発熱の男
act.3
夢の中でも、遠ざかるテールランプを追いかけている。
離れていく。
届かない。
切ない気持ちで目が覚めた。
頬に手をやると、そこは涙で濡れている。
眠りながら泣いていたのだ。
俺は乱暴にそれを手の甲で擦り、ガリガリと髪を掻き毟った。
「何がそんなに悲しいんだか…」
呆れたように吐き捨てるが、どれだけ切ない思いを感じていたのか、覚えているだけに気持ちが苦い。
時計を見れば、まだ眠り始めて1時間も経っていない。
しかし寝なおす気分にもなれず、顔でも洗おうと階段を降りていた時に、その声は聞こえた。
「啓介にはもう関わるなと言ったはずだ!」
俺には見せない、酷薄な兄の声。
冷たく、厳しい、確かに兄の声だった。
俺は息を飲み物陰に隠れる。
そっと声のしたリビングを覗き込むと、イライラとした表情で兄が立ちながら携帯で誰かと話していた。
「…それは詭弁だ。お前は…今の啓介の記憶に残りたかったんだろう?」
瞬間、俺の脳裏に浮かんだのはあの遠ざかるテールランプ。
白黒パンダカラーの車の姿。
兄はアイツを知っている。
それは今、確信に変わった。
「いいな。もう二度と啓介の前に現れるな」
ドクドクと、心臓が鳴った。
知りたい。
アイツが誰なのかを。
昔の俺にとって、どんな奴だったのかを。
そして今の俺が、こんなにも忘れられない理由を。
「お前はもう啓介には必要の無い存在だ」
苛立だしげに、兄はウロウロとリビングを歩きながら電話をしている。
いつも悠然とした姿とは無縁の、余裕の無い姿だ。
「分かったな、藤原」
フジワラ…。
じん、と胸の中にその名が浸透する。
それは心臓を中心に、血管を通って全身を巡り、俺の中に「フジワラ」と言う存在が刻み込まれる。
「もう…関わるな」
俺は兄に気付かれないよう、リビングを離れた。
「それがお互いの為だ。お前と、啓介の…」
フジワラ…。
フジワラ。
俺は部屋に戻り、再びベッドに潜り込む。
今の俺には分かっている。
俺の腕は何かを掴みたがっている。
代わりのように、傍らの枕を掴んだ。
俺の腕は、誰かを抱き締めたがっている。
ギュッと。一つの生き物であったかのように。
抱き締め、もう離したくないと囁きたがっている。
胸が締め付けられるように痛かった。
けれど、痛いのに甘さがある。
「…フジワラ…」
さっき知ったばかりの4文字を呟くと、その甘さが増した。
「フジワラ……」
そしてあの時、突然沸き起こった意味不明の3文字を付け加えると、特に。
「フジワラ…タクミ…」
俺はもう泣くのを止めることはしなかった。
泣きたい気持ちを、ごまかすことも。
白黒パンダカラーの車はもう俺の前に現れなくなった。
あの一度きり。
たまに似た車を見かけるが、アイツではない。
わかる。
アイツからはオーラを感じた。
何気なく転がしてるだけでも、それは伝わる。
真夜中、アイツがいないかと何度も峠を攻める。
いつしか赤城を飛び出し、妙義に碓氷。色んな場所へと遠征した。
そして少しずつ、俺に情報が集まってくる。
妙義を走っていると、黒のGTRが仕掛けてきた。
面白い相手だったが、アイツに感じたほどのオーラは無い。
コーナリングで差を付け、相手を引き離す。
バトルを終え、夜空を見上げながら一服していると、GTRのドライバーが話しかけてきた。
