エキセントリックラヴァーズ

act.4 苺色だね君たち編


 寒くもないのにブルブルと足が震える。
 膝の上の拳は爪が食い込むほどに固く握り締められ、じっとりと嫌な汗で滑っている。
 啓介は唸った。
 ―――何だ…。
 ギリ、と食いしばった奥歯が軋む。

 ―――何だ、この空気は?!!





 涼介はティッシュを片手に待ち構えていた。
 心も身体もスタンバイ。
 今か今かと啓介の帰りを待ちわびている。
 徹夜作業で疲れているはずなのに、全身に力がみなぎっているようだ(特に下半身)。
 渾身を込めた涼介の力作である携帯。それの代わりにもたらされるもの。それが今の涼介の力の源だ。
 それは…体操服。
 拓海の汗と匂いが染みこんだ…脱ぎたてホヤホヤの体操服だ!(短パン付き)
 考えただけで身震いがする。
 待ちきれなくてこのティッシュを無駄に消費してしまいそうだ。
 しかし、それはマズい。
 疲労した今の体力で無駄打ちは避けるべきだ。
 するのなら一撃必殺。一発集中。
 量より質の勝負をするべきなのだ。
 落ち着けるために、涼介は携帯を開き画面を覗き込む。
『涼介さん』
 微笑み、涼介の名前を囁く拓海の姿。
 当然携帯カスタマイズは拓海へ送ったものだけではなく、己の物にも完了済みだ。
 しかし、これを完了させるまでにも涼介は多大な犠牲を払った。
 十回。
 十回だ。
 この魔性のような誘惑に耐え切れず、鬼のように耽ってしまった。
 おかげで布地の下のそこは摩擦でヒリヒリと痛みを感じる。
 あと、一発。
 涼介は己の限界をそう判じた。
 玄関の前で扉が開くのをじっと待ち続ける。
 放つオーラは殺気だっており、かつて日光の猿と称した男とのバトル以上の闘志を漲らせていた。
 そして、漸く運命の時がやってくる。
 玄関の向こうに響いたエンジン音。
 紛うことなく、涼介が設定を手がけた啓介のFDの音。
 ガレージから玄関まで約三十秒。
 涼介の中でカウントダウンが始まる。
 …28…19…8、7、6、5、4、3、2、1…。

 ゼロ。

 ガチャリと、ドアのノブが動く。
 その瞬間、涼介の鼓動が増した。
「ただいま〜」
 カウントぴったりに現れたのは待ちわびた啓介の姿。
 殺気だった涼介とは対照的に、その姿からは呑気な空気が漂っている。
 けれど、それは玄関前の兄の姿を見た瞬間に消えた。
「…啓介」
「あ、にき…」
 ピキンと、緊迫した空気が高橋家の玄関に走る。
 ユラリと幽鬼のように涼介が立ち上がり。大事そうに抱えたティッシュとは別の、空いた方の手を差し出す。
「来た…か」
 啓介は一瞬で察した。
 兄が、何を待ち望んでいたのかを。
 いや、はっきり言おう。「何をするために」待ち望んでいたのかを。
 ゴクリと唾を飲み込み、そしてヒュっと息を吸い込んだ。
「持って…来ただろうな…」
 啓介の全身に冷や汗が浮かぶ。目の前の兄が放つプレッシャーにより。
「…ああ。持って来たぜ」
 強張った顔のまま、不敵な笑みを浮かべる。
「アニキが絶対に喜ぶモノ…だろ?」
 涼介もまた、不穏な笑みを浮かべる。
「ああ。そうだ」
 啓介は表情にゾッとした。
 ……ヤバい。イっちまってる!
 それくらいに、涼介の今の表情は中毒患者のそれと酷似していた。
「早く…出せ」
 本能が訴える。
 兄が、キれる寸前なのだと。
 そして啓介は背後に手をやり、ぐいと引っ張り全面に出した。
 それは賭けのようなもの。
 啓介にとっての一世一代の大博打のようなものだ。

「ハイ」

 兄の顔が、危険なものからポカンとしたものに変貌する。
 啓介は賭けに勝った自分を知った。
「あ、あの…こ、こんにちは…」
 啓介が差し出したもの。
 それは、ナマ。
 ナマ拓海だ。
「藤原が携帯のお礼に体操服くらいじゃ割に合わねぇって言うから、現物連れてきた」
 これで、兄とライバルがくっついてしまっても構わない。
 きっとマイナスとマイナスをかければ、プラスになってくれる筈だ。
 いわば、毒を以って毒を制す。
 たとえ、兄が即効拓海に襲い掛かり、AV紛いの状況になってしまったとしても。
 啓介がゴクリと唾を飲み込み、結果を待った。
 そして啓介は…己の判断が甘かった事を思い知らされる。


