空気が濁り、淀んでいる。
狭く、閉塞感のある空間の中に犇めき合っている人々。
彼らの上に降るライトの灯りは薄暗く、まるで死人の群れのように見せる。
耳に響く、喧しい音楽。
空間中いっぱいに漂う濁った空気と煙草の煙。
そして種々雑多な、きつい香水の匂い。
ここは嫌いだ。
拓海は口を抑え、その空気を吸わないように壁際に身を寄せた。
けれど、ドン、と足に何かがぶつかり、ふと床を眺めれば生気の無い表情で虚ろな目を彷徨わせ蹲る男がいる。
派手な身なりと、唇に凶器のように突き刺さったピアスに嫌悪を感じる。
「藤原」
喧騒の中、腕を捕まれ、その男から遠ざけられる。
見れば、いつも夜の中でしか会わない男の顔があった。
いや、いつも彼に会う場所は、こんな淀んだ場所ではない。
暗いけれど、でも生気に満ち溢れた、喧騒もあるが清々しい場所。
「……啓介さん」
ほっと安堵し、拓海は見知った彼の顔を見つめる。
派手な容貌の多いこの場に馴染むほど、啓介もまた派手な身なりをしている。
だが、そのバランスの取れた肢体や、端整な顔立ちはこの中の誰とも一線を画している。
「そいつ…イっちまってヤバいから、こっちに来い」
「い…ってる?」
意味が分からず、拓海は啓介に腕引かれるままに首をかしげた。
眉間に皺を寄せ、嫌そうな顔をしながら啓介が答える。
「ドラッグでラリってんだよ」
ドラッグ…。
拓海の世界ではそんな言葉は無縁だった。
ドラッグが、いわば普通の薬ではなく、非合法と呼ばれる麻薬の類であることなど、説明されなくても分かる。だが…身近にはなかった。
ゴクリ、と唾を飲み込み、思わず呟く。
「そんな物…あるんだ」
何でもない事のように眉をしかめたまま、啓介が答える。
「ま、ガキが手にするようなモンだから、ほとんどケミカルだけどな」
そして啓介はチラリと、蹲る男に目を向ける。
「それに…あんなの珍しいモンでもねぇし…」
その言葉に、拓海はぞっとする。
この場には、あんなのがゴロゴロしている。そう告げられているような気がして。
拓海の腕を引いていた啓介は、店の中のカウンターバーの前で立ち止まる。
入り口の受付のような場所で、貰ったコインをカウンターの向こうの男に渡す。
「デュベル。…藤原、何飲む?」
「…え?」
「入り口でコイン貰っただろ?あれ、ドリンクチケットみてぇなもんだって、説明したろ?」
そうだっただろうか?
入った瞬間の、あの喧しい音に耳をやられ、何も聞こえなくなっていた。今はもう慣れたのか、声なども聞き分けることが出来るが。
「あ…はい」
拓海はポケットの中からコインを取り出し、啓介に渡す。
「何飲む?」
「……ウーロン茶」
そう拓海が答えると、カウンターの向こうの男が笑った。
「啓介さん。珍しいタイプを連れてますね」
まるで嘲るような言葉に、カッと体が怒りに染まる。
「からかうな。見た目よりもおっかねぇ奴だからな」
威すように低音で啓介が囁けば、カウンターの向こうの男が固まり口を噤む。それだけで、拓海はこの中での啓介の立場を掴む。
「…怖いんですね、啓介さん」
啓介の目の前に、拓海が見たことのない種類の瓶ビールが置かれる。
そして拓海には、コンビニでもよく見かけるペットボトルだ。
拓海の呟きに、啓介が皮肉気に笑う。
「……昔はな」
啓介の兄の親友であり、現在のチームの世話役でもある史裕から、かつて啓介がかなり悪さをしていたような事は聞いていた。
だが実際にその片鱗を目の当たりにすると、拓海は戸惑った。
まるで、目の前の彼が、拓海の知るいつもの彼とは別人のようで。
人いきれで、蒸し暑い室内。そして緊張に乾いた咽喉を潤すために、手の中のペットボトルを開き口に含むが、爽快さを一切感じない。
胸焼けしたように気分が悪く、五月蝿い音楽で頭が痛い。
「……トイレ、行っていいですか?」
「…ん?あ、ああ」
薄暗い灯りの中、啓介のライターが、シュボ、と音を立て炎を揺らめかせる。口には煙草。それに火を着け、深く息を吸い込み、そして吐き出した。ふぅ、と上がる白い煙。
いつもの光景だ。
だが、今はどこか違う。