悔しそうに、俺の名を呼び、
「事故って腕が鈍ってると思ったのにな。だが、カラダは覚えてるってことか?まさかまたここで負けるとはな」
どうやら以前にバトルした相手らしい。
記憶が無いことを伝えると、相手は言葉を失い「負けた理由がわかった…」と苦笑いを浮かべた。
「なぁ」
俺は欲しかった。
アイツに繋がる情報。
兄からは得られない事は知っている。
兄のテリトリーの中でも、それは同じこと。
だったら飛び出せば良い。
「白黒パンダカラーの車を知らないか?」
そしてそこで聞けば良い。
アイツの事を。
そしてやっと俺はアイツ切れ端を掴んだ。
「ハチロク?」
「ああ。お前が言ってるのは秋名のハチロクの事だろう?赤城で、記憶が無いとは言えお前を負かすような化け物。アイツ以外に考えられないからな」
「秋名の…ハチロク…」
俺の反応に、中里と名乗った男が不審気に眉を顰める。
「おい、高橋涼介にも聞いたんだろう?何も言わなかったのか?」
「…ああ。知らないってさ」
ドン、と中里がGTRの窓を叩いた。
走りと同じ、熱い気性らしい。
「知らないはずが無いだろう!」
…だろうな。
俺は分かっていながら、「さぁな」と煙草の煙を燻らせる。
「お前ら、同じチームで走ってたんだろうが!」
ピクリと煙草を持つ俺の指が震えた。
「藤原はお前に勝って、あの高橋涼介にも勝って…それで高橋涼介が作ったチームにスカウトされて走ってたんじゃないのか?!ダブルエースとして!」
フゥ、と煙を吐き目を閉じる。
遠ざかるテールランプ。
もう、逃がさない。
「藤原…フジワラ…タクミ?」
「ああ。そうだ。アイツ、前に会ったときに言ってたぞ。まだまだだってな。お前が速いから、置いていかれないようにするだけで精一杯だってな。お前にだけは負けたくないって、そう言ってたのに…」
全部忘れちまったのか?!と中里が嘆く。
俺は煙草の火を消し、笑った。
やっと掴んだ。
アイツのカケラ。
「ああ」
中里に向かい微笑む。
「全部忘れちまったんだよ。だからさ、頼む」
俺から逃げるな。
俺を、置いて行くな。
タクミ。
「俺に…フジワラタクミのこと…全部教えてくれないか?」
たとえ。
そう。
たとえ先に手を離したのが、俺なのだとしても。
フジワラ…藤原拓海。
誰もが声を揃えて言う。
『お前がアイツを知らないはずが無い!』
と。
そして、
『アイツはお前のライバルだろう?!』
と、そう。
俺を初めて負かした相手。
後に同じチームで、俺はヒルクライム。アイツはダウンヒルと、同士として戦ったが、約束していたのだと、教えてくれたのは埼玉のハチロク乗り。秋山渉だ。
『お前、嬉しそうに言ってじゃないか。プロジェクトが終了した頃に、もう一度アイツとバトルするんだって。今度は負けねぇって、俺にそう言ってたじゃねぇか!』
プロジェクトD。
その存在は兄も教えてくれていた。
兄が作り上げたチーム。兄の夢を体現するための。
一年限定のプロジェクト。
それは無事に満足のいく形で終了を迎え、そして直後。
俺が事故を起こし今の状況になっている。
アイツとのバトルの約束。
俺はそんな事も忘れている。
だったら、あの時アイツが仕掛けてきたのは、俺との約束を果たす為だったのだろうか?
