白い雪が降る夜に

act.3


 気まずい沈黙が部屋に下りる。
 黙々と目の前のケーキを片付けながら、身支度を整えた二人はさっきから目線を逸らしたまま合わせることがない。
 ケーキはおいしい。けど、さっきまでの出来事が頭に残って、どうもその味を堪能することが出来なかった。
 こんな経験は拓海にとって初めてで、どうしていいのか全く分からない。
 口の中の甘いクリームの味。この口の中にさっきまで、涼介の舌が潜り込んでいた…。
 その生々しい動きまで再現させてしまい、拓海は上った熱を振り払うように頭を何度も振った。
 嫌だったわけじゃない。
 ただ、何もかもが急すぎて、びっくりしすぎて頭よりも身体が先に動いてしまっただけのこと。
 …もう、嫌われたかな…。
 目を合わせてくれない涼介に、拓海の不安は募る。
 ハァッと、大きく溜息を吐くと、何故かビクリと涼介の身体が震えた。
 ……?
 不思議な反応に、拓海が涼介を見れば、彼もまた拓海の反応を窺うようにこちらを見ていた。
 目が合わさる。
 そこにはいつもの冷静さも、余裕も自信もどこにもなく、まるで、叱られる寸前の子供のような怯えがその目の中にあった。
 そして、覚悟を決めたように深く息を吸い込んだ涼介は次の瞬間、
「すまなかった!」
 深々と、畳に付くほど頭を下げた。
「…えっ?」
 …やっぱり嫌われた?すまなかったって言うのは、告白が間違いだったってこと?
 不安が最悪の答えを予想する。
 だが、
「暴走してしまったのは謝る。本当にすまなかった!言い訳のようだが、ずっと好きだったんだ。だから、触れてしまったことでつい、箍が外れたというか…ああ、何言ってるんだろうな、俺…」
 余裕のカケラも無く、言い募る必至な様子。
「とにかく、もうあんな事はしない。だから、その…嫌わないでくれないか?」
 土下座しながら見上げるその瞳には、自分と同じ、不安が色濃く映っている。
 この人をずっと完璧な人だと思っていた。
 手の届かない人だと。
 けれど、今、目の前にいるのは拓海と同じ。ただの恋する一人の人間だ。
 夢などではない。
 現実に、そして真摯に自分に告白してくれた人…。
 拓海は、徐々に蕾が花咲かせるように、ゆっくりと笑みを顔に浮かべた。
 心から嬉しくて、幸せで微笑む。
 その拓海の笑顔に、涼介はぽかんと見惚れ、らしくなく顔を赤く染めた。
「涼介さんが好きです。嫌いになんてなれません」
 はっきりと、言葉にして言った。
「だから…顔上げて下さい。せっかくのケーキ、おいしく食べましょう」
「……許してくれるのか?」
「…許すも何も…その、嫌だったわけじゃなくて、あの…お、驚いて、急だったからつい…」
「あ、ああ…すまなかった。急ぎすぎたな。本当に悪かった」
「…謝らないで下さい…その、う、嬉しかったんですから…」
「……拓海…」
「…ゆっくり…で、その…」
「…ああ。ゆっくり行こう。ゴメン。だから、その、いつか…いいか?」
「………はい…」
 二人、顔を真っ赤にして、どぎまぎしながら顔を見合わせた。
 緊張した顔に、ふと笑みが漏れる。
 ドキドキと戦慄く気持ちはそのままに、穏やかな空気が二人の間に広がった。
 心がじんわり、温まるようなそんな心地好い空気。
 どちらともなく顔が近寄って、軽く触れ合うだけのキスをして。
 ふと離れた互いの目の中に、自分を見つけて微笑んだ。
 ぎゅっと握った指先から、じわじわと恋心が流れこんでくるようで、繋いだ手を離せなくなってしまった。
「好きだよ、拓海」
「涼介さんが好きです」
 窓の外には冷たく凍るような真っ白な雪。
 だけどこの部屋の中は暖かい。
 どこよりも。誰よりも。
 繋いだ指先の温もりが一番暖かかった。



 クリスマスプレゼントだと渡された箱の中には携帯電話が入っていた。
 こんな高いもの…と恐縮する拓海に、涼介は「これから必要になるだろう?」と拓海の手にそれを握らせる。
