不器用な感情
act.2
好悪の感情は人間の本能の領域で行われる。
その最たるものが、「匂い」であるだろう。
とある実験で、被験者に姿形だけでなくプロフフィールの全てを秘した十人の女性の匂いを嗅がせたところ、被験者が好ましいと感じた女性には被験者には無い抗体を保持していたそうだ。
そこから得られる結論としては、人間は本能の領域で種の保存のために最も適した行動に出るという事であるだろう。
であるから、現在のこの拓海との関係は全くもって非生産的であり、男女間のような好悪の別は必要ないはずだ。
涼介はそう考えていた。
仮に、恋人同士と言う状況にはあるが、それが永続的なものであるとは思っていない。近い未来、涼介は拓海とは別れるだろう自分を確信していた。
それなのに。
たぶん一般的に好ましい容姿と教養を兼ね備えた女の隣にいて、なぜ自分は彼女の匂いより拓海の匂いを懐かしく思っているのだろう。
涼介は瞠目し、そこから見える感情を探った。
始まりは一枚の写真。
そしてそれに付随した感情を、一番身近な存在である啓介が適切に表現した。
「ベタ惚れ」
そんな事があるはずがない。
なのに、涼介は女の隣に座り、その香水で覆い隠した体臭を嗅ぎ、拓海のあの匂いを欲していた。
苛々が収まらない。
涼介は拓海の部屋であの写真を見つけてから、ずっとそんな状態が続いていた。
自分に告白してきたことから、涼介は拓海が同性にしか恋愛感情を向けられない人種であると思い込んできた。
だから安心しきってもいたのだ。
どんな男よりも優れている自信はある。
拓海の心を捉えて話さないだけの自負もあった。
だがこと相手が異性となると話が違う。
拓海は見目の良い女や、露出の激しい女がいると自然と目がそこに行くことがある。
たぶん無意識の行動なのだろう。二十歳前の年若い男ならその反応は至極当然のことと言える。つい無意識に目を向けてしまうものだ。
以前の涼介ならそんな拓海の視線に気付きながらも、感情を粟立たせることは無かった。
けれど今は違う。
拓海のそんな視線を感じるたびに、冷静さをかなぐり捨てて叫びだしたい気持ちになる。
現に、今もそうだった。
プラクティスに訪れた赤城の峠で、拓海がギャラリーの女に捕まり、照れたように頬を染めた。
そんな表情は本来なら涼介にしか見せないはずの顔だ。それなのに見ず知らずの女に見せている。
ギリ、と歯噛みし、平静を装う仮面が剥がれ落ちた。
冷静じゃない。
常に車も人間も、感情すらも全てコントロールしていないと気がすまない。なのに拓海に関することだけはコントロールが不可能になって、計算の無い愚かな素のままの感情が溢れ出していく。涼介にとってそれは屈辱的なことだった。
けれどどうしても感情が抑えられない。
「…コエーな、アニキ。…嫉妬丸出し」
ただでさえ苛立つ涼介の感情を、逆撫でするような言葉に、睨む、と言うには生易しい憎悪の眼差しで傍らの弟を見る。
「…嫉妬?誰がだ」
啓介は一瞬、そんな涼介に怯むが、けれどすぐに面白そうな表情でニヤリと笑った。
「誰って…アニキだよ」
涼介は目の前の弟を殴りつけてやりたい衝動に駆られた。しかし自分より遥かに喧嘩慣れした啓介相手に、腕力で勝負するような愚行は犯さない。衝動を理性で捻じ伏せる。だが苛立ちは治まらない。
「…バカバカしい。何で俺が…」
不快な感情を押し殺し、目を逸らし舌打ちをする。
そうだ。そんなことがあるはずがない。
そう言い聞かせるが、胸のモヤモヤは消えない。
そんな涼介の態度に、ますます啓介は楽しそうに言葉を続けた。
「そんないかにも、って目で藤原が女といるところを見てるくせに、今さら誤魔化しても無駄だろう?」
確かに、拓海が女といるのに腹が立った。けれどそれは嫉妬などではなく、自分がいると言うのに他の女に目を向けた拓海にプライドを刺激されただけだ。それだけなはずだ。
「…誤魔化してなんかないし、俺は嫉妬もしてない」
言い張ると、啓介の顔が場違いなほどに緩んだ。
そのニヤけた表情は、さらに涼介の気に障る。
「…何だ、その顔は」
「…いや、安心したから」
「安心?」
苛立ちのままに啓介を睨むが、もう彼は怯まない。楽しそうに涼介と拓海を見比べ、緩んだ口元のままに言葉を続ける。
「アニキが藤原と付き合ってるのってさ、てっきりアニキが藤原を言いように弄んでんのかと思ってたんだけど…」
涼介は眉尻を上げる。…けど?それ以外に何があるって言うんだ。
「…ちゃんとアニキ、藤原に惚れてんじゃん」
「…何だと?」
…そんな筈は無い。自分はただ、拓海を手中に収めるために、都合が良いから恋愛感情があるように見せかけているだけだ。
けれど啓介の確信は止まらないようで、さらに言葉を続ける。
「しかも、ベタ惚れ」
ブチリ、と何かが切れる音がした。
頭より先に体が動いた。
ドン、と激しい音が峠に響いた。