けれど、今それは問題ではない。
俺はアイツに会いたかった。
胸の奥底がアイツを求める。
そう。
藤原拓海。
その名を持つ、胸に去来する影を。
俺は油断していたのかも知れない。
兄の忙しさを。
そして峠から離れたと言う事実に。
けれど、兄の情報網は俺の予想を超えていたらしく、俺は「フジワラタクミ」を探していると言う事はすぐに兄の耳に入ってしまった。
拓海の存在を知って一週間も経たない頃だった。
明らかに寝不足と分かる兄が、俺を待っていた。
忙しく疲れているのだろうに、兄は俺を寝ずに待っていた。
そして兄は待っていたとは一言も言わなかった。
俺の全てを見通しているかのような眼差しで、静かな声音でこう言った。
「最近、色んな峠に出入りしているらしいな」
俺は怯まなかった。
いつか、兄と対決しなければいけない事を、あの夜、兄の電話の内容を聞いた時から察していたのかも知れない。
「ああ。前の俺の知り合いってヤツがいっぱいいるからな。楽しいぜ?知らねぇ俺の事をいっぱい教えてくれる」
兄が視線を逸らした。
「記憶を失う前のお前を…知りたいのか?」
ガリガリと、髪を掻き毟り兄の前に位置するソファに乱暴に座る。
「知りたい…って言うより…俺は知ってなきゃいけないんじゃねぇのか?…アニキ?」
「知らないままの方が…良かった事もあるとは…思わないのか?」
そう…なのかも知れない。
真実が自分に優しいとは限らない。
けれど心が叫んでいるんだ。
アイツを欲しいって。
傍にいて欲しいって、ガキみたいに泣きじゃくって。
「前の俺が…どんなヤツだったか、何をしたのか…それは今は問題じゃないんだ。俺は…」
俺はシャツの胸を握り締める。
心臓が痛いかのように。
「…今の…俺がさ、知らないままでいることに耐え切れなくなってきちまってんだよ。
頭ん中に残像みたいに浮かぶんだ。知らねぇはずの声だとか、顔だとか。笑い顔もあるけど、一番多いのは泣き顔だ。
俺が…もし、前の俺がアイツをそれだけ泣かせたんだったら…俺は償わなきゃならない」
兄が息を呑んだ。
そうだ。
拓海の名を聞いてから残像のように、見知らぬ人間の姿が脳裏を過ぎる。
その度に俺の胸は切なく痛み、目からは涙を溢れさせる。
「…償えるものではないとしたら?」
「どう言う意味だよ」
「…お前とあいつとの関係はもう切れている。切ったのは…前のお前だ。啓介。
なのに今のお前が、また切れた糸を繋ごうとするのか?それがあいつの傷を増やすことになるとしても?」
俺は言葉に詰まった。
「だったら…それはお前のエゴでしかない。だから、忘れた方が良い。それがお前のためでもあるし、あいつのためでもある」
忘れる?
それが出来ないから苦しんでいるのに?
「エゴでもいい!わがままだろうと何だろうと、俺はアイツを知りたい!知って…それから…」
「それで?また傷つけるのか?」
「違う!そうじゃなくって…ただ、俺は…」
ギュッとシャツを掴む指から血の気が抜ける。
力を込めすぎて真っ白だ。
「…傍にいて欲しい。優しくしたいんだ。ずっと…笑っていて欲しい。ただ、それだけなんだ」
俺の叫びに、兄が溜息を吐き顔を仰向ける。
疲れたように前髪を掻き上げ、そしてまた溜息。
「…本当に変わんねぇなぁ、お前」
そして再び俺の顔を見たとき、兄の顔は、出来の悪い弟を見守る兄のものになっていた。
苦笑いで、仕方ないなと俺を見る。
「基本我侭だよお前は。相手の都合や気持ちも推し量らず、自分の感情が優先でそれを押し通そうとする。周りはそれに振り回されていい迷惑だ」
貶しているはずなのに、兄の顔に浮かぶ表情はそう言っていなかった。
「だが…概ねお前のその行動は正しい。俺たちが考えすぎて動けないでいても、お前は違う。動こうとする。たとえどんな壁があろとな。ブチ当ることも恐れず…羨ましいくらいだ。
だが…」
そこでまた、兄の顔が厳しいものになる。
「お前のそんなところが、前は災いした。それで今のお前がある。それだけは覚えておけ、啓介」
そして兄は、もう言い尽くしたとばかりに息を吐き背もたれに身体を預けた。
「…いい…のか?」
「良いも悪いも…お前は聞かないんだろ?だったら仕方が無い。そしてアイツに会ったら、俺の分も謝っておいてくれ。
…意地悪して…すまなかった、ってな」
そして兄は俺の前に一枚の写真を見せた。
「お前が知りたかった真実だ」
その写真には俺が写っている。
バカみたいに、幸せそうに笑う俺の姿。
そしてその傍らには、一見儚げな容姿の少年が写っていた。
ほんの少し不機嫌そうな顔。
俺に肩を掴まれ、明らかに無理やり一緒に写らされたというのが分かる。
けど、嫌なわけではないのだと、胸の奥の誰かが教えてくれる。
儚げに見えて強情で。
大人しく見えて凶暴。
そして無愛想な顔の裏に、豊かな感情を隠している。
――ばぁか、照れてんなよ。
そう彼に向かい微笑んだのは誰だ?
