不器用な感情

act.3


『件名:涼介さんへ』
 何度も何度もその文字を見返す。
『大丈夫ですか?』
 素直に弱みを見せていれば良かったのだろうか?
『疲れてませんか』
 だが二十数年のこの人生、涼介は甘えることも誰かに弱さを見せることもしなかった。そんな事は恥だと思っていた。
『もう眠ってしまいましたか?』
 拓海は眠ることが好きだ。いつも子供のようなあどけない顔で眠る。涼介はそんな拓海の寝顔を見るのが好きだった。自分の隣で、彼が無防備な顔で眠っている。それがたまらなく嬉しくて、眠るのが惜しくていつまでも起きていた。
『ゆっくり休んでください』
 休めない。あの体温が傍にいないと。あの目で見つめられないと。あの声で囁かれないと。
 自分の感情のコントロールが効かず、拓海との連絡を断って一週間。
 会わないことで、自身のこの苛立ちが治まるかと思っていた思惑が外れていたことに気付いたのは拓海からのメールを無視した翌日だった。
 愚かなことをしている。
 自分は愚かになっている。
 そんな愚かな自分は許せないのに、プライドも何もかもかなぐり捨てて拓海に縋りたい自分もいる。
 あれから何度か誘われるままに、他の女に付いて行ったことがある。
 手を取られ、女の匂いを嗅ぎ、やはり涼介はその気を失いその手を振り払う。そしてその度に拓海を思い出し、目の前の身代わりでは我慢できない自分を知る。
 堂々巡りの迷路の中に彷徨いこんだようだった。
 そしてそんな葛藤の後、涼介は結局拓海に会うことを決めた。
 何も無かったように、以前のままの関係に戻る。
 拓海が自分を好きで、涼介もまた拓海を好きな振りをする。
 それが正しい形なのだ。
 そしてまた拓海が他の女へ目を向けるようなことをすれば、前のように涼介が他に目を向ければいい。そうすれば拓海は焦って、縋り付いてくるはずだ。
 拓海は自分を好きなのだから。
 たかがこんな結論に長い時間をかけた事が信じられない。
 涼介は苦笑しながら拓海に電話をかけた。
 きっと拓海は電話の向こうで、嬉しそうな声を上げるはずだ。
 だが。
 拓海の携帯が繋がらない。
 プロジェクトのために、拓海の勤務時間は全て把握している。今日は休みのはずだ。それなのに出ない。
 自宅の方へ電話をかけてみた。
『はい。藤原豆腐店』
 電話に出たのは拓海の父親だった。ぶっきらぼうな口調ですぐに分かる。何度か直接会って話したこともある。
「高橋ですが、拓海君はご在宅でしょうか?」
 そう言うと、電話の向こうの声が一瞬途切れる。
『…あぁ?高橋…って、いつも来る兄ちゃんの方か?その喋り方』
「え?」
 涼介は聡い方だ。
 その一瞬の間と言い回しで、その影に潜むものに気付く。バクバクと心臓ががなり始め、激しく鼓動を刻みだす。
『拓海なら、黄色い車に乗ったもう一人のタカハシってのと一緒にどっか行っちまったぜ』
「………」
 何も言葉を返すことが出来ず、無言のまま電話を切った。常の涼介には有り得ない非礼だ。だが今の彼にはそれに気付かなかった。
「…どう言う事だ?」
 呟いた声が、まるで他人のように聞こえる。
 疑問を言葉にして投げかけながら、涼介はもう答えを知っている。
『黄色い車に乗ったもう一人のタカハシ』
 そんな人物は涼介は自身の弟である啓介しか知らない。
 拓海は啓介と出かけた?
 携帯の電源を切って?
 それらの事柄から示される最悪の予想に、涼介は無意識に奮えた。
 怯えたように奮え、頭が霞んで何も考えられない。心臓の音ばかりがやけに大きく鳴り響いている。
 どんな男にも負けない自信はある。
 けれどかつて、「こいつにはいつか負けるかも知れない」、そう思った人物が一人だけいた。
 それが啓介だ。
 自分とは全くタイプは違いながらも、自分と肩を並べる存在。
 その才能を誰より高く評価しているのは涼介だ。
 だから…と、涼介は思った。
 …拓海も思ったのもかも知れない。
 啓介の方が自分より、いいと。
 その考えに行き当たった瞬間、涼介の視界が誇張ではなく真っ暗に染まった。



