発熱の男

act.5



 あいつとは最初からこうだった。
 ビリビリと、全身の細胞が覚醒したかのように体中から雄叫びが上げる。
 ゴクリと、自分の唾を飲み込む音がやけに大きく響く。
 コンマ1の差さえ永遠に感じられるほどの、やけにゆったりと流れていく時間。
 闇夜のはずなのに、くっきりと鮮やかに浮かぶアスファルト。
 ああ、今小さな石ころを踏んだ。
 車体がほんの僅かだけぶれる。
 シートの下から伝わるその石の感触。
 分かる。きっとあいつも、今の俺と同じようにマシンと一体になっている。
 藤原拓海に惹かれたのは理屈ではないのだ。
 同じ種族の生物に、本能の領域で惹かれるように、俺と拓海もまた本能で惹かれた。
 喧嘩して、嫌われて、でも俺は惹かれるのを止めることが出来ない。
「拓海…」
 道が、どんどん見覚えのある箇所に差し掛かる。
 思い出す。あの時の俺の焦り。
 置いていかれると、喪失感に絶望しミスを生んだあの場所。
 もうすぐ俺が事故を起こしたポイントに差しかかろうとした瞬間、背後から迫るあいつの気配が変化した。
 溢れていた覇気のようなものが一気に消え、そしてブツリと音を立てたようにマシンからあいつの気配が失せた。
 もうあいつのハチロクから、拓海の意識は感じない。
 どんどんハチロクの速度が緩められ、やがて完全に停車した。
「あいつ…!」
 俺も、ハチロクに遅れて車を止めた。
 身体をシートに貼り付けていたベルトを外し、乱暴にドアを開け外に出る。
 そして走った。
 見える背後の白いボディに黒のカーボン。
 フロントガラス越しに、ステアリングに額をぶつけるように顔を伏せたあいつが見えた。
「拓海ィ!」
 俺は迷わず運転席に向かう。
 バン、と勢いよく窓ガラスを叩くと、ゆっくりと伏せていたあいつの顔が持ち上げられる。

 ずっと夢に見ていた。
 ずっと求めていた。
 薄茶の柔らかな髪。もう成人していると言うのに、少年のような柔らかな輪郭。
 そして。
 髪と同じ色の、薄茶の大きな瞳。
 時にはぼんやりと遠くを見つめ、時には激しい炎を燃やす。
 その瞳が嬉しそうに和む姿も、キリリと引き締まり睨む姿も、色んな姿を見せるのを知っている。
 けれど、俺が一番良く知っているのは、俺がさせた姿。
 今のように。
 涙に濡れた、儚げな切ない瞳。

「拓海……」
 胸の中に、色んな感情が沸き起こる。
 愛しさ。切なさ。悔しさ。
 グシャグシャの感情のまま、運転席のドアに手をかける。
 ロックはされてはおらず、ドアが開き、ガラス越しではない拓海の姿が俺の前に現れる。
「拓海…」
 これは現実?
 それとも夢?
 確かめたく手を伸ばす。
 すると、触れそうになった瞬間、あいつがスッと身を引いた。
 ズキリと俺の胸を痛みが襲う。
 けれど、仕方ない。
 振れられるのを拒まれるような事を俺はアイツにした。
 だから俺は苦笑し、手を引っ込め視線を外した。
「……ゴメン」
 こんな謝罪一つでは購えないことを知っている。
 土下座して、跪いて、いやこの命を懸けて償わなければならない。
 なのに、引いた俺の手を掴むものがあった。
 驚き視線を戻せば、涙をボロボロと流したあいつが必死な目をして俺の手を掴んでいる。
 ゆっくりと、何度も口付けた柔らかな唇が開く。
「行くなよ!」
 泣き声のような声で叫ぶ。
「行か…ないで…」
 俺の手を強い力で握り、手の甲に頬を寄せる。
 手の甲に冷たい感触。
 あいつの涙が、俺の手を濡らしている。
「俺がいたら…あんたがダメになること…分かってる…。けど、今だけでいいから…お願い!」
 胸が苦しい。
 苦しすぎて、言葉も詰まったように出ない。
 何かを言いたいのに、何の言葉も浮かばない。
 拓海。
 拓海。
 拓海…!
 頭の中で、バカみたいにあいつの名を叫ぶ。
 そしてポタリと、顎から滴る感触に、俺もまた涙を流している事に気付いた。
 好きだ。
 好きだ好きだ好きだ。
 どれだけ言っても飽き足りない。
 これだけ、誰かを好きだと思うのはコイツだけだ。
 きっと死んでも、また生まれ変わってコイツを好きになる。
 記憶を失っても焦がれていたくらいだ。
「………」
 バカみたいに動かない身体を叱咤して、目の前の愛しい身体に手を伸ばす。
 両手を伸ばし、拓海の身体を包み込む。
 ああ、あいつの感触だ。
 あいつの匂いだ。
 大好きな、あいつだ…。
「……好きだ」
 やっと言葉が出た。
 囁いた瞬間、拓海の身体がビクリと跳ねる。
「け、いすけさ…」
 あいつが俺の名を呟く。
 ジンワリとそれが俺の身体に浸透し、見失っていた以前の「啓介」が今の俺に浸透し、重なった。
 過去も、現在も。
『啓介』はお前が好きなんだよ、拓海。
「お前が…好きだ」
 やっと手に入れた。
 焦がれ、求めていたものが漸く俺の手の中に戻った。
 もう、離さない。
 そう宣言するかのように、腕の中の身体を力いっぱい抱き締めた。