淀んだ空気の中の啓介は、この場と同じ、淀んで見えた。
いつもの、彼ではない。
それにどこかショックを受け、拓海は彼の傍を離れる。
そして店の片隅にあるトイレに向かい、そこでまた嫌悪を感じた。
「…ん…あ…あぁ、ん…」
独特の匂いと艶めいた空気。
拓海に見えたのは男の背中と、男に抱えられた女の足。
そして二人の周りに立った男たちが、拓海を睨み威嚇する。
「…見てんじゃねぇよ」
ふぅ、とわざと煙草を拓海の顔に吹きかける。
「それとも、お前も混ざりてぇの?」
ニヤニヤと、別の男が拓海を嘲り笑う。
嫌いだ。ここは、嫌い。
拓海は口を抑えたまま啓介の元へ戻る。
人ごみの中でも啓介は目立つ。悪い意味でも。
彼の傍らには派手な身なりの女。
ベッタリと腕に絡みつき、そしてあからさまに彼の体に擦り寄っている。
面倒くさそうにしながらも、啓介は傍らの女の望むままにキスを与える。
吐き気が、した。
「……啓介さん」
啓介の視線が女から拓海に移る。
その目は濁っていた。いつもの彼らしくないほどに。
「ああ」
虚ろな目。熱く、真っ直ぐに自分を見つめていた彼の目ではない。
この男は、拓海の知る啓介ではないのだ。
「帰ります」
きっぱりと、そう告げると啓介は微笑んだ。場違いなほどに。鮮やかに。
「…お前はそう言うと思ったよ」
傍らの女の胸を掴み、揉む。
「お前もアニキと一緒だ。堕ちないんだな」
涼介の名前を出され、胸焼けしていた心に、あの人と同じ凛とした清廉な風が吹く。
「お前もアニキも強い。だけど…俺は弱いからな。こんな場所が必要なんだ」
どん底に落ち、腐った魚のような目で、自分の弱さを嘲笑う場所が。
拓海は、啓介が落ち込んでいるのを知っていた。
それは些細な事だった。拓海にもよくある。
上手く走れない自分。理想に遠い自分。歯噛みし、己の力の無さを嘆く。
そんな感情に、渦巻いていることを、拓海は知っていた。
だから、大人しく彼に付いてきたのだ。
何度「帰れ」と言っても付いてくる拓海を振り返り、啓介は拓海を試すように自嘲めいた笑みを浮かべた。
『面白いトコに連れてってやるよ』
どこか捨て鉢な彼の目に、放って置けず付いてきたのだ。
そして連れて来られたのは、繁華街の裏通りにあるこの場所だった。
照明も無く、周りの壁に猥雑に貼られたポスターや広告が並ぶ階段を下り、地下に潜ったところにあるこの店に。
重苦しい真っ黒に塗られたドアを開けた瞬間、拓海はそこがいわゆる「クラブ」とか言う場所なのだと分かった。
狂ったように踊る人々もいれば、片隅には淀んだ顔で虚ろな目をする人々が蹲る。
一段高い場所のDJブースでは、酒を飲みながら、慌しく両手を使い拓海には理解不能の音楽を作り上げていく。
「明日には俺は這い上がってる。だから…お前はもう心配しねぇで帰れよ」
そう笑った啓介の顔には、拓海の知る彼の名残があった。
誰にでも闇はある。
啓介は宿る闇に侵食される前に、闇を喰らうために一時この場に堕ちたのだろう。
拓海は理解し、頷いた。
「帰ります」
もう一度告げると、啓介は「おう」と手を挙げ、手のひらを振り犬猫でも追い払う仕草を拓海に向けた。
「でも…」
拓海が言葉を続けると、啓介がまた顔を上げる。
「俺は、強くなんてないですよ」
誰にでも闇はある。
啓介にも。
拓海にも。
そしてきっと…。
「ただ、俺はこんな方法では這い上がれないだけです」
逆に、この方法で這い上がれる啓介の方が、健全と言えるのかも知れない。
澱のように溜まった拓海の闇は、未だ祓う事が出来ずに溜まるばかりだ。
苦笑する拓海にまた啓介も苦笑し、そして目を背ける。
「行っちまえ」
「はい」
啓介の傍らの女が嬌声を上げる。
「やだぁ、ケイスケぇ」
拓海はもう後ろを振り向かなかった。
そして啓介もまた、拓海を見ない。
店を出た拓海は、外の清々しい空気を肺いっぱいに吸い込む。
その空気を吸いながら、拓海の脳裏に浮かんだのは、この空気と同じ雰囲気を纏う人のこと。
夜のように、冷たく、よそよそしくありながら、だがどこか安らげる人。
「……涼介さん」
拓海の中の闇の中心には、出会ったときからずっと、彼が住んでいる。