 それからの涼介は冷静さを失っていた。
 まず、彼がしたのは史裕への連絡だった。
「…前置きは省く。早急に啓介の居所を掴んでくれ」
『どうしたんだ、涼介?何か緊急事態なのか?』
「説明している暇は無い!今すぐ見つけてくれ」
 涼介の剣幕に、史裕は「わかった」とだけ残し電話を切った。すぐに彼は色んな情報網を当たり啓介の居所を掴むだろう。涼介には分かっていた。かつて、不遜なダブルエースのニセモノが現れた時のように。
 ましてや啓介のFDは色からして目立つ。すぐに情報は来るはずだ。
 涼介の思惑通り一時間後、史裕から連絡があり涼介は啓介の居場所を知る。
『渋川のファミレスに藤原と一緒にいるのを見たと言う情報があった。それで涼介、いったい何が…』
 返事もせず通話を切る。
 そしてFCのキーを握り、飛び出す、と言う表現が正しい方法で家を出た。
 もちろん向かった先は啓介がいると言う場所だ。
 峠で荒い運転をしている分、街中では車を労わる運転を心がけている。だが今はそんな事も忘れ、峠と同じテンションで轟音を響かせ走らせた。
 タイヤがきしむ。信号も無視したかも知れない。
 警察に捕まらなかったのは、よほど運が良かったか、または車からも隠しきれない涼介の殺気が滲み出ていたせいかも知れない。
 目的地であるファミレスにはすぐに着いた。
 滑り込むように駐車し、車を降りれば目当ての二人はすぐに見つかった。
 窓側の席に仲良く向かい合って座っている。
 涼介が来たことはFCの音で察したのだろう。二人とも驚き目を見開いている。だがその後の反応は対照的だった。
 啓介は驚き、だがすぐに面白そうに笑い、涼介に向かいひらひらと手を振った。
 そして拓海は、涼介を見た瞬間に驚愕の表情で固まり、だが次に、気まずそうに視線を避け顔を背けた。
 そんな拓海の反応は、涼介に対するやましさの故だろう。そう涼介は思った。
 カッと、ただでさえ昇っていた頭の血が、一瞬で沸点を超える。
 燃え立つ怒りを抱えたまま店内に入り、二人の下へ歩み寄る。
「よう、アニキ。よくここが分かったな」
 ニヤリと笑いながら、自分に喋りかける啓介の言葉が涼介の耳には届かない。
 ただ自分が見たこの光景が導き出すことにのみしか意識が向かない。
「……どう言うことだ?」
 地の底から搾り出すような声に、座っていた拓海の肩が揺れた、怯えているように見えた。涼介の疑惑はますます深くなる。
「どう言う、って…アニキはもう藤原がいらないんじゃねぇの?俺らが何してようと関係ないだろ」
 体中の血が沸き立つ。体の内からマグマのようなものがあふれ出しそうだった。
「…誰がそんなこと言った?」
 目が血走っている自覚がある。眉間にくっきりと皺を寄せ、口元を歪めるように言葉を発する。
「言ってなくても、態度が示してんじゃん」
 ドン、と握った拳がテーブルを叩いた。
 振動で上に乗っていたグラスが倒れ、透明な水が滴り床に零れ落ちる。
「そんな事はしていない!」
 シン、と静まり返った店内に涼介の怒声が響いた。
 そんな涼介の反応に驚いて見せたのは拓海だった。啓介はまだ面白そうに笑っている。
「してただろ?藤原を無視して、あげく朝帰りで女の香水の移り香つけて。弁解できねぇだろうが」
「…け、啓介さん、あのもういいですから…」
 小さな拓海の声。久しぶりに聞いた拓海の声だ。なのにその口が紡いだのは啓介の名で、あげく自分ではなく啓介のスタンスにいる。
 それを感じた瞬間、涼介の限界は越えた。ブチ、と何かが切れたような音が確かにした。
