発熱の男

act.4






 俺はこの道を知っている。
 秋名へと走りながら、俺はその確信を強めていた。
 空がゆっくりと白み始める。
 眩い光が地平線の境目から俺を射る。
 その眩しさに瞳を眇め、俺は思い出していた。
 そうだ。
 あの時も、そうだった。
 この時間帯。
 秋名で。
 俺たちはバトルした。
 初めて会った時も。
 そして最後に会った、あの日も。


 好きだと、そう告白したのは俺の方からだった。
 最初は、ムカつく奴だとしか思えなかったアイツ。
 それがいつの間にか、あいつが他の奴に笑いかけてたり、親しげにしていると胸の奥からどす黒いものが湧くようになった。
 それが恋だと、認めるまでに時間がかかった。
 ライバルだと思っていた相手に、欲情しているのだと言う事実に。
 感情を自覚した俺は、ゆっくりと、絡め取るように拓海を落とした。
 俺にとっては幸いなことに、そして拓海にとっては不幸なことに、俺は恋愛事の駆け引きには慣れていた。
 ハシカみたいな恋愛経験しかないあいつを、陥落するのはゲームのようで楽しかった。
 あいつが俺を嫌っていない事は態度から察せられた。
 時に優しく、時に意地悪して、あいつをかき乱し、そしてさりげなく性的な意味合いを込めあいつに触れる。
 最初は戸惑っていたあいつの顔に、どんどん恥じらいが浮かんでくる。
 どんどん、俺を意識していくのが手に取るように分かった。
 肩を抱き、耳元で名を囁けば、あいつの身体が真っ赤に染まってビクリと跳ねる。
 頃合を見はかり、俺は囁くだけで良かった。
『好きだ』
 と。
 免罪符のような言葉を。
 告白と同時に身体も手に入れ、俺は満足した。
 あいつの全てを手に入れたような、そんな錯覚をしていたのだ。
 確かに、あいつも俺を好きでいてくれたのだろう。
 だが、どこか俺の中に、あいつを騙したのだという罪悪感めいたものを抱えていた。
 いつか、あいつが本当に好きな相手が現れるのではないか?
 そう、いつも怯えていたのかも知れない。
 だけど愚かな俺はそれを認めることが出来なかった。
 女のようにあいつを束縛し、そしての立場が、優位であることを無駄に誇示した。
『控えのエース』
 とドライバーとしてのあいつを揶揄し、俺の方がチームの中でも、恋人としても立場が上なのだと…そうあいつに常に見せ付けてきた。
 負けん気は強いけれど、礼儀などをわきまえたあいつは、そんな俺に腹を立てながらも、年齢のこともあってそれを受け入れてくれた。俺の高圧的な態度に膨れながらも、けれど俺の方が経験で上だからと。
 歪でありながら、それでも安定を保っていた関係が壊れたのはあの日。
 東堂塾とのあのバトル。
 プロのレーサーが出てきたあの一戦だった。
 バトルの相手として、兄が選んだのは俺ではなく拓海だった。
 俺は…錯覚していたのだ。
 拓海が俺を甘やかし、俺が優位である事を受け入れてくれただけなのに、俺は自分の方が「強い」存在なのだと。
 拓海を見下していた。
 そうだ。今ならそれが分かる。
 本当は対等な立場であったのに。
 自分ではなく、見下していたあいつが選ばれたことで、俺の中の何かが壊れた。
 あの日からあいつは、俺にとって恋人ではなくなった。
『敵』になったのだ。
 頻繁だったあいつとの連絡も稀になり、会えば乱暴に身体を繋げるだけで会話も無い。
 何度ももの言いたげなあいつの唇を塞ぎ、
『黙れよ』
 と睨んだ。
 苛立っていた。あの頃は。
 無力な自分と、どんどん成長を見せるあいつに置いていかれる恐怖とを持て余し。
 好きだから…恐かった。
 俺は…臆病だったのだ。
 弱い自分を認めることが出来ず、あいつに手を離されることは恐くて、自分の感情をあいつにそのままぶつけた。
 最初は拓海も耐えていた。
 悲しそうな目で、俺の怒りが静まるのを待っていた。
 けれど俺は変わらなかった。
 どんどん、拓海に対する甘えが酷くなる。
 プロジェクトも終わりを告げる頃に、俺は初めて拓海を殴った。
 愛しくて。けれど憎らしくて。
『お前はただ黙って俺に足を広げてればいいんだよ!』
 成長するあいつ。
 プロのオファーも、何件かあいつの元に届いている事も人伝に聞いていた。
 もちろん俺にもオファーはあったが、俺とあいつでは戦うステージが違う。
 離れていく。拓海が、違う世界へ。
 俺を置いて遠ざかろうとしている。
 それが許せなかった。
 殴り、無理やりに屋外であいつの身体を開き、暴力としか言えない行為でセックスを強要した。
 俺の下で揺さぶられながら、あいつはただ涙を零していた。
 そして身体を離した俺に、泣きながらあいつは言ったのだ。
『俺は……あんたの玩具じゃない』
 胸が痛んだ。
 初めて見せた拓海の弱音。
 それに反省し、手を伸ばしゴメンと謝り抱き締めようとした。
 けれどそれはもう遅かったのだ。
『もうたくさんだ!あんたなんて…もう好きじゃない!』
 殴られた。
 癇癪を起こした子供のように、何度も何度も泣きながら殴られて、俺は自分がどれだけ拓海を苦しませてきたのかを漸く悟った。
『どっか行けよ!もう…俺の前に二度と顔を見せるな!!』
 ふらつく身体で立ち上がり、駐車してあったハチロクに乗り込み走ろうとする。
 俺は追いかけ、運転席側の窓に張り付いた。
『拓海!』
 惨めに、縋りつく俺にあいつは睨んだ。
 とても憎い『敵』を見るように。
『あんたなんか…いなくなってしまえばいいのに』
 そしてそう告げた。
 涙を流しながら、そう言ったのだ。
 俺は窓から手を離した。
 呆然と、走り去るハチロクを見送ることしか出来なかった。
 俺は間違っていた。愚かだった。
 そのことに気付くには、全てが遅すぎたのだと、漸く気付いたのだ。