しん、と静まり返った事と、痛む自分の拳に涼介は自分が何をしたのかを悟った。涼介が機材を積んだワンボックスカーの側面を殴ったのだ。ボコリと凹んだボディと、真っ赤になった自分の拳が証明している。
一瞬で我に返った。
みっともない。そして愚かな子供のようなことをした。
「…りょ、涼介?」
恐る恐る声をかけてきた史裕の声に、さらに羞恥心が増した。
「……帰る。後は適当に解散してくれ」
振り向きもせず、苦い声音でそれだけを残しFCに乗り込んだ。
静まり返った峠に、FCのエンジン音と、馬鹿笑いを続ける啓介の笑い声だけが響く。
遠目に、驚き強張った顔で自分を見つめる拓海の姿が見えた。
目が合った瞬間、拓海の目が気遣わしげに細められる。その眼差しに、哀れまれているようでさらに涼介の苛立ちは増した。
「…嫉妬…だと?」
ハンドルを握り、感情のままに荒々しく車を走らせながら舌打ちとともに呟く。
そんな感情は、自分が味わうものではなく、自分が拓海に与えるものでしかなかった筈だ。
しかも啓介に「ベタ惚れ」と言われ、苛立ったあまり八つ当たりをするという愚考を犯している。
「…有り得ない…」
そうだ。ベタ惚れなのは自分ではなく、拓海だ。そうでなくてはいけない。
だがそう心に言い聞かせながらも、女相手に頬を染めていた拓海の姿を思い出し、また苦い気持ちが蘇る。
何もかもが腹ただしい。
そしてその理由の全てが拓海にある。
「……そうだ…嫉妬するのは俺じゃない」
涼介は笑った。
コントロールを失った感情は、拓海を傷つける方法へと向かわせる。
だがその行動の裏にあるものは結局、「拓海の視線を自分へと独占させる」方法でしか無いのだが。
けれど涼介は気付かない。
そして涼介は自宅のある住宅街ではなく、飲食店が立ち並ぶ繁華街へと転換させた。
地下にある小さなその店は、以前からゆっくり酒が飲みたい時などよく利用していた。
客層も落ち着いた雰囲気に合わせ、騒がしい学生や質の悪い酔客はいない。皆、酒の味を楽しめる、公私において余裕を持った人種が多い。
カウンターに座り、グラスを一杯開けたところで隣に女が座った。
物慣れた様子で声をかけ、誘いの言葉を匂わせる。
こんな経験は珍しいことではない。かつて拓海と付き合う前は、恋愛が面倒でこんな手馴れた関係を奨励していた。
教養が有り、見目も極上の女。
そんな普通の男なら喜んで付いていくだろう女に、さりげなく手を取られ、触れさせられた肌の感触に涼介は眉を顰めた。
そして傍で感じる香水と体臭が混ざった匂い。
それにも不快感を感じる。
かつて、涼介はセックスは反射であると考えていた。
けれど今の自分の反応は、涼介の考えとは反するものである。
全く性欲が湧かず、あまつさえ吐き気まで催してくる。
そして脳裏に浮かぶのはあの拓海の肌の感触と匂い。
拓海からは家業が豆腐屋のせいかその匂いが常にほのかに漂ってくる。さらに豆腐の匂いに加え彼本来の体臭が混ざり、涼介に欲と、そしてどこか懐かしい郷愁のような感情を湧き起こさせた。
女に触れ、匂いを嗅ぐことで涼介が得たのは拓海への欲求だった。理性ではなく感覚的に彼を欲している自分。
これはどう言うことかを彼は考えた。
匂いと言うのは好悪を示す上で重要な器官である。
見た目や経歴に誤魔化されず、本能の領域で好悪を判断する。
それが指し示すことはつまり、自分は拓海が好きだと言うことになる。
『しかも、ベタ惚れ』
啓介が言ったことは認めたくない。
夢中なのは涼介じゃない。拓海のはずだ。
そして拓海を裏切るために来たこの店で、思惑通り誘われているのに一向に気が向かない。
内心の困惑を隠したまま涼介は女を振り切るために、笑顔で携帯を取り出し電話がかかってきた振りをする。
「…失礼」
席を立ち、密かに清算を済ませ店を出る。
そして切ったままにしてあった、言い訳でしかなかった携帯の電源を入れながら、苦々しい感情のまま髪を掻きあげ夜空を見上げる。ふと思い浮かぶのは、拓海はもう寝てしまっただろうか、と言うこと。そんな自分にさらに腹が立つ。
立ち上がった携帯の画面を見れば、史裕と拓海からメールが入っていた。
特に、いつも滅多によこさない拓海から四件も入っている。
『件名:涼介さんへ』
それから始まるメールの内容は、けれど拓海らしい控え目な短い一文だけのものだった。
『大丈夫ですか?』
『疲れてませんか』
『もう眠ってしまいましたか?』
『ゆっくり休んでください』
それらを見たとき、涼介は無性に拓海に会いたくなった。
会って彼の体を抱きしめて、自分と彼の境界線がなくなってしまうくらいに傍にいたかった。
けれど、涼介はそのメールに何も返信をせず、また電源を落とした。
拓海に会いたい。
けれど今、彼に会うとまた愚かなことをしてしまう自分を涼介は自覚していた。
プライドの高い涼介にとって、それは何事にも変えがたい屈辱のように感じていた。
2006.5.19