発熱の男

act.2



 真新しい携帯の呼び出し音が鳴る。
 まだ使い始めて間もない携帯の呼び出し音は、初期設定のベルのままだ。
 耳障りな電子音。
「あー、うるせぇ」
 呟きながら、音の発信源を探る。
 音はリアシートに放り投げたジャケットのポケットからしていた。
 身体を固定していたシートベルトを外し、窮屈なバケットシートから身を乗り出し、ジャケットの端を掴んで引っ張る。
 まだベルは鳴っている。
 手探りでポケットを探り、音の発信源を取り出し、通話ボタンを押した。
「何?」
 小さな液晶画面に表示されていた発信元は兄の名前。
 素っ気無い俺の返事に、電話の向こうで兄が微かに笑う気配がした。
『お前らしい返事だ』
 とでも言いたげに。
『…啓介』
「ああ。何?」
『…どうだった?』
 俺の返事に負けないくらい、簡潔な兄の問いかけ。
 それが何を意味しているのか、けれど俺にはすぐに分かった。
「……」
 ふ、と吐息のような笑みが零れた。
 目の前のステアリング。それを拳で軽く小突く。
「…どうもこうも」
 沸々と湧き上がる感情を殺さず、俺は電話の向こうの兄に伝える。
「最っ高!」
 修理が終わった俺の車だというコイツを見たときに、正直その派手な色に眉を顰めた。
 隣に並ぶ、対照的なほどに普遍的な色の兄の車と比べても特に。
 けれど、迷わずに俺は派手な真っ黄色の車のドアを開ける。
 狭いシートに収まり、キーを回す時には自然と指が震えた。
 高揚を抑えきれず。
 記憶を無くした俺に、運転の仕方など分かるはずもない。
 けれど身体が勝手にコイツを動かした。
 腕や足を動かすのに理屈はいらない。
 ただ、動けと念じるだけで良い。
 まるで手足のような感覚で車が動く。
 心臓の鼓動のようなエンジン音。そのリズムに身を任せていると、まるで自分が車の一部になったかのような錯覚さえ覚える。
『お前ならそう言うと思ったよ』
 電話の向こうで、兄が楽しげな声を上げる。
『それで、今どこにいるんだ?』
 俺は「あー」とキョロキョロと辺りを見回す。
 気の向くままに走らせてきたので、ここがどこなのかはっきりとは分からない。
「え〜と、確か…アカギヤマってとこ」
 道の途中で見かけた道路標識を思い出し答えると、兄が僅かに息を呑んだ。
「…何?」
『…いや』
 そしてまた、ふ、と笑う。
『本能と言うものか?動物の帰巣本能と同じだなと思ってな』
「は?」
 バカにされてんのか?けれど声音はそうではなく、むしろ、
『感心してるんだよ。赤城…そこはお前のかつてのホームグラウンドだ』
 誇らしげな兄の声。
「ホーム…グラウンド?」
『そこで、かつてのお前の世界が広がった。今のお前の世界も、そこで広がるのかも知れないな』
 世界。
 俺にとっては何もかもが未知の世界。
 ドアを開け、外に出る。
 街中とは違う、峠独特のしんと冷えた夜の空気。
 それを胸いっぱいに吸い込む。
 夜空を見上げれば小さな星が瞬いている。
『好きなだけ走って来い。思う存分な』
 その言葉を残し、電話は切れた。
 俺は携帯のフリップを閉じ、またジャケットのポケットに戻す。
 そして代わりに、煙草を取り出し口に咥え火を点ける。
 フゥと吸い込んだ煙を吐き出す。
 夜空にたなびく紫煙。
 それを見上げながら、俺の中で何かが目覚めたのを感じた。
 沸々と、熱い何かが。