 結論を言うなら、涼介は拓海を押し倒さなかった。
 さらに言うなら、怒涛の告白劇と言うのも行われなかった。
 啓介は手の中のコーヒーカップをカタカタ揺らしながら、目の前の光景を見ている。
 リビングのソファに座る啓介の前に、涼介の姿がある。
 そしてその隣に拓海。
 けれど、二人は肩を寄せ合い並んで座っているわけではない。
 二人の間には50センチと言う微妙な距離があった。
 啓介は手の中のコーヒーカップをカタカタと揺らす。
 額から滲み出た汗が、ポタリとカップの中に落ちる。
「あの…さ。俺、ジャマだろうからやっぱり…」
 沈黙に耐え切れず、腰を上げようとすると涼介と拓海の二人から無言の圧力を感じる。
 行くんじゃねぇ!と、二人の目が語っている。
 何なんだよ…何なんだよ、コレ…。
 今までの人生において、啓介はこんなにもプレッシャーを感じたことはない。
「あ、あのさ。せっかくお茶入れたんだから、二人とも飲んだら?」
 気まずさに、彫像のように固まる二人にお茶を勧めると、ぎこちないロボットのように二人同時に手が伸び、そしてコツンと僅かに触れ合った。
 その瞬間。
 カァ!
 と音が聞こえるほどの勢いで二人の顔が赤くなり、そして光速の領域で手が離れる。
「す、すまない」
「い、いえ…こっちこそ…」
 視線を逸らし、けれど気になるとでも言いたげに真っ赤な顔でチラチラと相手を見つめ、モジモジと青年男子の身体を縮込ませる。
 ブラックのコーヒーを飲んでいるはずなのに、まるで砂糖をそのまま飲んでいるようだ…。
 啓介の額にまた新たな汗が浮かぶ。
 オイオイオイ、マジかよ。あのアニキが…ソファに「の」の字を書いている…。
 恥じらい、モジモジしている拓海。
 その姿はどこか似合っているとも言えたが、その全く同じ恥じらいをあの涼介もまたしているのだ。
 お互い気になっているのに…けど恥ずかしくて話しかけられない!
 そんな…そんな乙女のような成年男子が二人も啓介の前にいる。
 そのぎこちない。けれど甘ったるい空気。
 居心地が悪いなどと言うものではない。
 何なんだ、一体…。
 啓介は唸る。
 これじゃ…。
 これじゃまるで…「中学生日記」の世界みたいじゃねぇか!
 二十歳前後の男が繰り広げているとは思えないその思春期群像。
 啓介は眩暈がした。
 そしてこの二人はじれったい空気を放ちながら、居た堪れない啓介の退去を由としない。
 聞こえるようだ。二人の声が。
 二人きりにしないで。恥ずかしいモン!と。
 決して兄の声では聴きたくない言葉が。
 ジャリジャリと、啓介は砂糖を噛んでいるような心地を味わっていた。
 苦痛に耐える啓介の前で、モジモジがまた始まる…。
「あ、の…高橋さん」
 お前、さっきまで「涼介さん」って名前呼んでたじゃねぇか。
「…え?…あ、ああ。俺の事か。啓介を呼んでいるのかと思ったよ」
 あの傍若無人を絵に描いたような兄が…そんな自信なさげな表情をするとは。げに恋とは偉大だ。
「あ、違います!その…黄色いのじゃなくって…白い高橋さんです」
「あ、ああ。白い方か。だったら俺だね」
 ……突っ込め!!!
「あの、白い高橋さん。その…携帯…ありがとうございます!」
 拓海がペコリと涼介の前に勢いよく頭を下げる。
 頭を下げた拓海の、サラリと髪が流れる項が涼介の眼前に晒される。
 涼介の顔が一瞬崩れる。好物を前にした飢えた獣の如く、今にも涎を垂らさんばかりの緩んだ顔。
 けれど、それは拓海が顔を上げた瞬間に、いつものスカした兄のものへと変化した。
 啓介はいつもスカした表情しかしない兄の表情筋が、意外に強靭であることを知る。
「あんな高いもの…俺、すごい嬉しいです」
 頬を染めモジモジしながら言う拓海は確かに中世的な容貌と、そのどこか柔らかな雰囲気から可愛らしいと言って過言ではないだろう。
 百歩譲って、兄が中毒になるのも分からないでもない。
「いや、喜んでもらえたなら嬉しいよ。あんなものでよければ幾らでもプレゼントするさ」
「そんな!もう十分です!!あの…なのに俺、涼介さんにお返しできるものが何も無くって…」
「…涼介さん…今、俺の名を…」
「え?」
「い、いや、何でもない。それより、そんなに藤原が気にすることは無い。俺は十分にフジ…いや…その…た、拓海から貰っているよ」
「…今…涼介さん、俺のこと拓海って…」
「い、嫌だったか?」
「い、いえ…。あ!俺も、涼介さんって…すみません。失礼でしたよね」
 そんな事が失礼だというのなら、さっきの「黄色いの」発言はもっと失礼ではないのだろうか?
 ズズズと啓介のコーヒーを啜る音が部屋に響く。
「いや、気にしない。むしろ俺は……」
「え?」
「拓海から…そう呼ばれたい…」
「涼介さん…」
 スススと、二人の間の距離を埋めるように指先がソファの上を這いながら互いに近付いて行く。
 そして二人の指がチョンと触れ合った瞬間、衝撃にでも出くわしたようにパッ!と離れ、顔を赤らめ視線を逸らす。
 啓介の足が寒くもないのにカタカタ震える。
 膝の上の拳にはジットリと汗が滴り、爪が食い込み肌に血を滲ませている。
 ギリ、と食いしばった奥歯が軋む。
 チラリと前を見れば、甘ったるくも、じれったい光景。
 フワフワと纏う空気は甘い甘いイチゴ色。
 啓介は唸った。
 ――何だ…何だこの空気は?!!
 イライラすると言うより、ムズ痒くて見ていられない。
 啓介はもう我慢できず、有無を言わさず、
「俺、トイレ!!」
 叫び席を立ち、甘ったるいストロベリー・フィールドを脱出した。
 リビングを出た瞬間、甘い空気が消え清浄なものに変わる。
 それを堪能するように大きく息を吸い込み、そして全身に伝う汗を拭った。
「……恐ろしい」
 かつて、ヤンチャをしていた頃に、10人に囲まれても恐ろしいと思ったことなど無い。
 目の前にナイフを翳されても、怖気づいたことなど無い。
 けれど今は、啓介は恐怖を感じている。
 また再び、あの空間に戻ることに怯えているのだ。
 考えただけで足がカタカタと震えだす。
 その足を自分で殴り、震えを必死に止めようとするが止まらない。
 啓介はもっと安直に考えていたのだ。
 二人が顔を合わせれば、すぐに恋は始まるのだと。
 しかし。
 そう、しかし。
 啓介は舐めていたのだ。
 大人の交際と言うものに慣れ切って、いわく、「初恋」と言うシロモノを。
 しかも、ただの初恋ではない。
 カリスマの初恋だ。
 いや…はっきり言おう。

