返った拓海は、荷物を車に積め、慌てて運転席に乗り込んだ。
 不思議な偶然。
 たかがそれだけのことに、何か意味を求めて一人で動揺している。
「オレ…変なの」
 初めて会ったあの瞬間から、何故か彼こと高橋涼介に対し冷静でいられない自分を拓海は知っている。
 彼の主催するチームに誘われ、同じ時間を共有するようになってから、その感情がどういった種類のものかも漠然と理解した。
 恋らしい恋もしたことのない自分の、生まれて初めての恋は同性の、そして拓海とは生まれも才能も格段に違う優秀すぎる人だった。
 何もかもが、拓海の恋の成就の可能性を否定することばかり。
 だから。
 こんな些細な偶然がとても嬉しい。
 自分が手にしたものを、彼もまた手にする。そんなささやかなことに拓海はたまらない幸せを感じた。



 パソコンの画面を見続けたせいで目が霞む。
 目薬を何度つけようとも、疲弊しきった目は回復せず、医学をかじった自分でなくとも、自分に今必要なのは休息であると理解できる。
「高橋、もう帰れよ。お前、何日ここにいるんだ?」
 同じく疲れきった顔をした学友が自分にも言い聞かせるように涼介にそう言った。
「それとも、まさかここがお前の家だなんて、言うつもりじゃないだろうな」
 皮肉げに歪められた口元。それは言った本人にもいえること。だからこその自嘲だろう。
「いや、さすがにここを家にはしたくないな。…そうだな。今日はもういい加減に帰るよ。このまま続けていても作業能率は上がりそうにないしな」
 涼介が帰らなければ、この学友も帰れない。帰りたいための発言だと涼介は理解していた。
 涼介がそう答えると、学友の顔が安堵に綻ぶ。
「だな。じゃ、俺ももう帰るか」
 待っていましたとばかりに立ち上がる学友に、涼介は苦笑が漏れる。
 そして自分も同じように、立ち上がろうとした瞬間に思い出した。
「…と、そうだった」
「何だ?」
「いや、注文していた本が届くのが、確か今日だったんだ」
「本?」
「ああ。宛先をここにしたからな。それを受け取らないと帰れないな…」
「オイオイ、ここはマジに第二の自宅じゃないぞ」
「そういうつもりは無いけどな、つい…。お前はもう帰っていいぞ。俺も受け取ったらすぐに帰るつもりだから」
「そうか、じゃお先に」
 帰る学友に手を振り、涼介は溜息とともに椅子の背もたれに背中を預ける。
 注文した宅配を、自宅ではなく病院宛にする医師などはよくいる。つい自分もまた、滅多に戻れない自宅よりも、常駐していると言って過言ではない大学に宛先を指定してしまった。
 それが思わぬ足止めをしている。
 ふう、と再度溜息。
 こんな疲労しきった日には、あの声が聞きたい。
 愚かな感情だと知っていても止められない。
 どうしてこんなものを抱えてしまったのか、常に理知的に計算高く生きてきた自分の唯一の計算外。
 それが藤原拓海と言う存在だ。
 初めて自分に黒星を付けさせた人物。
 そして焦がれるという感情を自分に与えた少年。
 一見、どこにでもいる少年だ。
 十八歳の、普通の男。
 けれど一度目に止めると、そこから目が離せなくなってしまった。
 予想を超えた領域で走る少年。その姿は鮮烈な印象となって涼介の心に刻まれ、そして深く根を下ろした。
 同じ同性の、年下の少年に恋心を抱く。
 それがどんなに愚かなことかを理解はしているが、理屈や理性で止められるほど感情は簡単なものではない。
 だが、別段涼介はこの恋心を叶えようと思っていなかった。
 束の間でも、彼に接し、そして声を聞ければそれだけで良かった。
 チームのことと称し、彼に電話をし、会話をする。それが現在の涼介の一番の楽しみなのだ。
「…会いたいな」
 そう呟き、脳裏にあの姿を思い浮かばせれば、ますます恋慕は増す。
 けれど同時に零れるのは自嘲の笑み。
「ったく、しょうがねぇな」
 愚かな自分を嘲笑い、薄汚れた天井を見上げる。
『…涼介さん』
 彼の、ちょっと戸惑ったふうに自分の名を呼ぶ声が好きだ。
 あの声で自分を呼んでもらいたい。
 目を閉じ、表情を思い出す。
 心の中の拓海は、自分には絶対に見せないような表情で鮮やかに笑う。そして自分の首に腕を回し、唇を寄せる。
 その口が紡ぐのは、自分の名と、そして…。
 けれどそこで妄想は途切れる。
 静かな空気を壊すようなアナウンス。それに自分の名を呼ばれ、涼介は目を開いた。
 涼介をこの場に足止めしていた宅配便が届いたのだ。
 すぐに帰れるように荷物を手に、玄関へと向かう。
「夢は…しょせん夢か」
 情けない。再び溜息を吐き、先ほどまでの妄想の中の拓海を振り払う。
 愚かな、子供のような恋をしている。
 けれどそんな自分が涼介が嫌いではない。
「会いたいよ、拓海…」
 誰もいないと知っているからこそ本音が漏れる。
 けれど明晰な頭脳を持つ涼介にも、予測もできないことだろう。
 今から向かう場所に願う相手がいることを。
 当人たちが知らぬままに、そして密やかに運命の歯車は廻り始める。



2006.9.20

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