 例えは悪いが、自慰を覚えたてのガキのように、俺は車を走らせることに夢中になった。
 取り憑かれたように明け方まで車を走らせ、夜明けに帰宅し昼間に眠る。
 事故を起こしたばかりの俺のこの行動に、親はあまり良い顔をしなかったみたいだが、全ては兄が取り成してくれた。
 そして俺に走る環境を整えてくれる。
「アニキ、こう…ガッと踏んだ時に、グワっと行く感じが気持ち悪ぃんだけど」
 よくもまぁ、こんな表現で伝わるものだと、不思議なくらいに兄は俺の言いたい事を理解し、そしてその度に車を調整してくれる。
「分かった。ちょっと待ってろ」
 そう言ってすぐに、俺の希望通りの仕上がりになって帰ってくる。
 俺が夢中にならないはずがない。
 やがて、事故を起こした冬の日より二ヶ月が経ち、季節はもう春になっていた。
 梅の花が見えたと思ったら、一気に桜が満開を迎え、うっかり桜の近くに車を止めようものなら、車体に花びらが模様となって貼りつく事が増えてきた。
 すんなり落ちればいいが、厄介なことに適度な水気を帯びた花びらは貼りつきなかなか取れない。
 峠をぐるりと走った後、フロントガラスに花びらが貼りついているのが見えた。
 風流、なんて最初は言えてたのだが、洗車の大変さにもうそんな気も失せている。
 路肩に車を止め、持参したクロスで花びらを拭う。
 ハラリと、薄紅の花びらが零れ落ちる。
 何気なくその花びらを摘み、目の前に翳す。
「キレイ…っつーより、…カワイイ、かな?」
 小さな、そして控えめな紅。
 けれど見た目に似合わず、強情で厄介で…。
「…何かに似てるんだよなぁ…」
 桜が、ではない。
 この小さな花びらが。
 じっと見つめていると、だんだん愛しさが増してくる。
 チリチリと何かが胸を焦がす。
 何に似ている…?
 いや…誰に?
 無意識だった。
 俺は指先の、その小さな花びらに口付けていた。
 そしてすぐに我に返る。
「…何してるんだ、俺は」
 自分のした事が気恥ずかしくて、ごまかすように花びらに息を吹きかけ飛ばす。
 けれど。
 俺の手が勝手に飛んだ花びらをまた掴んでいた。
「…何やってんだよ、俺」
 バカバしい。たかが花びらじゃないか。
 なのに何故、こんなにも手放すことを惜しんでいるのか。
 今度こそ、手のひらを広げ、風に任せて飛ばす。
 フワリと、儚げな花びらは呆気なく俺の手から飛んでいく。
 俺はなぜかそれから目を離せなかった。
 飛んでいく花びら。
 それにやけに胸が痛い。
 キリキリと胸を焦がす。
 この感覚は今の俺のものか?
 それとも、前の俺のものなのか…。
 感傷を消すように、煙草に手を伸ばす。
 けれど、火を点けようとした瞬間、カッと眩いライトが俺を照らした。
 眩しさに手を翳しながら光の方向を見つめる。
 そこに、一台の車。
 車種は分からないが、リトラクタブルの、古い型の車だろう。
「…何だ?」
 その車が、俺に向かいパチパチとライトを瞬かせパッシングを繰り返す。
 俺は火を点ける前の煙草を落とし、爪先で踏み付ける。
「…やろうってのか?」
 そしてパッシングを繰り返す車に向かい、ニヤリと笑んだ。
 ドアを開き、ドライバーズシートに潜り込む。
 そしてアイドリングのままだった愛車の呼吸を唸らせる。
「やってやろうじゃねぇか…」
 ドン、とアクセルを踏むと、急発進によるGが俺の身体を襲う。
 その圧力。
 締め付けられるような感覚。
 頭の中で炎が燃える。
 メラメラと広がり、全身の細胞を燃え起こし、俺を闘争本能の固まりに変えた。




 峠を走っていて、何度か仕掛けられバトル紛いの事はした。
 けれど、そのどれも俺とは勝負にならず、相手に対する侮りと苛立ちの感情しか湧かせる事が出来なかった。
 相手を抜き去った時。
 遥か後ろに相手のライトをバックミラーで確認し、それがやがて消えていく。
 それらを何度か繰り返し、俺は自分が「速い」のだと自惚れていたのかもしれない。
 後方を走る車は旧式の、音からしパワーの無い車。
 たとえコースが下りであったとしても負けるはずが無い。
 そう、思っていた。
 けれど遥か後方に置いていったと思った車のライトが真後ろで輝く。
 そして、あっと言う間も無かった。
 僅かなミスから生まれた隙を突き、数センチの感覚だけを残して横を通り過ぎていく。
 ――負ける?俺が。
 擦れ違いざまに、やっと相手の車の全貌が見えた。
 白と黒のパンダカラー。
 ガラス越しに運転席が見えた。
 はっきりとは分からないが、若そうな男に見えた。
 ソイツは真っ直ぐ前だけを見つめている。
 視線を逸らすことなく、ただ前だけを。
 俺を…見ない。
 そして呆気なく俺を抜き去った白黒パンダは、狂人としか思えない限界ギリギリのドライビングでどんどん距離を空け、やがて俺の前から消え去った。
 遠くなっていくテールランプ。
 ブレーキランプが瞬いたかと思うと、フラリと尻が揺れ、残像のような光だけを残し消えて行く。
 走りで負けた。
 その事実に不思議と悔しさは無かった。
 俺が自惚れていただけの話で、世界は広い。
 俺程度などまだまだなのだと、そう知っただけのことだ。
 だから、今俺の胸の中に広がる感情は決して怒りだとか、そんな感情ではないのだ。
 去っていく白黒パンダ。
 その後姿を追いかけながら、胸がやけに切なかった。
 遠くなっていく。
 追いつけない。
 俺を、置いていく。
 キリキリと、まるで何千本もの針で突き刺されているようだ。
 ――行くな!
 心の中でそう叫ぶ。
 実際に、遠ざかる車に向かい手を伸ばしていた。
「待ってくれ!」
 声に出していた事も無意識だ。
 消える。
 消える。
 俺を、置いて。
 胸に湧く焦燥感。
 切なさと痛み。
 必死に手を伸ばし、俺は叫んでいた。
 意味不明の三文字の言葉を。

