白い雪が降る夜に
act.1
例年よりも早い雪が、空と町を彩る。
雪は嫌いじゃない。
白い色が、あの人を思い出すから。
かじかむ指に、はぁっと息を吹きかけ、手を擦り合わせて暖を取る。
真っ暗になってしまった空には白い雪。
ちらちらと降る雪は、うっすらと道や家々を白く染め、闇夜に眩しい明りのように光っている。
時刻はもう午後八時近い。
クリスマスイブで賑わう町や商店街に目もくれず、拓海は冷たい指を温めながら滑らないようゆっくりと歩きながら家路に着いていた。
拓海のバイト先であるGSの仕事は、夏場も辛いが冬場も辛い。
吹きさらしの風に吹かれ水仕事が多いので、どうしても指は凍え、あかぎれになった手は、触れた自分の肌でさえ傷つけそうなほどに荒れて血が滲んでいる。
拓海はもう一度、手のひらに息を吹きかけ、指を温めた。
毎日ハンドクリームなどを塗ってはいるが、それはこれ以上の手荒れを予防する手段にはなっても、改善させるまでには日々の負荷が強すぎた。
普通の高校生。ましてや女子高校生ともなれば、こんな負担の多いバイトはすぐに止め、暖かい暖房の中、水仕事さえないところに行くのが通常だろう。
実際に、拓海の友人である茂木なつきは、一旦入ったのはいいが、すぐにファーストフードのバイトへと変わってしまった。
しかし拓海にとってそれは別に辛いことと思ってはいなかった。
いつも厳寒の冬場でも、氷点下を記録する早朝、冷水に手を浸しながら仕事をする父親を見続けていたから。
だから茂木に一緒にバイトを代わることを求められた時に断った。
それに、
『…私にはあんな接客業は無理』
そうも思った。
いかにも可愛いタイプの女の子らしい茂木と違い、拓海は女の部類には一応入るが、見かけも性格も女の子らしいとは言いがたい。
実際に、このGSのお客は皆、男性用の制服を着用する拓海を男と信じて疑わないし、私服でもそれは同様だった。
拓海が秋名のハチロクと呼ばれ、峠に通うようになってもう五ヶ月が経っている。
その間、何度か走り屋と呼ばれる人々に会い、バトルを繰り広げたりしたが、その誰もが拓海を男だと信じて疑わなかった。
確かに、今年の夏に突然現れ、そのキれた走りと神がかったドラテクで並居る走り屋たちを総ナメにし、そして無敗を誇ったカリスマを抜き去った人物。
それがまさか、まだ免許を取って1年にも満たない18歳の、しかも女子高校生とは夢にも思っていないだろう。拓海自身は、別に自分が高校生であることも、女であることも隠しているわけではなかった。
だが女にしては背が高く、中性的と言えば聞こえはいいが、男っぽい容貌の拓海に、迷うことも無くみんなは男だと思い込んだ。
バトルをした相手の中で、唯一何度も面識のある、あの人でさえ。
手を温めるだけではない、溜息が拓海の口から漏れた。
…しょうがないよな。こんなデカいうえに男にしか見えない奴が、まさか女だなんて思わないだろうし…。
そう思ってはいても傷付く気持ちはある。
拓海は、今まで自分がこんな女々しいやつだなんて思わなかった。
そして…。
はぁっと、また指に息を吹きかける。
拓海は脳裏に、バイト中に聞いた会話を思い返した。
『あ〜あ、彼女いるやつはいいよな〜』
『だよなぁ。今日はどこもカップルだらけだしなぁ。一人でいると侘しくて仕方ないよ』
『そっすねー。一度でいから俺も高橋兄弟みたいにカッコよくなってみたいですよ』
『だな。きっとあの人たちなんて、モテるだろうから、今日なんて忙しいんだろうなぁ』
そうボヤく先輩二人と幼馴染の言葉に、拓海は何も言えなかった。
そして、何だか沈んでしまった気持ちを抱え、彼らのカラオケの誘いも断り、雪道の中を一人歩いて家へと向かっている。
――高橋涼介。
その名前が拓海にとって特別なものになってだいぶ経つ。
最初は見ているだけでざわめく自分の胸の内に気付かなかった拓海だが、彼とのバトルの後、初めて言葉を交わした時に、自分が恋をしていることを知った。
遠ざかっていく白い車のテールランプ。
それを見つめながら、泣きたいほどに切なくて、苦しくて仕方がなかった。
だけど相手は、走り屋の間でもカリスマの存在。しかも容姿も家柄も、おまけに中身まで文句の付けようがないほど完璧な人だ。