「それに…俺のとお揃いなんだよ」
 と、照れくさそうに笑う顔を見ると、拓海はもう否と言うことは出来ず、有難く受け取ることにした。
「好きな時に電話でもメールでもしてくればいいから」
 そう言いながら、彼が拓海の携帯を操って見せてくれたアドレスに表記されていたのは「高橋涼介」の名前だけ。
 身を寄せ合って、携帯を持つのは初めてと言う拓海に、涼介が判り易く電話の受け方からメールの送り方までを倣う。
 おっかなびっくり、人差し指だけで不器用そうに小さなボタンを押す拓海の姿に、涼介の自然な笑みが浮かぶ。
「あ、そういや、私、涼介さんへのプレゼント、用意してないです…」
 申し訳無さそうに項垂れながら言う拓海の手を取り、涼介はその指にキスをする。
「もう貰った。すごいのを」
 意味ありげな視線で見つめてやれば、拓海は頬を赤く染めて俯いた。
 …本当に、これ以上は無い最高のプレゼントだよな…。
 文太に頼み、今日このクリスマスと言う特別な日に拓海と二人でいることを許された。
 このチャンスを、無駄にしないだけの自信も経験もあったのだが、結果は散々で。
 こうやって、拓海と気持ちが通じ合い、身を寄せ合うように触れ合っているのは奇跡のようだ。
 拓海の前だと余裕も自信もまったく無くなる。
 愚かな恋する男が一人で、もがいているだけだ。
「涼介さん、えっと、ここはどうするんですか?」
「ああ、ここは…」
 顔を寄せた瞬間、拓海の髪がふわりと涼介の頬にかかる。そんなささやかな感触に、またも暴走しそうな自分を感じ、身を引けば、拓海はきょとんと不思議そうに涼介を上目遣いで見上げてくる。
 大きな、澄んだ瞳に見つめられ、涼介の鼓動の高鳴りがまた早くなる。
 これが、計算ではないから恐ろしい。
 無自覚で自分を魅了し、虜にしておきながら、自覚がまったく無いときている。
 …何でこれで女だって気付かなかったのか?
 最初に、あの走りを見せられたことで、女であるという考え自体が頭から消え、強烈に「藤原拓海」という一個人を植え付けられた。
 そして、偏見は無いつもりだったが、あんな走りが女に出来るとは想像だにしなかった。
 …先入観。
 その一言が涼介の目を眩ませたのだろう。
 だが、眩んだ目でも、拓海の存在は眩しく、涼介の心を掴んであっと言う間に奪ってしまった。
 どこに惚れたのか?それを説明するのは難しい。
 拓海を見るたびに、魅了され、惚れ直す自分がいたから。
 何もかもに惹かれて止まない。もう病気のようなものだ。
「…涼介さん?」
 ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、睫が長いことに気付く。そして長い睫と、大きな潤みがちな瞳にじっと見つめられると、涼介の理性は簡単にレッドラインを超えていく。
「……拓海…」
 以前は夢の中でしか許されなかった接触。
 拓海の肩を引き寄せ、顔を近づける。
 涼介の意図に気付き、拓海は一瞬で真っ赤になり、瞼を伏せ視線を彷徨わせるが、しかしすぐに意を決したように心もち顔を上げ、そして目を閉じた。
 赤く染まった頬。閉じられた瞼は緊張から微かに震えている。
 何もかもが愛しくて堪らない。
 その想いを少しでも伝えたくて、彼女の唇に触れようとしたその瞬間…。
「…わっ!」
「…っ?!」
 …電話のベルが鳴る。
「え、えっと、あ、あれ??」
 その音に我に返った拓海は、慌てて自分の手の中の携帯の通話ボタンを押すのだが、音は止まない。
「拓海、それじゃない。家の電話だと思うが…」
「あ、ああ、そっか…」
 バタバタと慌てて立ち上がった拓海が居間に据えられた家庭用の電話の受話器を取った瞬間に音は止んだ。
 そしてその後、電話に向こうの声に、二言三言だけ返してすぐに切った拓海は、振り返った時には何とも言えない複雑そうな表情になっていた。
「あの、涼介さん。その…うちの親父からで、今から迎えに来いって言うんです…」