 変人の初恋を!

 テンポが違う。
 ノリが違う。
 っつーか、性別同じだし。
 何もかもが啓介の未知の世界のことだ。
 自分が常識的な方であるなどと、思ったことは一度も無いが、今それを嫌というほど思い知らされている。
 フゥ、とまた息を吐き、啓介は覚悟を決めた。
 恐れるな。
 そうだ、あの中にいるのは誰だ。

 俺のアニキだ。

 そして、啓介がライバルと目す人物。
 そんな二人に怯み、同じ舞台から転げ落ちていては、二人との距離はいつまでも縮まらない。
 啓介は意を決し、再びリビングの扉を開いた。
 そして。

「うふふ。涼介さん。寝心地は大丈夫ですか?」
「ああ。拓海の太ももは最高だよ。俺にとってのテンピュールだな」

 ナニコレ?

 ソファの上で、拓海の膝を枕に寝転ぶ兄。
 嬉しそうに膝の上の涼介の頭を撫でる拓海。
 扉を開け、呆然と固まる啓介に、二人が視線を向ける。
 ギラリと、まるで日本刀のようなソレ。
『…ジャマすんじゃねぇ…』
 とその目が語っている。
 啓介は無言のまま、パタリと扉を閉じた。
 グルグルと、「考えが足りない」と称される頭を回転させる。
 啓介が席を外したのは5分ほどのはずだ。
 その5分の間に、リビングの世界は一変していた。
 ジワァっと視界が潤み、横隔膜が痙攣してくる。
 自分がしゃくりあげながら泣いているのだと気付いたのは、廊下に響いた泣き声を聞いてからだった。
 啓介は言った。泣きながら。魂の叫びを。

「…ワケ…わかんねぇ…」




2007.11.18

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