「タクミ!」

 心が、勝手に俺にそう叫ばせていた。





 明け方に家に戻る。
 玄関の鍵を開け、「ただいま」と声をかけ家に入ると、リビングから兄が顔を見せる。
 これから出勤なのだと言う兄の服装はスーツだ。
 いつもラフな格好が多い俺とは対照的な姿。
 今から眠る俺と、仕事に向かう兄の立場も対照的。
「ただいま」
「おかえり」
 この遣り取りも、いつしか日課になっている。
 そして兄が問う。
「どうだった?」
 いつも俺の答えは同じだった。
『まぁまぁってとこ』
 誇らしげな、ガキが自慢したいのを押し殺したような、素っ気無さを装った表情で。
 けれど今日の俺は違う。
 伸びていた自惚れた鼻っ柱がポッキリ折れて、やっと自分ってのがどれほどのものかを知った。
「…負けた」
 だからサッパリとした表情で兄にそう告げた。
 すると兄の顔が険しいものになる。
「負けた?お前が?」
「ああ。あっと言う間に抜かれちまった」
「…どんな奴だった?」
 兄の眉間にはクッキリと皺が寄っている。
 俺は思い出せる限りの、見たあの白黒パンダの特徴を語った。
 そして告げた瞬間、一瞬だが兄の表情に隠しきれない驚愕が走ったのを感じた。
「アニキ?知ってる奴なのか?」
 兄の知り合いなら、あの速さも理解できるかも知れない。
 しかし、兄は「いいや」と首を横に振った。
「覚えが無いな。…まぁ、世界は広いと言うことだ、啓介。これに懲りずにまた精進しろよ」
 分別くさい言葉を残し、兄は俺の肩をポンと叩いた。
「おやすみ」
 そして会話はそれで終わりだと、暗に示す。
 直感で、兄はアイツを知っているのだと気付いた。
 そして、それを俺に言いたくないのだとも。
 俺は暫く無言のまま兄の顔を見つめた。
 けれど兄の表情はもう変わらず、穏やかなまま俺を見つめ返す。
 無駄だ、と言うことか。
 俺はハァと溜息を吐き、兄に背中を向けた。
「おやすみ」
 そして階段を上り、自分の部屋に向かった。
 散らかったままの部屋の中央に置かれた大きなベッド。
 それにダイブするように飛び込んだ。
 スプリングが跳ね、俺の身体が揺れる。
 ゆらゆら、心地よい揺れ。
 目を閉じると、あの時に見た遠ざかっていくテールランプが浮かぶ。
 あの時のように、手を伸ばし、空に向かって何かを掴む。
 思い出すと、また胸がキリキリと痛む。
 あれは誰なのか…。
 あいつは…俺は…。
 目を閉じたまま思い返していると、ゆらりと睡魔に襲われ意識が遠くなっていく。
 伸ばした手が、何も掴めずにパタリとシーツの上に落ちる。
 ゆっくりと握り締めていた拳が開いていく。
 掴めなかった。
 その事実を確認するように。
「タ、クミ…」
 自然と沸き起こった三文字。
 それを呟いた瞬間、胸に熱い感情が広がり、閉じた俺の目じりから暖かい涙の粒を零させた。



2009.1.18

1