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不器用な感情

act.4


 人前で涙を流すのは、物心ついたころより一度もない。
 けれど今は恥も外聞もなく、そんな姿を晒している。
 ぽたぽたと、小さな子供のように泣きじゃくりながら拓海の体に縋りつく。涼介の目から零れ落ちた涙は拓海へと滴り落ち、彼のむき出しの肌を濡らす。
 激情を吐き出し、熱の低下ととともに興奮状態にあった思考も覚めてくる。
 そしてほんのり取り戻した理性で、涼介は自分が拓海に対しとんでもないことをした事にやっと気がついた。
 涼介の涙や汗、そして体液に塗れた拓海は、うっとりするほどに綺麗だった。このまま箱の中に閉じ込めて誰にも見せたくないほどに。
 けれどそれはもう出来ない。
 傲慢な恋人だった自分はもう過去にしかならず、今の涼介は失うことに怯える、愚かな男にしか過ぎない。
 拓海の濡れた頬を拭うように撫でると、閉ざされていた拓海の瞳が開く。
 潤んだ眼差しに、また欲望の燠火がざわめくが、もう涼介は拓海に対し無体は出来ない。
 殴られる覚悟で拓海の両腕の拘束を解いた。
 けれど拓海の腕は涼介を殴らず、自分の顔を隠し、そして体を縮めた。
 無理やり煽らされた熱によるものだけでなく、拓海の肌が紅潮している。
「……拓海…?」
 …すまない、と続くはずだった謝罪の言葉は、思わぬ反応の拓海に戸惑い、最後まで言うことを許されなかった。
「…もう、やだ…」
 腕の隙間から呟かれた言葉に、涼介の体中が凍りつく。その言葉が指し示すものは、つまりそういうことなのだろう。涼介にとって、死刑宣告にも等しい言葉。
「…すまない…だが、俺は…」
 せめて、言い訳だけでもしようと口を開き、拓海へと腕を伸ばすと、彼はその腕を嫌がるようにさらに身を捩じらせ縮こまった。
「…俺は…拓海が好きだから…だから…ごめん」
 いつもの饒舌が嘘のように不器用な言葉しか出てこない。
 項垂れ、落ち込む涼介の耳に、だが信じられない言葉が聞こえる。
「…もう、やだ…すっげぇ恥ずかしい…」
「え?」
 驚き顔を上げれば、腕の隙間から拓海が自分を見つめていることに気付く。だが目が合った瞬間、拓海の顔が真っ赤に染まり、また顔を隠して縮こまる。
「あんま見ないで下さい!…恥ずかしくて死にそう…」
「たく…み…?」
 今、自分は何を聞いているのだろうか?
「…涼介さん、あんな事とかするし、俺のこと好きとか言うし…もう嬉しくて、俺、変なんです…」
「嬉しい、って…拓海?」
 最低まで落ち込んでいた気分が、一気に浮上する。もしかしたら、と言う期待に鼓動が激しく鳴り始める。
「それは…どう言う…」
 おそるおそると言った仕草で、拓海が自分の腕を顔から外す、その下の頬は真っ赤だった。
「…だって…涼介さん、気付いてます?俺のこと…好きなんて言ったの、初めてなんですよ」
「あ、ああ」
 それに関しては意図的だ。自身の高慢が招いた罪だ。好き、と囁くことで自分が下位に立つことを恐れたのだ。
「だから、嬉しくて…」
 胸が、ドキドキする。初心な少年のように頬が赤くなっている自覚もある。
「それに、俺が啓介さんといるときにあんなに急いで来て、怒ってたのって…え、と…やきもち…ですよね?」
 間違いなく「やきもち」だ。自信を持って言える。
「いっつも俺ばかり嫉妬してたから、涼介さんが俺に…ってのが、すごい嬉しくて俺…」
 じわっと、瞳に浮かぶ涙の粒。涼介は自分の幸福が信じられず呆然と見つめるだけだった。
