涼介さんはムッツリだ。
そして「俺」バカだ。
前髪をしっとり濡らした俺に、担任の先生がからかうように言った。
「何だなんだ藤原。濡れてるぞ?雨でも降ってんのか?」
ハハハ、と笑う先生に、俺は一瞬頷きそうになった。
先生の軽口に、ギュっと拳を固め、ピキンと空気を張り詰めた涼介さんに、
『ええ、血の雨が』
と答えそうになったからだ。
…涼介さん。
濡れてるのは髪で、決して下のハナシじゃねぇから。
勝手に勘違いして、勝手な想像で、いつも冷静なこの人が瞬間湯沸かし器みたいにすぐ怒る。
俺が思うに、涼介さんのコレはもう病気だ。
名前を付けるなら、恥ずかしいけど「俺」病。
涼介さんなら「恋の病」なんて付けるんだろうけど、さすがにそれは乙女じゃないんだから恥ずかしすぎる。
俺はプルプル小刻みに震える涼介さんの拳を、先生に見えないように握り、チラリと目線だけで涼介さんに落ち着くように促した。
涼介さんは不服そうだったけど、大きく溜息を吐いて落ち着かせ、そして担任の先生に向かい……ぞっとするような笑みを向けた。
「じゃぁ…始めましょうか、先生」
にっこり、微笑むその顔は悪魔の微笑。
三者面談の主導権を、涼介さんが握った瞬間だった。
ガラガラと教室の扉を開けて、廊下に出た俺はヘタリ込みそうなほどに疲れていた。
たぶん先生も教室の中で机に突っ伏し、倒れていることだろう。
そして肝心の涼介さんは、まだまだ不完全燃焼のようで、イライラとした空気をかもし出している。
「あんなセクハラ教師が担任だと?しかも無責任……信じられねぇな」
信じられねぇのはこっちだ。
何であんな言葉くらいでセクハラと勘違いするのか。
そしてあの優秀すぎる頭脳から出てくる嫌味の連続。
『藤原は就職希望だったな?もう内定も出ているようだから、特に話すこともないな』
そう言った瞬間、涼介さんの額に青筋。
『…ずいぶん無責任な発言ですね?』
そこから始まる、立て板に水のような理論が展開した。
『確かに、一生徒に過干渉すぎるのは問題ではあると思いますが、かと言って責任逃れとも取れるその発言の理由にはなりませんね。
あなたは一教師として生徒の成長、進路に於いて全てに等しく責任を負うべきです。あなたのその突き放した発言は職務の怠慢と言っても過言ではありません。
そんなあなたのような教師が増えたことが、昨今の教育問題の禍根となっているのではないですか?』
詳しくはもう覚えていない。
何で、状況報告だけで教育問題にまで発展するのか、よくわかんねぇ…。
先生はかわいそうに、「ああ」だの「うう…」だのしか言えてなかった。
延々と15分の持ち時間の中責められ続け、俺もまた止められない涼介さんの暴走のおかげで疲弊した。
「どうした、拓海?もしやあのセクハラ教師に人には言えないようなことを…!」
またも続こうとする涼介さんの妄想。
俺は……切れた。
ぐったりとへたり込む俺の肩に触れようとする涼介さんの手を乱暴に払い、怒鳴る。
「いい加減にしろよ!誰も彼もが涼介さんみたいなこと考えてるわけないだろ?!」
涼介さんの整った顔が強張った。
「それは……どう言う意味だ?」
チリチりと、頭の中で危険を伝えるシグナルが鳴り響く。
けれど俺は止まらなかった。
「セクハラ、セクハラって…あんたが一番俺にセクハラしてんじゃないかよ!」
ピシリ、と空気が凍ったような気がした。
俺はずっと抱えていたものを吐き出し、新たな疲れに襲われていた。
ハァハァと全力疾走したように息が上がり、今にも倒れこみそうなほどに力が抜けている。
けれど、痛いほどの視線を感じ顔を上げた。
涼介さんの表情は、今まで見たことのない種類のものだった。
驚いているようにも。悲しんでいるようにも。怒っているようにも見えた。
彫像のように動かない姿に、俺は言いすぎたのかと後悔する。
「あ、の…涼介さ……」
謝罪の言葉を口にしようとしたその瞬間、俺の背中にドンと衝撃が走った。
「拓海くぅ〜ん、もう面談は終わったの?一緒に帰ろうよ」
明るい女の子の声。
顔を見なくても、声と背中にまとわり付く身体と、当たる胸の感触でそれが茂木なつきだとい言うことは分かった。
茂木は俺の背中からヒョイと顔を出し、俺の正面に立つ涼介さんを見た。
「あれ〜?お父さんじゃないんだ。この人だぁれ?すごいカッコいいね」
俺はこのときほど、茂木のこの口が憎らしいことは無かった。
そして、
「うぉ〜!すげぇ!レッドサンズの高橋涼介じゃん!!何でこんなとこにいるんだよ!!すげぇー!」
幼馴染であるイツキの口も。
途端に騒々しくなった廊下。
反面涼介さんの空気は凍てついている。
俺に向ける視線でさえも。
一度俯き、前髪を掻き揚げながら涼介さんが顔を上げる。
