ぱんだと王子さま
act.4
どっこいしょと目的地に着いた拓海が、背中から炭を下ろし一息ついたとき、どうも母屋のほうが騒がしいことに気付きました。
「真子さん。何だかザワザワしてるけど、何かあったの?」
と拓海は、出迎えてくれた女将さんである真子に聞きました。
するといつも大人しい彼女が、頬を赤らめ興奮気味にこう言いました。
「それがね、拓海くん。大切なお客様が、静養のためにうちにいらっしゃってくださったの」
「…大切なお客さま?」
「そうなの。驚かないでね?拓海くんは知ってるかしら?有名な方なんだけど…この国の王子の涼介様なの」
拓海は心臓がドキリと跳ねました。まさかこんなところであの涼介に会うとは夢にも思っていませんでしたから。
「最近、ご体調を崩されて、その静養にうちにいらっしゃったみたいなの。ほら、有名な方だから普通の温泉宿だったら騒がれてゆっくり出来ないらしくて。山奥のうちの宿が選ばれたのよ」
でもそんな衝撃はすぐに去って、次に拓海の意識を捉えたのは、涼介が体調を崩したという言葉です。
「…た、体調を崩されたって…」
思わず聞き返してしまった拓海に、真子も不安そうな顔で返します。
「それがね。かなり酷いらしいのよ。さっきお部屋にご案内したんだけど、以前遠目に拝見した時よりも顔色も悪かったし、それにものすごく窶れられて。何のご病気かまでは聞かなかったんだけど、一緒に来られた側近の方と弟さんのお話を聞いてしまったんだけど、かなり重い病気って。それに…悪くすると死んでしまうかも、って言うの」
「えっ?!」
「うちでご静養されて、治ってくれるといいんだけど…」
拓海の愛らしい丸い毛皮の耳には、もう真子の言葉は聞こえません。
「あら。もうこんな時間。拓海くん、ごめんなさいね。そんなわけであまりゆっくり出来ないけど、でも疲れたでしょう?温泉、浸かっていってね」
バタバタと慌しく去る真子に、いつものように「ありがとうございます」とお礼を言うことも忘れ、拓海は呆然とその場に立ち尽くしていました。
頭の中で繰り返すのは「かなり重い病気」「悪くすると死んでしまうかも…」と言う言葉。
じわりと、拓海の目に涙が浮かびました。
毎日、飽きもせず流れ出す涙ではありますが、今日の涙は違いました。悲しくて泣いているのではありません。
『…涼介さんがいなくなってしまうかも知れない』
今まで、そばにいられなくても彼が幸せならそれで良かったのです。
でも、それさえも叶わない。
拓海は恐くて、震えながら涙を流しました。
けれど、すぐに思いつめたようにキッと顔を引き締め、涙をぐいと拭い去りました。
決意はすぐに決まりました。
「…涼介さんに…会おう」
たとえ一目、遠目で見るだけでも構わないのです。
涼介に会いたくて、彼の姿を見て、安心したかったのです。
『拓海…』
名前を囁く声が、今でも聞こえるような気がします。
拓海は目の前の炭で自分の顔を真っ黒に染めて変装し、そしてそろそろと母屋へ繋がる道を歩き始めました。
一方の涼介は、案内された離れで疲弊しきった体を休めていました。
ふぅ、と溜息をついて目を閉じても、思い出すのは拓海のことばかり。
あのふかふかの毛皮と愛らしい瞳が恋しくてたまりません。
「アニキ〜、ここの温泉って疲労回復にいいんだってさ。ゆっくり浸かって、元気になれよな」
「そうだぞ、涼介。今はとにかくその体を治さないとな」
付き添いでやって来た啓介と史裕の心配そうな言葉も今の涼介には耳に入りません。
ずっと脳内でリフレインしているのは、「涼介さん」とちょっと恥ずかしそうに自分の名を呼ぶ拓海の声ばかり。
「………拓海に会いたい」
自分たちの言葉も聞こえず、遠い目でうわごとのように拓海のことばかりを呟く涼介に、啓介たちはもう、彼の病気の名前が分かっていました。
それはもちろん「恋の病」。一説では不治の病ともされているあの病気です。
本来なら、人間である涼介と、毛皮に包まれたパンダの拓海とは種族的に恋愛感情が成立するとは思えないものですが、何事においても冷めた姿勢の涼介が、あんなにも拓海を溺愛し執着している姿を見ていましたので、彼らはその事をすんなり納得しました。むしろ「やっぱり…」と思いました。