 あいつの言葉がゆっくりと浸透してきて、絶望が俺を染め始めた頃、あいつからバトルの申し出があった。
 場所は秋名。
 初めてバトルしたあの日のように、同じコースで同じ時間帯。
 秋名で戦う。
 それが俺にとって不利なことは言うまでもない。
 けれど俺には頷くしかなかった。
 そしてあいつの望み通り、『敵』の顔をしたあいつとバトルした。
 俺を置いて行くテールランプ。
 あの時も。今も。
 変わらず俺は拓海に置いていかれる。
 無情に俺を引き離していくハチロクに向かい、俺は実感した。
 あいつに、俺はもう必要の無い存在なのだと。
 いや、始めからあいつに俺は必要なかったのだ。
 必要だったのは俺。
 だからあいつを巻き込んで、傍にいたいと縛りつけた。
 まるで心臓を貫かれたように胸が痛んだ。
 そして。
 涙で霞んだ視界に、迫るガードレール。
 そこで、あいつの望み通りに『俺』は消えた。
 消えたはず…だったのに。
 信号待ちで停車している間、俺はステアリングに額を埋め唇を噛み締める。
「皮肉だな…『俺』を消したのもアイツなら、『俺』を引き戻したのもアイツなんてな…」
 秋名に行ってもあいつは喜ばないだろう。
 またあの憎しみの目で睨まれるだろう。
 俺はそれだけのことをあいつにしてきた。
 だけど…。
 だけど。
「…拓海」
 心が、会いたいと叫ぶ。
 たとえ最悪の結末だったとしても。
「拓海」
 ただ、会いたかった。
 




