這い蹲る夢を見る。
跪き、地に沈み、絶望の眼差しで彼を見上げる自分を夢見る。
追い迫る闇に呑まれ、今の自分を壊され、バラバラにされる夢を見る。
『彼』と。
出会ってからずっと、そんな夢を見続けている。
コンクリートの無機質な階段を登り外へ出る。
凝った空気とは違う、外の気配に深く息を吸い込む。
けれど、外も決して「きれい」ではない。
車の排気ガスで汚れた空。
星空をかき消すネオンの瞬きの下のこの街は、人の欲望に満ち溢れている。
もう深夜を過ぎた時刻だというのに、人通りは消えず、アルコールで酩酊させた頭を抱えた虚ろな人々と、それを狙うハイエナのような目をした人々が闊歩している。
歩く拓海の腕を掴み、誘い込む笑顔でありながら声にずるがしこさを感じる人々。それを振り払えば「ざけんな、バーカ」と悪態を吐かれ、そしてふらふらと操り人形のような足取りで歩く人々にぶつかれば、「痛ぇな、この野郎」と罵倒された。
広い大通りいっぱいに連なる車の山。鳴り響くクラクション。
拓海はガードレールに凭れ、地面を見つめる。
ひび割れたアスファルトと、自分の草臥れたスニーカーのつま先。
薄汚れたそれと、今の気分が丸きり一緒で拓海は笑いたくなった。
Dに入ったことで、夜更かしをするようになったが、こんな場所で夜を過ごした事はない。
拓海の知る夜はもっと冷たく、凍て付くように厳しいけれど、だが同時に包み込む広さがあった。
ここのような、閉塞感は無い。
ここは、嫌いだ。
この街は苦手だ。
隠している人の本能が溢れている場所だから。
拓海が怖くて、隠しているものが晒されている。
見たくなく、心の奥底に仕舞ったものが飛び出てきそうで嫌いだ。
啓介に付いてきたのが間違いだった。
彼の闇に気付き、それを見たいと、ほんの少しでも思ってしまった自分が間違っていた。
そうだ。彼に付いてきたのは、心配だったからでは無い。
いつも陽のエネルギーに満ちた、彼の密かな闇の部分を垣間見たかったからだ。
だけど、そこで見たのは拓海の中で息づく闇の片鱗だった。
密かに。奥底に。秘めた…もの。
這い蹲り、彼の足元に跪き、踏みつけられる夢を見る。
あの時。
あの夜。
いったい誰が知るだろう。
いや、拓海も気がつかなかった。
初めての先行でのバトル。
迫る白い影に拓海は……
負けたかったのだ。
追い詰められ、恐怖を感じながら、喜びも感じていた。
負ける。
そんな自分の姿を想像し。
怜悧なあの表情が優越感に満ち、拓海を見下ろすその瞬間を待っていたのだ。
だけど、そんな瞬間は訪れず、結果は拓海が予想していたものとは違った。
その時に芽生えたあの衝動を、拓海はいつも押し殺している。
ハァ、と心の奥底の闇ごと、深く溜息を吐き、俯いていた顔を上げる。
ポケットの中にハチロクのキー。
それは拓海に、いつもの日常を思い出させる。
ぎゅっと握り締め、ガードレールを離れる。
日常に戻る。闇をまた隠し。
けれど歩き出そうとする拓海に、闇が降る。
「藤原」
拓海の昏い夜。
それは「彼」の姿をしている。
名を呼ばれ、拓海は背後を振り返った。
「…涼介さん?」
『彼』の名を呼ぶ。
通りに連なる飲食店の、明るい照明に照らされた涼介がそこにいる。
ふ、と。いつもの唇を歪めるだけの笑みを拓海に見せる。
夜なのに、照らされた彼の姿はやけに眩しく見えた。
「どうしたんだ、こんなところで?」
彼の服装はスーツだった。
ネクタイに、黒に近い濃紺の上下。通りに溢れ返っている人々のような、着崩れた野暮ったさのないスタイリッシュなそれに拓海は目を奪われる。
「今日は赤城にいる筈だったよな。何故ここに?」
サラリーマンとも違う。
だがかと言ってホストとも違う、洗練されたスーツ姿に、拓海だけでなく行き交う人の視線も止まる。
化粧の濃い女が、あからさまに彼を見つめるのに苛立ちが募る。
そんな資格も無いのに。
「…藤原?」
間近で顔を覗き込まれ、拓海はハッと我に返った。
「…え、あ…」
「酔っている…わけでは無さそうだな」
拓海の顔の傍で、クン、と顔を近づけ匂いを嗅がれる。
カッと一気に頬が染まり、慌てて首を横に振る。
「ち、違います…あの…」
どう言えばいいのだろうか。
狼狽え、視線を地面に向け唇を噛む。
目の前の涼介の目が、細く眇められる。
「……彼女?」
「…え?」
「いや、こんな場所にいるって事は、彼女とでも一緒だったのか?」
繁華街、いや歓楽街とも呼ばれるこの場所にいること。
若い男で、ここにいる理由の大きなものとして、「女」が挙げられるだろう。
だがここでの意味は、涼介が言う「彼女」ではなく、買春などの意味が強い。
そこまでを察したわけではないが、拓海は慌てて顔を上げ、首を横に振る。
「ち、違います、そんなんじゃ…」
言い訳をしようと、開いた口はだがすぐにまた閉じる。
ゾクリ、と。
背筋に悪寒が走る。
目の前の眇められた涼介の目が温度の無い冷たい氷のようだ。
まるで剥き出しのナイフ。
その視線に晒され、拓海は恐怖とともに、奥底に秘めた闇が溢れ出してくる。
切れそうなほどの冷たい眼差しを、心地好いと、そう感じてしまう自分を。
「…藤原?」
涼介が拓海の名を呼ぶ。途端、眼差しの鋭さが消え、和らいだものに変化する。
無意識に、詰めていた空気が咽喉元から溢れ出る。
ヒュゥ、と微かな呼吸音とともに、どっと汗が噴出した。
「藤原?」
今度は幾分、涼介の声が焦ったものになる。
色を失った頬に涼介の長く細い指が伸びた。
触れた瞬間、その指の冷たさにまた闇が深くなる。
「…大丈夫か?責めているわけじゃないんだ。怖がらせたか?」
優しい眼差しと、笑み。
それに安堵を覚えながらも、けれどそれは拓海の欲しいものではない。
「い、いえ…すみません」
頬に触れる涼介の手を掴み、引き剥がす。
けれど指は離れず、拓海の手を握った。
「何をそんなに怯えてる?」
涼介が微笑んでいる。
笑みなのに、優しくはない表情で。
いつもと違う場所。
欲望に塗れたこの街で、出会った彼は、いつもの彼と違って見えた。
服装が違うせいだろうか?