きっと今ごろ彼の隣には、そんな完璧な彼に似合う綺麗な人がいるのだろう。
そして恋人たちにとって特別なこの夜を、一緒に過ごす…。
それを考えると、拓海はまるで氷で切りつけられたかのように胸が痛み、凍える。
彼の隣に立ちたいわけではない。
自分が勝手に傷付いているだけだと分かっている。
だけど、理屈で割り切れないのが恋だ。
いっそ捨ててしまいたいとも思うが、でもあの姿を思い出すたびに、幸せになる自分も確かにいる。きっと何だかんだ言って、自分はずっとあの人の姿を追いかけ続けるんだろう。そう思った。
あの夏の夜…。
去っていくテールランプの明りをずっと見続けていたように。
届かないと知りながらも、拓海は思うことを止めれない。
この降る雪のように、時には激しく、時には穏やかに、けれど確実に心の中に降り積もる。
夏から降り出した心の中の白い雪は、もう拓海の中を埋め尽くして消える気配など少しもない。
だから…。
はぁっと、拓海は真っ赤な指先に息を吹きかける。
…きっと、ずっと自分は彼を好きなままだろう。
あの人の隣に、綺麗な誰かがいるのを見たとしても。たとえ結婚したとしても。
思うのは自由だ。
ずっと秘めたままでいよう。そう思ったのに…。
拓海は指を擦り合わせながら空を見る。
ひらひらと舞い落ちる雪。
この雪のように白い車に乗った彼が、スタンドに突然現れ、拓海を呼び出しそして言った。
『俺たちの遠征チームにドライバーとして参加してみないか?』
口元には柔らかな微笑を浮かべながら、真剣な眼差しが拓海を射た。
『わかりやすく単刀直入に言えば…お前がほしいんだ』
口説き文句に似た言葉に、そんな意味じゃないと知りながらも胸がざわめいた。
『俺といっしょにやろうぜ』
差し伸べられた彼の手に、見ているだけでいいと思っていた拓海の中に欲が生まれる。
だがそれと同時に生まれたのは不安。
近付くことによって、幻滅されることもあるのだから。
もし、あの人の望むとおりの走りが出来なかったら…そう考えると怖くて仕方がなかった。
好かれようなんて思っていないが、こんなものかと幻滅されたり、軽蔑されるのが怖い。
もちろん一人のドライバーとして、涼介の誘いは魅力的なものだった。
だが、だからこそそんな彼の期待に応えれるようなドライバーなのか、まだ自分の中で納得が付いていない。
『今すぐ返事をしてくれとは言わないから…考えてみてくれないか』
だから、その彼の言葉に甘え、未だに返事を躊躇っている。
ぼんやりとそんな事を考えながら歩いていると、先ほどよりも雪の勢いが増しているのに気付く。
冷えた体をぶるりと震わせながら時計を見れば、いつもの時間の倍以上をかけて帰っていたようだ。
学校の制服のままの足は、ズボンじゃなくて短い膝上のスカートだ。むき出しの足はもう真っ赤になって、指同様冷え切っていた。
自覚すると寒くて堪らなくなって、ダッフルコートの下の体をすくめるように拓海は見慣れた道を早足で家へと急いだ。
店の電気は消されているが、奥の居間の明りは付いている。
忘年会に行くと今朝言っていたようだが、どうやらまだいるらしい。
あの父親が自分の分の食事まで用意しているわけがないから、拓海は脳内で自分の夕食の準備に取り掛かる。
…味噌汁は朝の残りの油揚げと豆腐のやつがあるし、昨日の残りの煮物と、あと魚の切り身があったからそれでも焼くかな…。
クリスマスイブには乏しい食卓だが、これが拓海の現実だ。
豪華なディナーや大きなクリスマスケーキに憧れたこともあったが、あまり裕福ではない父子二人暮らしの生活で、そんなものはとっくの昔に諦めた。
だから。
「ただいま」
いつものように玄関を開け、
「親父、今日、忘年会じゃなかったっけ?」
そう当たり前のように居間に声をかけ、ダッフルコートを脱ごうとしていた拓海は、自分の目に写ったものが現実だとは思いたくなかった。
きっと、好きすぎて、頭がおかしくなったんだと思った。
なぜならば…。
「おかえり」
そう返してくれたのは、見慣れた自分の父親ではなく、ましてや近所の人なのでもなく。
「遅かったな、藤原」
さっきから、いや夏からずっと、拓海の頭の中を占めている、高橋涼介。