また彼らは、倫理感とか、常識だとか、そんなものを涼介が問題視するとは思っていませんでした。常日頃「俺が法律だ」と言ってはばからない涼介のことです。
『あのアニキ(涼介)のことだから、恋する相手も普通じゃないに違いない』
と、拓海が現れる以前から思っていましたので、愛らしいパンダな拓海が相手だったことは、どちらかと言えば「良かった」ほうになるのです。
ぼんやりと遠くを見たままの涼介を眺めながら、啓介と史裕はまた溜息をつきました。
いつも悪魔の化身かと言うまでに悪辣だった涼介が、今は抜け殻のようになってしまった姿は、確かに啓介たちにとって平和ではありましたが、痛々しくもありました。
『確かにアニキ(涼介)は独占欲が強くて横暴で傲慢で、藤原が逃げたくなる気持ちも分からないでもないけど……こんなにまで藤原のことを思っているんだ。藤原には悪いが、大人しく出てきてイケニエ…もとい一緒にいてやってくれないかな』
溜息とともに二人はそう願い、「とにかく、せっかく湯治に来たんだから、温泉には浸かれよ」とだけ残して部屋の襖を閉めました。
そしてその場を立ち去った彼らは、気落ちし項垂れていましたので、物陰からこっそりと様子を窺う黒い物体に気付きませんでした。
「…アニキ…あの様子じゃマジにダメかもな…」
「…そうだな…そもそもの原因がいないんじゃ…無理だろうな」
二人のその言葉に、黒い物体が動揺したようにビクリと激しく震えたことも、彼らは見なかったのでした。
そして黒い物体こと拓海は、植木の陰でじんわりと涙を浮かべていました。
「…あれは啓介さんたち。…じゃ、やっぱり涼介さんが…それにもうダメって…」
拓海は不安で仕方ありません。
こそこそと離れの部屋に近付いて、窓の外から中をこっそり窺ってみれば、夢にいつも見ていた涼介が、あの頃よりも顔色悪く、そして窶れ、生気の無い表情で項垂れています。
その変わり果てた姿に、拓海は動くこともできず、じっと涼介の姿を見つめていました。
彼を見るのは怖いのですが、一瞬でも視線を外せば、そのまま消えてしまいそうで拓海は目を離せなかったのです。
ですから、次の瞬間の拓海の行動は遅れてしまいました。
涼介が立ち上がり、温泉に繋がる引き戸をカラカラと開け、フラつく足取りで外に出た時、拓海は自分の姿を隠すことを忘れていました。
植木の陰からのぞく黒い物体。
ピコピコと心の動揺そのままに動く愛らしい尻尾。
生気が無く、虚ろだった涼介の目が、その尻尾を捕らえ、カッと目を見開きました。
そしてさっきまでのフラつく足取りはどこへやら、彼の異名である「白い彗星」そのままに高速の動きで走りぬけ、拓海の元に駆け寄ります。
その動きに、拓海もハッと気付き逃げようとしましたが一瞬遅く、炭だらけの真っ黒になった拓海は涼介の腕の中に捉えられてしまいました。
ぎゅっと抱き締める涼介の腕に、拓海は奮え、涙が浮かびましたが我慢しました。
そして逃げようと暴れるのですが涼介の腕は、これが病人かと言うほどに強く囲い込み離しません。
「拓海…」
涼介が拓海の名前を、万感の思いを込めて囁きます。その声音の切なさに、拓海は動きを止めますが、でもすぐにまた暴れだしました。
「は、離してください!」
ですが涼介の腕は当然のごとく拓海を離しません。
「嫌だ…やっと見つけた、拓海…」
「お、俺は拓海じゃないです!…や、山奥に住む黒クマです!!」
人語を話す獣はめったにいないと思うのですが、パニック状態の拓海は気付きません。
そして涼介は拓海を手に入れたことで、やっと本来の自分が戻ってきてしまいました。
「拓海は可愛いな…」
うっとりと囁き、拓海のぴくぴく動く尻尾を掴みました。
「わ、わぁっ!」
敏感なお尻の付け根を握られて、拓海はびっくりして飛び上がります。ですが涼介はそんな事におかまいなしに楽しそうにクスクス笑いながら言いました。
「黒クマだって?尻尾の白い黒クマなんて、聞いた事が無いな」
そう言われ、拓海は自分のお尻を見ますと、言われた通り、拓海の尻尾は白いままでした。そうです。炭を塗り忘れてしまったのです。
「それにこの色…」
と言ったかと思うと、涼介は拓海をズルズルと引っ張って、目の前の温泉に二人でドボンと浸かります。
「りょ、涼介さん!服!!」
「うん?ああ、裸になるのは後でな」
…裸になって後で何をするのでしょう?
