発熱の男

act.1






 ――好きだ。
 その感情だけで恋は成り立つのだと、そう思い込んでいた。
 そうではないと知ったのは、皮肉にも俺が全てを失った、その時だった。
 間近に迫るガードレール。
 頭の隅っこで、兄の言葉が甦る。
『事故は、偶然と些細なミスが誘発して起こる。だが逆を言えば、自衛できる要素さえ踏まえておけば起こらないと言う事だ』
 お前はしないだろう、そんな事?
 信頼を含んだ兄の言葉。
 けれど俺はそれを守れなかった。
「…ゴメン、アニキ」
 小さな声で兄に謝罪する。
 そして兄より先に、謝罪したい人物が脳裏に浮かぶ。
「…ゴメン」
 目を閉じると、泣き顔ばかりが思い浮かぶ。
 泣かせて、悲しませてばかりだった俺へのこれは罰だ。
 やけに冷静な頭で、俺は目の前に迫ったガードレールを眺める。
「ゴメン…たく…」
 言葉が最後まで紡げなかった。
 訪れた衝撃が俺の言葉を塞ぎ、意識さえも奪い、そして……。

 俺は全てを失った。

 そして再び目覚めた時。
 俺の世界は真っ白になっていた。



 記憶と言うものが一個の人格を形成するに当り、どの程度の割合を占めるのか。
 それを考えた時に、完全な記憶を有した人間は100%と答えるだろう。
 けれど真っ白になった俺には、記憶なんてモノは人格を作る因子のカケラでしかないんじゃないかと思う。
 現に、今の俺の口調や仕草は昔のままだと兄が言う。
 鏡の前の「俺」だと言う顔にようやく慣れ始めた二週間目。
 もう日課になってしまった、目だの頬だの口だの、あちこちを動かしながら、確かにこれが俺の顔なのだと確認をする。
 一しきり動かしてから、
「相っ変わらずナマイキそうなツラだよなぁ」
 その呟きさえも定番だ。
 そしてそれを聞いた兄が、
「よく自分を分かってるじゃないか、啓介。お前は確かにナマイキな奴だったからな」
 苦笑混じりにそう答えるのもいつもの事となっている。
 兄から聞く「啓介」の話。
 今の俺は「ふぅん」と、まるで他人の事を聞くような冷めた気持ちで聞いている。
 実感が無い。
 俺が「啓介」なのだと言われても。
 俺が車で事故ったのは今から二週間ほど前。
 幸いにも大きな事故ではなかったらしく、腕と足に痣は出来たらしいが大きな怪我は無かった。
 けれど、目覚めた時の俺に以前の記憶は無かった。
 俺が誰なのかも、目の前で心配そうにする人物が誰なのかさえ。
『アンタ誰?』
 目覚めて開口一番。
 そう告げた俺に、兄だと言う男は笑った。
『何を言ってるんだ、啓介』
 その言葉で、俺は「啓介」と言う名前なのだと知った。
『俺、啓介ってんだ…』
 ケイスケ、ケイスケ…。
 心の中で何度も呟くと、じんわりとその名前が自分に馴染んでいくような気がした。
 けれどやはり、着心地の悪い衣服を纏ったような気分はまだ残る。
『まさか…冗談じゃないのか?』
 一気に真剣になった兄の顔を俺はやけに冷静なまま見つめていた。
『まぁ、冗談とかじゃねぇみたいよ。俺はアンタが誰だかわかんねーし、俺が誰だかもわかんねーみたいだ』
 強張っていた兄の顔が、徐々に厳しさを増していく。
 そして深く眉間に皺を刻んだまま目を閉じ、『そうか…』と呟いた。
『これも運命か…』
 自嘲を含んだ兄の表情と、あの時呟かれた言葉。
 その意味は分からないながらも、俺は漸く自分が大変な事になっている自覚が生まれた。
 俺は真っ白になっている。
 過去はなく、今しかない。
 目の前の鏡の中の、見覚えの無い自分の顔。
 鏡の中のソイツに問う。
 小さな、誰にも聞こえないような微かな声で。

「俺は…誰だ…?」

 知りたい、のではない。
 ただ、漠然と何かが足りなかった。
 その何か。
 その何かが大切なものだったと言うこと。
 それだけは確かだった。




 目を閉じると、俺じゃない俺の声がする。
 心の奥底から何かを嘆き、誰かの名前を叫ぶ。
 呼ぶ。
 呼ぶ。
 誰かの名を。
 擦り切れそうなほどの切ない叫び。
 俺の中に、ソイツの気持ちが伝わる。
 自然と、同じ気持ちで誰かの名を呼ぶ。
 手を伸ばし、届かない誰かを求める。
 大事すぎて、大事すぎたからこそ、大切にする方法が分からなかった。
 俺は間違えた。
 間違えたんだ。
 だから…。
 目じりの端から涙の雫がツゥっと落ちる。
 泣いている自覚は無かった。
 みっともないとか、そんな事は思わない。
 何度も俺が泣かせた。
 今度はきっと、俺が泣く番なのだろう。
 だから……。