 言いづらそうに、電話の向こうの父親への憤慨もあるのだろう、少し憤ったような声音の拓海が言う。
 涼介は理解した。
 …親父さんのタイムリミットか…。
 どうやら文太が与えてくれた時間はもう終わりのようだ。今後を考えると、ここは潔く帰るのが良策だろう。
「そうか。じゃ、俺もそろそろ帰るよ」
 涼介が腰を上げると、拓海は「えっ?!」と小さく呟き、縋るような目で見てくる。
 …だから、そんな顔するなよ…。
 この先、彼女にはそんな事も教えなければならないようだ。
「お父さんのところまで送るよ。どうせハチロクに乗って帰らなきゃならないんだろう?」
「…あ、はい、そうです」
 送る、とそう言った途端、悲しそうだった拓海の顔が笑顔になる。
 その素直な表情を見た涼介の顔にも、笑みがこぼれる。
「…涼介さんのFCに乗れるんですよね。なんかスゲェ…」
 コートを羽織り、外へ出た拓海は、店の横に停められたFCを、まるで宝物を眺める子供のようにキラキラとした瞳で見つめる。その瞳の熱の強さに、車にまで嫉妬する自分を感じ、涼介は苦笑した。
「大したもんじゃないけどな。良ければ乗ってくれ」
 そう言い、助手席の扉を開く涼介の姿に、拓海の胸のざわめきは強くなった。
 しかし中に乗り込み、走り出した瞬間、ふとよぎった考えに拓海の表情が暗くなる。
 …ここに座るのは、自分で何番目なんだろう…。
 涼介が今まで一人でいたとは思っていない。
 慣れたキスと、仕草。それだけで涼介の経験値が悟られる。
 考えても仕方が無いことだ、それは頭では理解しているのだが、感情までは追いつかない。
 だがそんな拓海の心を読んだわけではないだろうが、涼介が嬉しそうにこう言った。
「この車に身内以外で乗せるのは拓海が初めてだな…」
「えっ?」
「ん?…いや、啓介と従妹と、あと史裕ぐらいだと思ってな。そこに座るのは」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。あいつらを乗せてても荷物としか思えないが…いいもんだな。恋人を乗せるのは」
「でも、あの…じゃ、今までって…」
「今まで?」
「…あ、何でもないです…すみません…」
 ついうっかり、余計なことを聞きそうになり、拓海は慌てて口を閉じた。
 だが涼介は拓海の閉ざされた言葉の続きを察したのだろう。
「言っておくが、俺は恋人と呼べる存在を持ったのは拓海が初めてだ。恥ずかしい話だが、俺の初恋はお前だよ」
「う、うそっ?!」
「本当だって。後で啓介でも史裕にでも聞いてみろよ。そりゃ…この年だから聖人君子とはいかなかったけどな、だが紛れもなく俺の恋人は拓海が初めてだ」
 単純だと思うが、その言葉で一気に浮上する自分を感じる。
 じわじわと、胸の中にあたたかいものが湧いてきて、幸せな気持ちが止まらなくなってくる。
 これだけでも拓海は幸せで仕方がないのに、涼介はさらに拓海を幸せすぎて堪らない気持ちにさせる言葉を続ける。
「…俺は恋をするのはお前が最初で…そして最後にしたい。それは分かっていてくれ」
 ぎゅっとシフトレバーを握っていた左手が拓海の手を掴み、握り締める。
 温かな熱。
 その手のひらの上に、自然と溢れた拓海の涙がぽつりと落ちる。
「……はい…」
 自分も同じ気持ちだと、指先から伝わるように力を込める。
 迷いもある。不安もある。
 けれど、確かなのは好きだという気持ちと、彼を信じる心。
 …この人に付いて行こう。
 そう思うと同時に、迷っていたチームの参加への決意も固まった。
 この人と一緒に歩いていきたい。
 自分の力量に対する不安は今も消えないが、きっとこの人となら大丈夫だ。そう信じられる。
 だから…。
「…涼介さんと、一緒にいます。…ずっと」
「…拓海?」
「…来年も、その後も、涼介さんと走りたいです」
 言葉は上手くない。どう伝えればいいのか分からないけれど、今、自分の胸の内にあるものを言葉にしたつもりだった。
 …伝わったかな?