 



 俺の告白に、大きく跳ねた身体が強い力で俺を突き放す。
 目の前に涙で濡れた大きな瞳。
 それが大きく見開かれ、かつて飽きることなくキスを繰り返した唇はうっすら開かれ戦慄いている。
「なんで…記憶…無いんじゃ…」
 俺の胸を押し返す腕。小刻みに指が震えていた。
 俺はその腕を取り、熱を確かめるように握り締めた。
「ああ。そうだ」
 好きと言う感情に理屈は無い。
 だから、今涙目のコイツを見ながら、愛しいと感じる気持ちにも理屈は無いはずだ。
 可愛くて、愛しくて堪らない。
「全部、忘れてた」
 記憶を無くそうが、そう感じる心は変わらなかった。
「けど……忘れられないものが一つだけあった」
 拓海。
 拓海。
 何度名前を呼び求めた事か。
「何?って聞いてくんねぇの?」
 ニヤリと笑い問いかけると、拓海が機嫌を損ねたように顔を背けた。
「…おい」
 けど、機嫌を損ねたわけではなかった。
 細い肩が震えている。
「あんた…いつもそうだ。そうやって俺をからかってばかり…」
 唇を噛み締め、俯いた瞳のその切ない色に気付いたとき、俺は自分をぶん殴ってやりたい衝動に駆られた。
 俺のこんな所が拓海を傷つけていたのに、相変わらずそれを繰り返す自分の学習能力の無さが腹ただしい。
「からかってねぇよ。…ゴメン」
 謝ると、キッと俺の好きなアイツの顔で睨みつけてくる。
「……嘘だったんだろ、どうせ!記憶が無かったなんて…全部…俺を騙して…」
 ちょっと待て、と一瞬で焦る。
「そんなに俺が邪魔だったんなら、ちゃんと言えば良かったんだ!」
 俺は激昂する拓海の肩を掴み揺さぶった。
「オイ!」
「何だよ!!」
 拓海が俺の手を乱暴に振りほどく。
 ムカ、とした感情のまま、怒鳴り返そうとして俺は気が付いた。
 そうだ。
 これじゃ前の俺たちの遣り取りそのままだ。
 こんな感じで喧嘩ばかりしていた。
 またそれを繰り返して、コイツを失ってしまうのか?
 そんなの、許せるはずがない。
 俺は自嘲気味に笑って、振り払われた手を、再度拓海に伸ばす。
「違う」
「何がだよ!」
 差し出した手。それが叩かれる。
 けれど、引いてはいけない。
「違う!」
 怯まずに、拓海の身体を掴み抱き締める。
「俺は確かに記憶が無かった。周りの人間どころか、自分が誰なのかさえ分からなくなってた」
 静かに、耳に直接注ぎ込むように囁く。
 暴れていた拓海の抵抗がやや治まった。
「でもさ、それなのに忘れられないものがあった」
 少しだけ身体を離し、拓海の顔を覗き込む。
 その顔に怒りは無い。
 ただ顔いっぱいに不安を宿している。
 不安にさせたのは過去の俺。
 取り払うのは今の俺の使命だ。
「お前だよ、拓海」
 ポロリと、大きな瞳から綺麗な涙が零れ落ちる。
「……嘘…」
 俺は微笑んだ。
 夢の中のアイツと同じ顔。
「夢、見てた。いつも」
 ゆめ…と声もなくあいつの唇がそう呟く。
 言い聞かせるように、はっきりと頷いた。
「そうだ。夢。
 いつも誰かを求めてた。夢の中でそいつはいつも泣いている。
 俺のせいだと、分かってた。だから俺は何度も夢の中でそいつに謝ってるんだ。
 ゴメン、って。何度も、何度も」
 拓海の目から溢れた涙が頬を伝う。
 俺はずっと、その涙を拭いたいと願ってた。
 そしてその願い通りに、無骨な手のひらで涙を拭った。
 手のひらに湿った感触。
 優しくその頬を撫でながら、涙よ止まれと願いを込めた。
「…ゴメン。拓海」
「け、すけさ…」
「何度謝っても許されることじゃないのは分かってる。けど、謝りたい。
 俺は…お前に許されたい」
 拓海が静かに首を横に振る。