 名を呼ぶ。

 何度も。






 ギシリとベッドを軋ませ身を起こす。
 ハァ、と溜息を吐けば、咽喉が渇いて掠れているのに気付く。
 そして頬に手をやれば濡れていることも。
「……またか」
 ゴシゴシと乱暴に目を擦る。
 眠りながら泣いていることに気付いたのは、意識が戻ってすぐの事だ。
 時折り、意味不明の言葉を叫んでいるらしいことも、兄に教えられ知った。
 夢の中で俺は何かを見ているのだろう。
 それはきっと、過去の俺の残像。
 しかし目覚めると、その残像はかき消え、真っ白なままの俺しか残らない。
 胸の中のモヤモヤを消すように、ガシガシと髪を掻き毟る。
「考えても仕方がないか…」
 忘れてしまったものは仕方が無い。
 いつか思い出すだろう。
 俺はベッドから立ち上がり、咽喉の渇きを癒すために部屋を出た。
 事故に遭ったとは言え、打ち身程度の傷であった俺は、自宅療養を続けている。
 少しずつ外出を繰り返しながら、記憶の無い俺は今の俺に慣れるようとしている。
 いまだ、昔の知人に出会うと戸惑うことも多いが、大体の人間が俺が事故に遭った事を知っている。
 あっけらかんと、
『記憶がねぇんだよ」
 そう告げると、気まずそうにあまり語らずに立ち去った。
 下手に同情めいた対応も苦手だが、そんな、まるで今の俺を腫れ物にでも触れるように扱われると、理不尽な怒りを覚える。
 記憶が無いのは今の俺のせいではない。
 なのにまるで「俺」が罪悪のように扱われてしまう、その事実に。
 しかし、きっと罪なのだろう。「俺」は。
 彼らの知る「啓介」を消した奴として。
「ケイスケ、ねぇ…」
 階段を降りながら、俺は情報と知っている「高橋啓介」に思いを馳せる。
 ヤンチャで、短気で、けれど魅力的で。
 つまりはただの我侭な小僧だって気もするけどな。
 ソイツを皆に慕われていたらしい事は、知人らしい人間の態度から分かる。
 しかし、皆の慕う啓介は、夢の中で酷く何かを求め、悔やみ、涙を流している。
 まだ涙に濡れた目じりを拭いながら、俺は天井を見上げた。
 まるで、そこに「啓介」が潜んでいないか、探すように。
「何がそんなに悲しいのかねぇ…」
 分からない。
 けれど、漠然と「啓介」が消えたのは、この感情ゆえかも知れないと、そう感じた。


 リビングに降りると兄がソファに座って新聞を読んでいた。
 テーブルの上に3紙の新聞。
 活字嫌いの俺には信じられないことだが、この兄は毎朝新聞を4紙読んでいる。
 どの記事も似たようなもんだろ、と俺は思うのだが、兄によれば同じ記事でも各紙によってアプローチが違うらしい。
『よくわかんねぇ…』
 そう、不味いものを飲み込んだような気持ちで呟くと、兄は笑った。
『お前らしいな』
 と。
「アニキ、…はよ」
 ふわぁと欠伸をしながら、キッチンへ向かい冷蔵庫の扉を開く。
 ミネラルウォーターのボトルを取り出し、コップなど使わずそのまま飲み始めると、兄が溜息を吐き立ち上がった。
 そして俺の前に立ち、コップを差し出す。
「啓介。立ったまま飲むな。それとコップを使え。行儀が悪いだろう」
 注意され、俺はホッとする。
 兄は「俺」を「啓介」として見ない。
 今の「俺」として見る。
 そんな兄の態度は、思ったよりも俺にとって有り難いらしかった。
「めんどくさいんだよ。いいだろ、別に」
 兄の注意を聞かず、そのままゴクゴクと飲んでいると、兄は「しょうがないな」とまたリビングへと戻り、新聞を広げる。
 そして全く俺に興味が失せたかのように新聞を読んでいた兄が、ふいにまた口を開いた。
「啓介」
 俺は振り向いた。
「何?」
 兄の視線は俺ではなく、やはり新聞に向いている。
 俺を見ずに、兄は言った。
「お前、走りたいか?」
「…は?」
「いや…」
 そこで漸く兄は新聞をバサリと閉じた。
「お前の車が修理から戻ってきたんだが、お前、乗りたくないか?」
「…え?」
 ドクンとなぜか心臓が戦慄いた。
 怖れではない。
 歓びでだ。
「でも…俺、事故ったんだろ?」
 そうだ。俺は車を運転していて事故を起こした。
 その情報は何度も聞いている。
 普通は、もう車に乗せようとは思わないだろ。
 しかし、
「俺は今のお前がどんな走りをするのか、純粋に興味がある」
「けど…」
 どうすれば良いのか。
 常識的には、俺は乗らない方が良いのだろう。
 けれど、頭の奥から「走りたい」と、叫んでいるのは誰だ?
「俺」か?
「啓介」なのか?
「…乗れ、んのか、俺?」
 どちらでも構わない。
『俺』が走りたいのだ。
「乗れるだろう。お前は元から頭ではなく、運動神経と反射神経だけで走ってたからな」
 兄の手が動き、何かを俺に向かい放り投げる。
 放物線を描き、銀色の何かが俺に飛んでくる。
 俺はそれをしっかりとキャッチした。
 手のひらを開き、それが何か、確認するよりも答えは知っていた。
 鍵、だ。
 俺の車の。
 馴染んだ手の感触。
 それを手にした瞬間、俺の中で「啓介」の声がした。
『俺はこれを知っている』
 ゾワリと、脊髄を通り何かが目覚めるような気がした。



2009.1.18

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