 ほら、もうすぐだ。
 俺は目を閉じてアイツを待つ。
 アイツがここを通るタイミングはきっかり同じ。
 エキゾーストが聞こえたと思ったら、甲高いスキール音。
 そして、1、2、3のタイミングでライトが背後から現れる。
 バックミラーに、二つの小さなライト。
 白いボディに黒のボンネット。
 しばらく直線が続く道の真ん中で俺はアイツを待っていた。
 見えた瞬間に、エンジンを噴かす。
 バトル開始直前のように唸らせる。
 バックミラーの中の、ハチロクが俺のFDを認めた瞬間、一瞬挙動がフラリと揺れた。
 しかし、すぐに躊躇いを払拭するようにスピードが加速した。
 ――ああ。それで良い。来いよ。
 俺の顔に笑みが浮かぶ。
 そうだ。それで良い。
 俺の好きなフジワラタクミはそう言う奴だ。
 どんどん迫る白黒の車体。
 ヘッドライトの光が俺のテールランプと混ざった瞬間、俺もまた走り出す。
「バトルの開始だ…」
 過去、二度の敗北。
 そしてあの事故で中断されてしまった俺たちのバトル。
 そうだな。藤原。
 俺たちは恋人よりも先に、「ライバル」だった。
 だからまた、「ライバル」から始めよう。
 敵であり、お互いを高めあう仲間として。
 自然と、俺の顔に笑みが浮かぶ。
 アイツと走るのが好きだ。
 ずっと、一緒に走って行きたいと、そう感じたのが俺の恋の始まりだったことを思い出していた。


 好きだったからこそ、あいつの前ではカッコいい俺でいたかった。
 好きだからこそ、あいつに勝ちたかった。
 俺はガキで、臆病で、だから大事なことを見失って、大切なものをこの手から失くしてしまった。
 またこの手に戻るとは思わない。
 それだけの酷いことを俺はあいつにしてきた。
 もう、恋人という関係に戻れなくても良いのだ。
 けれど、「ライバル」と言う関係だけは譲れない。
 俺は速くならねばならない。
 あいつに脅威を与えるぐらい。
 前は怯んでいたタイミング。
 もう怯まない。
 ピリピリと感覚の全てが目覚める。
 死と、生の限界のタイミングを計りFDを操る。
 背後に迫るヘッドライト。
 ぴったりと、テールトゥノーズの状態で俺たちは走っている。
 同じ限界を俺たちは見ている。
 共に走りながら、あいつがこのバトルを楽しんでいるのが分かった。
 理屈じゃない。
 視界が冴え渡り、飛んでいる埃の一つ一つさえクリアに見える。
 マシンの内部で、金属板が軋む音を、感覚を味わっている。
 シートの下から伝わるFDの鼓動。
 俺と同じで、アイツと走れることを楽しいと全身で叫んでいる。
 ぐ、と踏んだ瞬間に伝わるタイヤのグリップ。
 昔、妙義のGTR相手にタイヤのグリップを温存する技術を誇らしげに語ったことがあった。
 けれど、アイツ相手に、温存だなんてモノは不可能だ。
 全力で行かないと負ける。
 そう言うオーラが背後から伝わっている。
 かつてのどんなバトルよりも厳しく、そしてかつてのどんなバトルよりも楽しい。
「お前も…楽しいって思ってんだろ?」
 分かるよ、それくらい。
「お前の何が分かるって、言ったよな…」
 けど、分かる。今なら分かる。
 生身のお前は意地っ張りで嘘吐きだったけど、お前のマシンは正直だ。
「ずっと…」
 俺は前方を睨む。
 道の先の、俺たちに繋がる未来がそこにある。
「一緒に走って行こう、拓海」
 俺の呟きに答えるように、アイツのハチロクが唸った。
「行こうぜ…ずっと」
 この先の未来も。


2009.1.18

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