その人であったのだから。
驚愕でコートをはだけた格好のまま固まる拓海と同様に、なぜか涼介のほうも声をかけたきり、切れ長の目を見開き、口をぽかんと開けて固まっていた。
ぐるぐると色んなものが渦巻く頭の中で、拓海はそれでも「カッコいい人は驚いた顔もカッコいいんだな」などと少々ボケた事を考えていた。
先に動いたのは涼介だ。
驚愕から立ち直り、フッと甘く目元を和らげ微笑んだ。
…幻にしてはよく出来てるなぁ…。
これはきっと現実じゃないに違いないと思い込んでいる拓海は、目の前の人物が幻覚だと信じて疑わなかった。
「藤原、早く入れよ。足、真っ赤だぜ。寒いだろう?」
「え?え、ええ、は、はい…」
…うわぁ。幻が喋ったよ。声までそっくりだ。
拓海は雪を被り濡れたダッフルコートを脱いで玄関脇にかけ、涼介が指し示すままコタツに入った。
じんわりと、むき出しだったせいで冷え切った足が温まっていく。
ほぅっと息を吐き、よく温まるようにコタツに深く入り込もうとする拓海の様子に涼介の笑みが深くなる。
「雪、ひどかったのか?頭に残ってるぜ?」
暖かさを欲するあまりうつむきがちだった拓海の髪についた雪を払う。
「耳も、頬も真っ赤だな…」
髪の雪を払った手のひらは、そのまま下がり拓海の冷えた頬に当てられる。室内にずっといたせいか、温かな指が拓海の頬を包む。
…あ、あったかい…最近の幻はすごいよくできてるよなぁ…って、えっ?!
その指の感触に、ようやくボケていた拓海の頭もしっかりする。
うっとりと、その手のひらに頬を預けていた拓海は、目を見開き、目の前の人物を凝視する。
「…た、高橋さん?!」
「ああ。俺だ」
楽しそうにクスクスと笑う彼の表情は、今まで見たことがないくらいにリラックスしているようで、一瞬、拓海はその顔に見惚れるが、すぐに我に返って問い詰める。
「な、何でこんなところに?!あ、あの、親父は…?」
慌てて離れる拓海の頭に、涼介は伸ばしていた手を名残惜しそうに引き戻した。
「藤原のお父さんだったら、俺に留守番頼んでハチロクに乗っていっちまったぜ?」
「え?…あの親父…。…すみません、高橋さん。迷惑かけちゃったみたいで…」
きっとたまたま尋ねてきただけの涼介を、あの父親が有無を言わせず押し付けて出かけてしまったのだろう。恐縮しながら頭を下げる拓海に、涼介は和やかな瞳のままで微笑んだ。
「俺は別に迷惑じゃない。藤原に会いに来たんだからな」
「…え?…って、あ、もしかして、返事ですか?あの、でもまだ…」
「ああ、そうじゃないよ。今日はクリスマスイブだろう?」
「はい」
「だから藤原に会いに来たんだ」
「はい?」
拓海には何が何だか分からない。
分かるのは、目の前の涼介がやけに上機嫌だということだ。
楽しそうにニコニコと笑う姿に、つられて拓海の気分も浮上する。
「食事、まだなんだろう?買ってきたから一緒に食べよう。ああ、台所少し借りるな」
「えっ!」
立ち上がり、台所に向かおうとする涼介に、慌てて拓海も立ち上がり彼の後を追う。
「ちょ、あの、高橋さん!?」
向かった台所には見慣れない大きな箱。覗き込んだそこには、拓海がお目にかかったことの無いような豪華な食事がプラスチックの容器に詰められていた。
「遠慮するな。行き着けのビストロのケータリングのセットなんだが、結構いけるぜ?」
そう言いながらも涼介の手は止まらず、地味な藤原家の居間のコタツの上に、豪華な食事の数々が並べられていく。
「そ、そんな、私なら昨日の残り物とかで食べますから…」
見たことの鮮やかな料理に戸惑い、拓海が焦りながらそう言った途端、準備をしていた涼介の手がぴたりと止まった。
「…残り物?それは藤原が作ったのか?」
「え、あ、はい。煮物と、豆腐と油揚げの味噌汁ぐらいですけど…」
「そうか。じゃあ、俺はそれを頂くから、藤原はこれを食べればいい」
「は、はぁ?」
「物々交換だな。それで文句はないだろ?」
「え、ええっ?」
「それとも、藤原は俺とは食事したくないか?」
その問いに、拓海は勢い良く首を左右に振る。
「そうか。じゃあ、決まりだな。早く食べようぜ」
そう機嫌よく笑う涼介に、拓海は頷くしか出来なかった。
2005.12.24