「許すとか…そんなの…」
 俺は拓海を抱き締める腕に力を込める。
 願い、だ。これは。
「俺は、許されたい。けど、お前が許せなくても構わない」
 ゴクリと唾を飲み、拓海を見つめる。
 意味が分からないと、俺を見返す瞳。
「ただ、俺は…」
 青臭いコントロール不能の衝動が、俺を暴走させて失敗した。
 マシンと同じだ。
 制御できなかったのが俺が未熟だっただけ。
 事故を起こし、記憶を失い、それでもアイツを求めた俺の心は、あの頃よりは少しはオトナになっているはずだ。
「俺は…お前に好かれていたい。愛されたい」
 好きだと、そう思う感情だけで恋は続く物と錯覚していた。
 けれど今の俺はそうじゃない事を知っている。
「許せなくてもいい。俺の傍にいてほしい」
 俺よりも強い拓海が好きだった。
 けれど俺より強い拓海に嫉妬した。
 けど、今なら分かる。
 嫉妬なんてくだらない感情、愛情の前では全て無力だ。
「俺はお前が好きだから。すげぇ…好きだから。だから俺の傍にずっといてほしい。
 他の奴のモノになんてならないでほしい。お前には、俺だけのものでいてほしい」
 じ、と無言のまま俺の言葉を聞いていた拓海の視線が下がる。
 俯き、沈黙の後にポツリと呟いた。
「許さないって…言ったら…」
「構わない」
 答えは決まっている。きっぱりと即答すると、また拓海の呟きが聞こえた。
「もう、好きじゃないって言っても?あんた以外の誰かを好きだって言っても?」
 俺を好きじゃない拓海。
 誰かのものになってしまった拓海。
 そのどれを想像しても、胸を掻き毟るほどに痛みを感じる。
 けれど。
「諦めない」
 やっと拓海の顔が上がった。
 ぼんやりとした、初めてバトルしたときと同じ無防備な表情。
 懐かしくて、そして愛しくて。
 俺はその頬に手を伸ばす。
「諦めない。拓海が俺を好きじゃなくても、他のヤツのものになっても。俺は拓海が好きなままだ」
 柔らかい頬。
 キスをしても怒らないだろうか。
 この愛しくて堪らない生き物を、自分の全身で可愛がりたい。
「そんで、いつか好きになってもらえたらいいな〜なんて思いながら、お前の周りをウゼェくらいにチョロチョロする」
 ニヤりと、不敵に笑うとあいつの顔も綻ぶ。
「お前が無視できねぇほど、存在感のあるヤツになってみせるよ。
 お前に、また惚れてもらえるような、イイ男になってみせる」
 そうだ。
 お前に並ぶ男になってみせる。
 だからもう俺は置いていかれることを恐れない。
「だからさ、…俺を好きになれよ」
 クスっとアイツが笑った。
 泣き笑いの表情で。
 それは久しぶりに見る、あいつの笑顔だった。
「そんなの…」
 あいつの腕が俺に伸びる。
 首に回り、俺の身体を引き寄せる。
「もう…十分に好きになってる…」
 そして、あいつの唇が俺の唇を塞いだ。
 まるで初めてキスをした時のように。
 いや、それ以上の感動を味わっている。
 涙で湿った、塩辛いあいつのキスを受けながら、俺は「敵わねぇな」と嘯いた。
 どこまでコイツに惚れればいいのか?
 もう際限が無いほどだ。
 これからもコイツの好きでいてもらうために、俺はずっと努力をし続けるだろう。
 コイツの隣に胸張って立てるくらい、イイ男になるために。
 手始めに、うっすら開いた唇の隙間に舌を差込み、キスの主導権を奪う。
 メロメロになっちまえ、拓海。
 俺がお前に骨抜きにされちまってるみたいにさ。
 漸く取り戻した俺の半身。
 それを俺は幸福感とともに味わっていた。


2009.1.18

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