Five
act.2
身体が重く、だるい感じで眩暈がする。
吐き気は無いが、食欲が無い。
妊娠の症状なのかなと思いながら、拓海は重い身体を起こした。
まるで風邪に似た症状が身体を襲っている。
生理が遅れていると気付いたのは、三週間前だ。
元々不純だったので先月より一週間ほど遅れても気にしなかったが、さすがに二週間、三週間目を迎える頃に不安になった。
ましてや、そう言った行為に覚えがあったので尚更。
薬局で妊娠検査薬を買ってきたのは昨日。
陽性反応の出た検査薬は捨てるに捨てれず、未だリビングのテーブルの上に置かれたままだ。
今日にでもちゃんと医者に見てもらおうか?
本当に妊娠していたら、実家に帰り、そこで家の手伝いをしながら子供を育てよう。
勢いをつけて立ち上がると、下腹がズキリと痛んだような感じがした。
その痛みは、涼介とセックスをした翌日のあの痛みと似ている。
誰にも踏み込まれたことのない最奥を彼に穿たれ、血を零したあの日の翌日。
ぐっすりと眠る彼を残し、拓海はホテルを去った。
夢が壊れるのが恐かった。
目覚めた彼に、また五年前のような失望と困惑の表情を向けられたくは無かった。
あれから、彼が二度と現れないことを見ると、やはりあの夜は彼の過ちだったのだろう。
ほんの少し痛みを感じるが、五年前からずっと諦めていたことだ。
一夜の夢だけでも十分だ。
思い出の残る、下腹部をさすると愛しさが沸いてくる。
涼介と自分の赤ちゃん。
宿っているといいな。
願いながら、身支度する。
健康保険証を手に、近所の産婦人科の所在地を調べているとチャイムが鳴った。
宅配便だろうか?
故郷の友人や、父親から何だかんだと届け物が多い。
きっとその類だろうと、気にせず鍵を外しドアを開けると、そこには予想もしない人物が立っていた。
「……無用心だな」
不機嫌な表情のまま、不躾にそう言う男は、一ヶ月前に拓海の初めてを奪った男だった。
「りょ…すけさん?」
思えば、彼はいつも唐突だ。
嵐のように拓海の前に現れ、巻き込み、そして後戻りの出来ない世界に連れていってしまう。
Dの時も。
あの夜の時も。
「な、んで…?」
あの夜と同じ問いかけを拓海はした。
けれど、あの夜と同じように返事は来ない。
むっすりとした表情のまま、涼介は拓海の身体を押しのけ、勝手に部屋に上がりこむ。
「一ヶ月だ」
「え?」
不機嫌そうに髪をかきむしり、拓海を振り返る。
「何が…ですか?」
チッ、と彼が舌打ちした。
「啓介だよ。あいつ…」
啓介がどうしたのだろう?
彼は、拓海が涼介に恋をしているのには気付いていた。
つれない涼介の態度を、気にするなと何度も慰め、諦めちまえと何度も忠告してくれた。
走りのカテゴリーは違うが、ライバルであり、そして大切な友人でもある。
「あの野郎、ずっと渋ってお前の連絡先を、一ヶ月もだぞ?教えようとしやがらなかった…!」
「え?」
意味が分からない。
だけど、涼介が啓介に対し怒っているのは分かった。
「確かに、ずっとフラフラしてた俺が悪い。お前を泣かせてたってのは…あいつに言われるまで気付かなかった俺が鈍感だった。だけどな…」
また、髪をかきむしる。
見たことのない、彼の苛々とした様子にだんだんと不安が募ってくる。
もしかして、あの夜のことを後悔しているのだろうか。
自分への罪悪感から、こんな風に苛立っているのだろうか。
「あの、涼介さん、あの時のことは…」
声をかけた拓海に、涼介がぴたりと口を閉ざし、そしてじっと彼女を見据える。
そこにいる拓海の姿を確認するように、確かに彼女はここにいるのだと、自分に知らせるように。
その眼差しに射抜かれたように、今度は拓海が言葉を途切れさせる。
息を飲み、緊張感のある時間の中、ゴクリと唾を飲み込む音がやけに大きく響く。
ふわりと、空気が動いたと思った瞬間、拓海は涼介の腕の中にいた。
彼の首筋が、自分の鼻先にある。
少し、汗の匂いがする。
そして抱き込まれた彼の身体は、ほんの少し湿っていた。
「……会いたかった」
ズキリと、また下腹部が痛んだ。
いや、痛みではない。
疼き、だ。
拓海の腰を、涼介の見た目以上に頑強な腕が抱え込む。
「…五年目で、やっと勇気を振り絞って会いに行ったってのに……俺が悪いのか?お前は簡単にスルリと逃げちまう…」
これは夢の続きだろうか?