――照れてませんよ。何言ってるんですか?
拗ねたように、そっぽを向く顔を引き戻し、そしてまた笑う。
――ごまかすなよ。怒ってるわけじゃないだろう?分かるよ、お前のことくらい。
――俺の、何を分かってるって言うんですか…。
愛しいだとか。
好きだ、とか。
そんな感情だけで恋を続けられるほど、俺たちは単純な関係ではなかった。
だけど、永遠に続けたいと思った感情だけは真実だ。
――分かるよ、お前のこと。分かりたいって思ってる。だから…言えよ。
その腕を掴み、華奢ではない骨ばった身体を腕の中に閉じ込め、離したくないと、そう思った気持ちも、また。
――俺のこと、好きだろう?藤原?
俺の口から名前が零れ出す。
「フジワラ…タクミ…」
兄がゆっくりと頷いた。
俺の隣のあいつを指差した。
「そうだ。これがお前が知りたがっていた藤原拓海だ」
そして、と兄が言葉を次ぐ。
「この藤原が…お前の記憶を失わせた原因でもある」
俺は咄嗟に兄の顔を見る。
兄の表情に冗談のカケラは一切も無く、信じられない気持ちで見つめる俺に、言い聞かせるようにはっきりと頷いた。
「お前が記憶を失ったのは藤原のせいだ」
俺は視線をまた写真に戻す。
仏頂面のあいつの姿が見える。
そっと手を伸ばし、写真のあいつに触れた。
瞬間、胸に湧いた切なさは真実なのに。
俺は何も知らない。
今の俺は、何も。
――俺の何を分かってるって言うんですか?
分からない。
今の俺には、何も。
ただ、気持ちだけは前と同じだ。
知りたいと思う。拓海のことを。
だから……。
「秋名にいるよ、あいつは」
俺はじっと兄の声を聞いている。
「早朝に豆腐の配達に行くとかでね。だいたい今頃になると走っているんじゃないのか?」
窓の外を見れば、もう朝日が昇ろうとする時刻だ。
「俺はお前が藤原と会うことを良い事とは思わない。
だが…どれだけこっちが諭そうと、どうせお前は聞かないんだろう?」
俺は頷いた。
「俺…行く」
キーを握り締め、立ち上がる。
向かう先は玄関だ。
「藤原に会ってくる!」
振り向かずに玄関のドアを開け、飛び出すと言った表現が正しいくらいの勢いでガレージの車に向かう。
ドアを開け、キーを差込みセルを回す。
唸るエンジン音。
逸る俺の気持ちとシンクロするように、車は「早く」と俺をせかす。
目を閉じ、シートに身体を預け、俺は意識を車に沈ませる。
「お前も…アイツに会いたいだろう?…FD」
そうだ。俺はかつてコイツをFDと読んでいた。
そしてあの白黒パンダの車。
「アイツと、走りたいよな。あの…ハチロクと」
塞いでいた蓋が開き、記憶が零れ出す。
――俺の何を分かってるって言うんですか?
分からない。何も。
だから今から知りに行く。
2009.1.18