そんなツッコミはさておき、涼介は温泉に拓海の体を浸し、顔の毛皮を撫でると、みるみると炭は落ち、拓海本来の白い毛皮が現れてきました。
「…ほら。やっぱり拓海だ」
嬉しそうに微笑む涼介の顔を見つめながら、もうごまかせないと拓海はボロボロと涙を零しました。
涼介はそんな拓海の涙を指で拭いながら、一転して悲しそうな声でこう言いました。
「…拓海は泣くほどに俺が嫌いだった?」
拓海はぶるぶると首を横に振ります。
「…嘘だ。じゃあ、どうして俺の元から逃げたんだ?俺が嫌になったんだろう?」
「ち、違います、俺は…」
「じゃあ、どうして?」
切なそうに眉間にしわを寄せる涼介に、拓海は泣き顔のまま「どうせこれが最後なんだから」と勇気を絞りました。
「…俺、こんななのに…涼介さんが好きだから」
「拓海…」
「…涼介さんの迷惑になるの…嫌です…嫌われるのは…もっと嫌なんです…」
「だから…逃げたのか?」
涼介の言葉に、けれど拓海は首をまた横に振ります。
「…そうじゃないです。俺、言わないつもりだったし…でも…涼介さんが他の人と一緒にいるの、耐えられなくて…俺、こんななのに、涼介さんの傍にずっといたいって、誰にも渡したくないって思って……」
ぐしぐしと泣きながら切々と熱烈な告白をする拓海に、涼介は悲嘆から一転、歓喜に溢れました。
まさかあの拓海から、「好き」とか「誰にも渡したくない」などの言葉がもらえるとは、彼の優秀な頭脳をもってしても予想もしていませんでした。
涼介は腕の中の拓海をさらに力を込めて抱き締めます。
「…俺は拓海のものだよ。ずっと、初めて会った時から」
うっとりとそう呟いた言葉は、けれど拓海の意外な拒絶にあいました。
キッと自分を涙目で睨み、唇を尖らせながら涼介を見上げます。
「ウソだ!だって…涼介さん、婚約するって……」
…婚約…。涼介は思い出しました。そう言えば、あの京一の妹との縁談話があったことを。
その噂が届いて、拓海が傷付き自分の傍から逃げ出した…。それを理解した涼介は不穏な笑みを浮かべました。
『…京一…コロス…』
しかし拓海の前では涼介はそんな顔は見せません。幸せいっぱいの笑顔で微笑み、膨れる拓海の黒い鼻の頭にキスをします。
「デマだよ。確かにそんな話はあったけど、断った」
「え…?」
「俺は拓海が好きだから」
「…は?」
「俺が一生そばにいて欲しいのは拓海だけだから。だから拓海以外と一緒にならない」
そして涼介は笑顔を引っ込め、真剣な表情で拓海を見つめます。
「拓海…」
「は、はい」
「結婚してくれ」
拓海は一瞬何を言われたのか理解できませんでした。
たっぷり三十秒。カチンと固まったままの拓海は、じわじわとその言葉を理解し始め、白い毛皮にどんどん朱色が染められていきました。
「え、ええっ?!りょ、涼介さん、何言ってんですか!」
アタフタする拓海を、涼介は予想していたのでしょう。動揺することなく微笑みながら押さえ込みます・
「俺は本気だよ。結婚して一生そばにいてくれ」
「だ、だって、俺は…」
拓海は泣きそうな表情で俯いてしまいました。ふと見える自分の毛皮に、新たな涙が浮かんできます。
「俺…パンダだし…」
そうです。拓海はパンダ。白と黒の毛皮で覆われた、愛らしいのですが人間ではないのです。
ですがそんな躊躇を、涼介は一蹴します。彼のモットーは「俺が法律」ですから。
「関係ないな」
「そ、そんなこと無いです!」
「ないよ。拓海は拓海だ。俺は拓海だったらそれでいいんだ」
真摯な涼介の言葉に、拓海の心に温泉よりも温かなものが広がります。ぽかぽかして、幸せで、でもほんの少しだけ恥ずかしくて。
「涼介さん…」
潤んだ拓海の瞳に、答えを知りながらも涼介は拓海の肉球のある手を取り、毛皮が覆う甲にキスをしました。
「俺と結婚してくれますか?」
にっこり。初めて会った時に見せた、拓海を魅了してやまない笑顔。拓海はあの時以上に頬を真っ赤に染めて、そしてあの時と同じように、頷き彼の手を取りました。
「はい…」
ぽろぽろと涙が溢れます。
昨日までの、悲しい涙ではありません。喜びの涙です。
「はい。涼介さん」
しっかりと頷き、拓海は涼介の腕の中に体を預けました。
2006.4.30