「…来い」
 有無を言わさず拓海の腕を取り立たせ、引きずるように店の外へと連れ出しFCに放り込む。
 キーを回し、エンジンに火を着け逃げ出さないように走り出す。
 怯えたように涼介と一切視線を合わせず、ナビシートに収まっている拓海に、涼介は疑惑を確信へと変えた。
 怒りは残酷な感情を呼び覚まさせる。
 無言のまま涼介はラブホテルの駐車場に車を乗り込ませた。そしてまた拓海の腕を掴み引きずり出す。
「…りょ、涼介さん、俺……」
 躊躇い、首を振る拓海に苛立ちとともに欲望が溢れる。今すぐその服を毟り取って、体中の全てを自分のものにし、その顔を涙と痛みで歪めさせたい。
 そんな思いは表情に表れていたのだろう。酷薄な笑みを浮かべる涼介の顔が、怯え固まった拓海の瞳の中に映った。
「…大人しくしてろ。それともこれ以上乱暴にされたいのか?」
 ビクリ、と拓海の体が激しく震える。そして青ざめた顔で項垂れ、大人しくなった。
 涼介は微笑んだ。
 誰かを、頭から貪り喰いたいと思ったのはこれが生まれて初めてだった。
 そして、食い殺したいと思ったのも。
 もう逃がさないとばかりに掴んだ拓海の腕に、涼介の手の跡がくっきりと残る。
 その跡がまるで自分のものだと所有印を刻んだようで、涼介の欲を煽る。
 もっと。
 もっと拓海の全てを自分でがんじがらめにして、もう二度と誰にも渡さないようにしたい。
 部屋に入り、ベッドに押し倒し、服を破る勢いで毟り取り、さらに両腕を拘束する。
 怯えた眼差しで自分を見つめる拓海に、涼介の嗜虐心は一瞬緩まるが、激情は止まらない。
 それは拓海の肌に触れたことで強まった。箍が外れたように拓海を一心で求める。
 そしてそんな激情は、素直な今の心情を吐露させた。
「……お前は俺のものだ」
 その言葉に、ビクリと拓海が反応する。けれど涼介は自分の激情にいっぱいで気付かない。
 ずっと欲していた拓海の肌、そして匂い。これが欲しかったのだと今の涼介は断言できる。
 最初は陶磁器のように冷たく、涼介を拒んでいた拓海の肌が変わる。次第に熱を放ち、涼介の手に馴染むようにしっとりと吸い付いてくる。
 嬉しかった。
 幸せで、たまらなかった。
「好きだ……」
 無意識に言葉が漏れる。呟いたことで、涼介はやっと遅すぎる自覚をした。
 涼介は震えだした体で、拓海を抱きしめる。拓海にも涼介の震えは伝わっているだろう。怪訝そうな声が涼介の耳に届く。
「…りょ…すけさん?」
 涼介は拓海を見つめた。
 驚愕と怯えに彩られていた顔に、今は心配そうないたわりの表情が浮かんでいる。酷いことをされていると言うのに、まだ自分を心配する拓海に、涼介は苦い笑みを浮かべた。この強く、優しい魂が好きだった。顔も、体も全ては後から付いてくる。
 初めから、そうだったのだ。
 拓海を欲しいと、そう感じた瞬間に恋は始まっていたのに、愚かにも高すぎるプライドと偏見に邪魔されてそんな単純なことにも気付かなかった。
 そして自分が愚かな態をさらしている間に、涼介は大切なものを失った。
 もう遅いのだろうか?
 …もう遅すぎるのだ。腕の中の拓海はもう自分のものではない。彼を自分の思うままに操っている、そう思えていたかつての自分は、愚者の極みであると省みる。
「…拓海が…好きなんだ…」
 馬鹿のようにそれだけを呟き、涼介はもう手に入らない何より大切なものを抱きしめた。



2006.5.21

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