 そんな涼介の目の前で、拓海はまた恥じらい顔を隠す。
「あんま見ないで下さい、俺…なんか恥ずかしい顔、してるから…」
 拓海の言葉が、態度が、表情がじわっと心に染みとおり、体中に行き渡り支配する。
 デレッと、やに下がるといった表現が正しい顔で涼介は微笑んだ。
 顔を隠そうとする拓海の腕を掴み、無理に引き剥がす。
 真っ赤になった顔と、涙目の瞳が、もう二十歳近くの男のものだと言うのに、どんな絶世の美女もかなわぬほどの艶を涼介に感じさせた。
「やだ、涼介さん!」
 もがく拓海の体の上に覆いかぶさり、拓海の顔を至近距離から見つめる。
「見せて、拓海」
「やだ、恥ずかしい…」
「大丈夫。俺のほうが今恥ずかしい顔になってるから」
 おずおずと、拓海が涼介の顔を見つめ返す。その眼差しが自分に向けられることの喜び。ますます涼介の顔は緩む。
 羞恥でいっぱいだった拓海が、クスリと微笑む。
「…ほんとだ。涼介さん、すごい顔」
 そっと、その指が涼介の頬に触れてくる。その指に頬を預けながら問い返す。
「…どんな顔してる?」
 囁くと、拓海の首筋が染まった。
 喰いたい。この体を、全てを喰らいつくしたい。激情に駆られている時に沸き起こった衝動。それがこんな幸せで穏やかな気持ちのときに蘇るのがおかしい。つまりそれは、紛れもなく涼介の本音だと言うことだ。
「………すっごいヤらしい顔」
 恥じらい、ぷいと背けられた顔を無理やり引き戻す。目を合わせ微笑むと、拓海の目に欲望の火が点るのを見つけた。
「ヤらしい顔の俺は…嫌いか?」
 一瞬黙った拓海は、けれど必死な顔になり涼介の首に腕を回してしがみ付く。
「……好き」
 小さな、小さな囁き声だった。
 けれどしっかりと涼介の耳には届いた。
「いつも余裕な表情で、澄ましてる涼介さんより、今のほうが…好き…」
「拓海…」
「もっと、余裕のない顔、見せてください。…俺でいっぱいいっぱいになって」
 涙で視界が曇る。幸せすぎて涙が浮かぶなんて、以前の涼介には考えられなかったものだ。
「…それは無理だ」
 否定すると拓海が傷付いた表情で顔を上げる。そんな顔をさせるのは、過去の自分の罪の証。
 けれどもう間違えない。
 涼介は拓海の鼻の頭にキスをした。
「これ以上どうやっていっぱいにすればいいんだ?もっと、と言うと、拓海を監禁して、俺だけしか見ないようにして、最後はお前を殺して喰うぞ?」
 冗談ではなく本気の色を滲ませ囁くと、拓海は怯えるどころか微笑んだ。
「俺、もっといっぱい生きて涼介さんと一緒にいたいんで、食い殺されるのはヤです」
「だろう?だから今ぐらいで我慢してくれ」
 深く、口付ける。体を押し付け、高まった欲望を示すと、拓海は照れたように微笑んだ。
「……また、ですか?」
「喰うのは諦める代わりに、味見だけな」
 ぺろりと、舌で味わうように肌を舐め上げる。拓海の腕が、涼介の背中に回されたのが感じられた。ぎゅっと抱きしめられ、隙間のないほどに体が密着する。
「…じゃ、俺も…涼介さんを食べるのは諦めて、味見で我慢しますね」
 可愛い、可愛い恋人。
 それに気付かず愚かだった自分はもういない。
 涼介は幸せを享受し、誰にも見せない笑みを拓海にだけ浮かべた。
「ああ。思う存分味わってくれ」
 プライドだとか、偏見だとか、くそくらえだ。
 今のこの幸せのためならそんなものはドブに捨ててやる。
「愛してるよ…」
 莫迦になる喜び。
 それを今、涼介は実感していた。



2006.5.21

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