街の空気のせい?
「藤原?」
彼の、表情に「演技」が無いせいか?
「あ、の……」
「何?」
拓海の手を握る指の力が込められる。
ぎゅっと強く握られ、手の甲に彼の指の爪が食い込む。
「け、啓介さんと、です」
また、涼介の目が鋭いものに変化する。
ギリ、と甲に爪が立てられ血が滲んだ。
「啓介さんと…一緒でした」
心臓が、激しく音を鳴り響かせる。
ドクドクと、緊張と恐怖と、でも何より大きな期待で胸が高鳴る。
「啓介と?」
「は、い…」
涼介の指の力が弱まる。拓海はそれを残念だと感じた。
「それで?あいつは?」
ゴクリ、と唾を飲み込む。
「女の人と…その…」
そう言った瞬間、涼介は指を離し、そして「ハハ…」と声を上げ笑った。
「女に逃げたのか」
意味が、よく分からなかった。
けれど、にんまりと涼介が笑った。心からの笑みを。
「あいつの事だ。上手く走れなくて拗ねた。そんなところだろ?」
この意味は分かる。だから頷いた。
「あいつは単純だからな。女で憂さを晴らして…いや晴れたつもりになっている。次の日にはスッキリした顔にはなっているが、だが本質は消えたわけじゃない」
また、意味が分からない。
ぼんやりと、涼介の言葉の意味を噛み砕く拓海の髪を、涼介が笑顔のまま撫でた。
「それで?…お前はどうして啓介に付いてきたんだ?」
「お、れは……」
理由を、考える。
不自然ではない理由を。
「心配、だったから…」
「それだけ?」
「それだけって……」
答えられない。拓海の中の嘘を見透かすように、涼介の眼差しが拓海の皮の中を貫く。
「あいつは女に逃げた。お前が来た意味はどこにある?」
ふと、気がついた。
涼介の体からアルコールの匂いがしていることに。
いつもと違う彼の理由は、これなのだろうか?
「意味、なんて…別に…」
ふい、と視線をそらした。その目に晒されている自信がなくて。
ふぅん、と囁きながら、髪を撫でていた涼介の指が頬に落ちる。
つぅ、と頬を指でなぞり、顎を捉え、顔を持ち上げる。
「…可哀想に」
笑みを湛えたまま、拓海と目を合わせ囁いた。
「啓介に置いていかれたのか?」
違う、と否定したいのに、顎を捉えた指が顔を動かすことを拒む。真っ直ぐに見据えた眼差しが、拓海の言葉など必要ないと、告げているようだった。
「藤原」
涼介が拓海の名を呼ぶ。
だが、いつもとは違う。その響きに艶を込めて。
「…俺が拾ってやるよ」
そして汗ばむ拓海の手を掴み、先ほど甲に付けた赤い涼介の爪痕に唇を寄せる。
ビクリ、と奮え声も出ない。
クスクスと、楽しそうな笑い声を涼介が上げた。
「よ、酔ってるんですか?」
そうだ、と言って欲しかった。
でも、涼介は拓海の望む言葉をくれない。…いつも。
「どう思う?」
拓海の手を離し、顎も解放し、そして寄せていた身を離す。
広がった彼との距離感。
でも、ジンジンと甲の爪痕の痛みと、顎を掴まれていた感触がまだ拓海の肌の上に残っている。
今も、変わらず掴まれているかのように。
「俺は酔っているのかな?」
いつもの彼らしくなく、悪戯めいた表情で笑う。
揶揄かわれているのだろうか。
「…涼介さんは…」
「え?」
「涼介さんは…どう思うんですか?…酔ってるのか、酔ってないのか」
ふ、と。涼介が微笑む。
今までの笑みとも違う、苦笑に似た笑みを。
「酔っていないよ」
嘘だ、と本能で覚った。
「俺は正気だ」
だが、これは本当。
にっこりと、涼介が笑った。
闇が、降る。
拓海の上に。
涼介を中心に、昏い夜が広がっていく。