 不安に、そっと涼介の顔を窺えば、彼は安堵の笑みを浮かべ、そして握った拓海の手を、ひときわ強く握り返してきた。
「…ありがとう」
 そこにあったのは、恋人の顔ではなく、チームリーダーの顔で、
「…本当に、最高のプレゼントだ」
 けれどそう言った涼介の顔は、また恋人のそれになっていた。



「何だよ、親父、全然酔っ払ってねぇじゃん」
「うるせぇ。今は年末だから警察が張ってんだよ。お前、罰金高いんだぞ?捕まったらどうすんだ」
「…知るかよ。わざわざ来てやったんだから、ほら、さっさと乗れよ」
「口の悪ぃガキだな。少しは俺に感謝ぐらいしたらどうだ?」
「何で感謝なんかしなきゃならないんだよ…」
 …いや、感謝は必要だと思うぞ、拓海。
 暗に意味する文太の言葉に、涼介は堪えきれず苦笑をもらした。
「おう、悪かったな、高橋さん。こいつ送らせちまったみたいで」
「いえ、女性を夜道に一人で歩かせるわけにはいきませんから」
 目に感謝の念を込めて、頭を下げた。それだけで文太は事の顛末を察したらしい。
 複雑そうに顔を歪め、バリバリと頭を掻きながら溜息を吐いた。
「ま、しゃーねぇか…」
 密かに交わされる涼介と文太の言葉にはしない会話に、拓海だけが気付かず、
「何だよ、その言い方」
 不服そうに唇を尖らせる。
 拓海が父親の前で見せる顔は、涼介の前の時とは違う別の顔。
 そんな拓海の姿を、興味深く眺めていた涼介は、自分を見つめる視線に気付いたのだろう、同じようにこちらを見返してきた拓海と目が合い、しばらく見詰め合う。
 お互いの視線に熱がこもる。
 離れるのが惜しいような感覚に、ずっとこのままでいたいような気もしたが、
「あー…、じゃ、行くか、オイ」
 気まずそうな文太の声により阻まれた。
「え、あ、う、うん!」
 ハッと我に返った挙動不審な拓海は、慌てて頷き運転席に乗り込んだ。
「あの、じゃ、涼介さん。今日は本当にありがとうございました」
「ああ。俺も楽しかったよ。気をつけてな」
「はい…」
 名残惜しい気持ちを堪え、エンジンを着けて見送る涼介に小さく手を振り拓海はハチロクを走らせた。
 あの時と逆のシチュエーション。
 遠ざかっていく涼介の姿をバックミラー越しに見ながら、拓海はあの時の涼介もこんな気持ちだったのかな、と夢想する。
 自分の去っていく後姿を、ずっと見ていて欲しい…。そして忘れないで欲しい…。
「おい、ぼーっとしてんなよ」
「…分かってるよ」
 思わず飛んでしまいそうな意識を、車に戻して慣れた道を走らせる。再び静かになった車内に、ふと、携帯のベルが鳴った。
「…何か鳴ってるぞ」
「え、え、と、あ…」
 慌ててポケットから取り出した携帯の画面に出ていたのは、高橋涼介の名前とメールの着信表示。
 教えられたばかりの使い方を思い出しながら、ボタンを押す。
『おやすみ。また明日。言い忘れていたけど、メリークリスマス』
 画面に現れた彼のメッセージに、思わず見入っていると、文太からまたも悪態が飛んでくる。
「…余所見してんじゃねぇぞ。…ったく、色ボケしやがって…」
「う、うるせーよ!」
 慌てて携帯を閉じて、またポケットの中にしまう。
 家に帰ったら…。
 ぶあつい取り扱い説明書を見ながら、彼にメールを送ろう。
 メールの送り方を教えてもらったが、イマイチ上手く使える自信がない。
 けれど、せめてこの言葉だけは伝えたい。
『おやすみなさい、また明日』
 そして、
『メリークリスマス』
 生まれて初めて、誰かにそう伝える言葉。
 とても幸せな気持ちで、あの人に送ろう。
 走る車の中から振る白い雪を見つめる。
 雪は嫌いじゃない。
 白い色が、あの人を思い出すから。
 だけどこれからは…。
 きっと、雪を見るたびに思い出すのだろう。
 とても幸せになった、今日の夜のことを。
 ずっと冷たかった指先は、温められもう冷たくない。
 拓海はハンドルを握る指に力を込め、慎重に雪の降る道を走らせて行った。




2005.12.27

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