その瞳には、さっき先生に向けていたものと同じ種類の氷が宿っていた。
この、俺に向かい。
「……そうか。良く分かった」
涼介さんが俺をこんな目で見たことはない。
いつも……。
俺を甘く、蕩けるようにしか見ていなかった。
なのに。
「俺が間違っていたようだ。今まで付き合わせて悪かったな、藤原」
拓海、と甘い声で俺の名を呼んでいた声が、藤原と呼び冷たく尖っている。
「じゃぁな。俺は帰る」
そして背中を向けた。
「茶番は終わりだ」
その時になって、俺は思い知らされた。
自分が、とんでもなく自惚れていたことに。
涼介さんの有り余るほどの愛情。
何があっても、涼介さんは俺を嫌わないと、そう根拠もなく思い込んでいたんだ。
何を言っても、何をしても涼介さんは許してくれる。
そう……思っていた。
けれど、見せた背中の厳しさに、俺はそれが思い込みでしか無かったことを思い知らされた。
遠くなっていく背中。
「…拓海くん」
「拓海?」
茂木の声も、イツキの声も聞こえなかった。
ただ、俺は涼介さんの背中だけを見つめ続けていた。
身体が震える。
恐怖に、怖くて恐くて仕方がなくなる。
俺は手を伸ばした。
遠くなる背中に、届くように。
「……ないで…」
大きな声で叫んだつもりだったのに、出たのは掠れた不明瞭な声だった。
もう一度、勇気を出して叫ぶ。
「…行かないで、涼介さん!」
涼介さんが俺を振り返る。
そして顔中を涙でいっぱいにしている俺を見て、驚いたように目を見張る。
「行くなよ!涼介さん!!」
子供が駄々をこねているような、甲高い叫び声。
みっともないし、涙を堪えることも出来ない。
恐くて不安で悲しくて。
精一杯の気持ちで伸ばした腕。
願い通りに涼介さんが掴んでくれた。
涙で曇った視界。けれどもう、手の感触だけで涼介さんだと分かる。
俺はその手を逃がさないよう、その先にある身体にしがみついた。
「……やだ…涼介さん」
俺は。
俺は何でこの人のことがこんなに好きなんだろう。
確かに見た目はすげぇ良い。
頭も良いし、お金持ちだし、将来有望この上ない。
けど、ムッツリだ。
エロいしセクハラの嵐だし、頭ん中ではHすることしかないような、おまけに嫉妬深いロクでもない人だ。
「良いのか?俺はお前にまたセクハラするぞ?」
涼介さんがすがりつく俺の身体を抱きしめ返しもせず、両腕を宙ぶらりんとしたまま問いかける。
その腕が悲しい。
「…りょ、すけさんのは…セクハラじゃないです…」
大泣きしたせいで、しゃくり上げて満足にしゃべれない。俺は必死に言葉を紡いだ。
「されて…俺が嬉しいから…セクハラじゃないです…」
フッ、と涼介さんが頭の上で笑った気配がした。
「…こうしても?」
ぎゅ、っと両の手のひらで尻を掴まれる。
ぐにぐにと揉まれ、ブルリと身体に震えが走った。
「これだけじゃ止まんねぇぞ。俺はお前にありとあらゆる性技を試したいし、お前にありとあらゆる体位をして貰いたい。それでも良いのか?」
俺は頷いた。
「あんまり…すごいのは無理だけど…俺で出来ることなら…」
フッ、と涼介さんがまた笑った。
でも今度の笑いには、明るい響きが感じられた。
「…拓海。俺が好き?」
思えば、俺は涼介さんに直接「好き」と言ったことがない。
俺が言うより先に、涼介さんがしょっちゅう言っていたのもあるし、言って涼介さんが増長する恐れがあって控えていたからだ。
けど、ここで言わなくていつ言う?
俺は覚悟を決めて、まず頷いた。
そして涼介さんに尻を揉まれながら顔を上げ、縋るような目つきで言った。
「……好き」
にっこりと。
涼介さんはこの上なく幸せそうに微笑んだ。
そして勇気を出した俺を褒めるように、唇に触れるだけのキスを落とす。
「俺も好きだよ」
そして、
「だから……教室H、しようか?」
……やられた、と思った。
やっぱりこの人はとんでもない。
けど。
好きなのだ。
その嬉しそうな笑顔に、「ま、いっか」と思ってしまえるほど。
俺は背後に固まったままでいる友人二人を振り返った。
真っ赤な顔でアワアワしているイツキ。
ぽかんとこちらを目を見開いて凝視している茂木。
まず俺は茂木に聞いた。
「Hしても見つかんねぇ教室ってどこ?」
茂木のことだから、学校Hなんて経験済みだろう。
そしたら案の定、ぽかんとしながらも茂木は答えた。
「…視聴覚教室…防音も効いてるし、鍵もかかるから…」
そして今度はイツキに言った。
「俺ら今からHするから。誰も来ないように一応見張っといて」
イツキは呆然としたまま頷いた。
その背後で、この上なくさわやかに涼介さんが二人に向かい微笑みながら言った。
「そう言うことだから。頼むよ」
まるで脅しのようだなぁと思ったのは、きっと俺の気のせいじゃないはずだ。