現実?妄想?
自分はおかしくなってしまったのだろうか?
けれど、手に触れるこの温かさは現実だ。
汗の匂い、腕の強さ。
自分は涼介に抱きしめられているのだ。
じわりと、目に涙が浮かんだ。
切なくて、苦しくて、嬉しくて、だけど素直に喜べなくて、壊れそうだ。
「……ひどい」
突き飛ばして、拒みたいのに、この腕を放したくもないのだ。
ジレンマに悩まされ、涙声で漸く今の心境を吐露する。
拓海の呟きに、涼介がハッとしたように拓海の顔を覗き込む。
「…すまなかった」
やはり、後悔しているのだろうか?拓海と関係を持ったことを。
だけどその考えを払拭するように、涼介の指が優しく拓海の目じりの涙を拭う。
「五年、と言うのは…待たせすぎだよな。もう、俺なんか嫌になったか?」
嫌になれるなら苦労しない。
拓海は涙目のまま首を横に振った。
その拓海の返事に、あからさまに涼介が安堵した。
「…良かった。俺がウジウジ悩んでる間に、心変わりされちまったかと思った…」
そんなはずはない。
きっと涼介以上に、好きになれる相手なんていない。
「俺のことが好きだよな、藤原?」
ずるい聞き方だ。
だけど、ずるくても何でも許してしまう。
好きだから。
拓海は頷いた。
「…けど…涼介さんは違うでしょ?…俺のことなんて…」
また、じわっと涙が浮かぶ。
涼介が焦ったように、拓海の頬を両手で挟み持ち上げた。
「それは違う!」
「…うそつき」
女だと分かった途端、ずっと困惑したように、迷惑そうに見られていた。
面倒だと、思っていたに違いない。
なのに今更宥めるようにそんなことを言われても信じられなかった。
けれど。
「…頼むよ。俺はお前が思っているより、情けない男なんだ。お前のことは五年前からずっと気になっていた。だが、あの時はお前を…その…男なんだと、誤解していたせいで、自分の気持ちをごまかすところから始まった。
あの時、お前が女だと分かったとき、今更ごまかしていた自分の気持ちが認められなくて、そっけない態度を取ったのは謝るよ。俺がバカだった。だけど…」
涼介の顔が、くしゃりと泣きそうに歪んだ。
「…Dが終了し、忘れようと思った。お前への気持ちを。気の迷いだと。お前は純粋で無垢で、俺みたいのが手を出していい相手だとも思わなかった。あの頃は、五歳下ってのが大きく見えたんだ。お前はまだ子供っぽかったしな」
五歳の年の差というのは、十代には確かに大きい。
けれど今の年齢になってしまうと、大した差のように思えなくなってくる。
あの頃、大人だと思っていた彼の年齢に追いついたけれど、自分が未だ大人だとは思えない。
拓海は頷いた。
「月日が、忘れさせてくれると思った。けれど、地元にいると嫌でもお前の噂は耳に入ってくる。その度にヤキモキし、どんどん綺麗になっていくお前を見てしまう。だから、日本を飛び出してしまえば、忘れられると思った。だが…」
涼介の眼差しが拓海を射る。
雄弁に、彼の感情を吐露する。
「…忘れられなかった」
だから戻ってきたのだと、眼差しで語る。
「もう夢の中で、他の男に取られるお前を見たくなかった。誰かに取られちまうぐらいなら、自分が奪ってしまえばいい。…その答えを出すまでに、五年もかかった俺は…随分バカだよな」
人は自分に都合よく事実を曲解してしまう傾向がある。
拓海は自分の耳や、感覚を疑っていた。
今、胸に広がる喜びを素直に受け入れて良いのか。期待して、裏切られた時の辛さを思うと躊躇する。
「…よく……分かりません」
信じたい。
けれど、五年と言う月日が信じることに足踏みをさせる。
「簡単なことなんだよ」
そうなのだと、思う。
だけど、遠回りをしてしまった。
自分も。涼介も。
「俺は…藤原拓海。お前が好きだよ」
堪えきれなくなった涙が、ぶわっとあふれ出す。
しゃくりあげ泣く拓海の唇に、涼介がキスを降らせる。
柔らかな口付け。
啄ばむように頬も、目じりも口付けられ、ますます拓海は泣いた。