ROSE

act.2


 俺が二十歳を越えた頃から、縁談の話がチラホラと出ているのは知っていた。
 まだ在学中と言うこともあり、現実味の無かったそれに、学生生活最後のこの年、急激に現実となって俺を襲ってきた。
 以前は、親の言うとおり、押し付けられる相手の中から、適当なのを選んで結婚するものだと当たり前のように思っていた。
 けれど拓海を知ってしまった俺にとって、それはもう過去のことで。
 そしてもう過去には戻れない。




 突然、父親に呼び出され彼の仕事部屋である病院の院長室に向かった。
 一ヶ月以上ぶりに顔を合わせた父は、俺のほうを全く見もせず、また仕事の手を休めることもなく、片手間に俺に見合い写真を手渡した。
『今度の日曜に食事の席を用意した。結納は今年の末になるが、結婚式はお前の卒業を待って行う』
 俺は驚いた。
『ちょっと待って下さい、父さん!まだ会っても無いうちから、そんな事まで決められてるんですか?!』
『不満か?だが別にお前の意思など関係ないだろう。相手は県会議員のお嬢さんだ。将来的にお前のためになる。何の文句があるんだ?』
 俺の父親は傲慢な人だ。
 自分の意見が全て正しく、それ以外を一切認めない。
 それは幼い頃から見ていた俺はよく知っている。
 けれどここまでとは思っていなかった。
『困ります!僕には今、大切な恋人がいるんです。お断りしてください!』
『…くだらない。別れろ』
『嫌です。別れません』
『なら愛人にでもするんだな』
『……っ?!』
『いつまでも俺の手を煩わせるな。お前は黙って俺の言うとおりにしていればいいんだ』
 …話にならない。
 そう思った。
 自分の言葉が、相手に伝わらない。そのもどかしさに苛立ちと、そして伝わらない事に対する純粋な悲しみが湧いてくる。
『…父さん、あなたは少しは僕の気持ちを考えてくれないんですか?』
『考えているだろう。その縁談はお前の将来にきっと役に立つ』
『そう言うことじゃありません!…僕は、あなた方にとっていったい何なんですか?』
『自慢の息子だ』
 感情の伝わらない、冷めた声音で父が言う。
 次の問いをしてみたのは、ふとした思い付きからで、俺に明確な意図は無かった。
 だが。
『では啓介はどうなんです?』
 父は俺の問いに、
『…あれは…汚点だ』
 そう答えた。
 その瞬間、薄皮が剥がれるようにあらゆるものがクリアに見えてきた。
 父のこと、母のこと。彼らが自分に向ける感情に、俺は過剰な期待をして、裏切られ、それでもまだ信じて自分を慰めてきた。
 でもそれらは全て自分の自己防衛本能から生まれた欺瞞でしかなく、真実はいつも単純だ。
 ――彼らは自分を愛していない。
 愛していると錯覚したのは、それは彼らの望む息子である時だけ。
 だからそれから外れた啓介は、思い通りにならないが故に憎悪の対象となるのだ。
 俺よりも、啓介のほうがきっと早くから本質を見抜いていたのだ。
 俺は、ありもしないものにしがみついて、そして自分を追い詰めた。
 父のあの答えを聞いた瞬間、俺は何もかも粉々に壊す決意をした。




 迷惑をかけるかも知れません。
 そう言うと、親父さんは笑った。
『別にかまわねぇよ。もしここにいられないような事になったら、どっか行って拓海みてぇにトラックでも転がすかな』
 明るく笑う親父さんに、
『そうならないように善処します』
 そう言い、頭を下げると、強がりでもなく残念そうに彼は言った。
『…なんだ、もう豆腐作らなくてすむと思ったのによ』
 豆腐屋なのに、豆腐嫌いだという親父さんの言葉に、暗かった俺の顔にも笑顔が生まれる。
『すみません。藤原さんの豆腐、好きなんで、俺としてはもう暫く作っていて欲しいですね』
『チッ…。しょうがねぇな』
 笑う親父さんにもう一度俺は頭を下げた。
 親父さんはもう何も言わず、ただ「頑張れよ」と気楽な言葉を残し、俺を励ました。
 そして遅番の仕事を終え、夜遅くに帰宅した拓海にも俺の決意を伝えた。
 俺の縁談の話を聞いたとき、拓海はほんのり傷付いた顔をした。俺たちの関係が、一般的には受け入れられないものであることを思い出したためだろう。
 だが俺と父との会話を聞いた瞬間、その顔には怒りが浮かび、唇を尖らせ、本人には不服な評価だろうが、愛らしいとしか言えない表情で憤りを見せた。
『なんすか、それ!全然涼介さんのこと、考えてないじゃないですか!!』
『…そう言う人なんだよ。思い出す限り、あの人たちから優しさなんて貰った覚えがないな』
『そんなの、家族って言えるんですか?』
『さあ?俺は思ってた。けど、啓介は気付いてて、最初から家族であることを放棄していたみたいだな』
 俺の自嘲めいた言葉に、拓海はまったく違う場所で頷きながら納得した。
『啓介さん、堪え性なさそうですもんね』
 啓介が聞いていたら、きっと怒りだしそうな事を真顔で言う。俺は噴出した。
『啓介は素直だからな。俺は捻くれてるぶん、そう純粋に行動することが出来なかったんだろう』
 拓海が俺の顔をじっと見る。真っ直ぐな眼差し。そして俺が、親から得られなかったものをくれる眼差し。
『違いますよ。涼介さん、捻くれてません。優しかったんですよ。周りのこと気にしすぎて、貧乏くじ引いちゃったんです』
 真顔で拓海がそう言った。
『…そう言うの、臆病って言わないか?』
『臆病かも知れないけど…でもやっぱ優しいからですよ。涼介さんは誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷付くほうを選んだだけでしょう?』
 俺は驚いた。俺自身でさえも、自己分析の出来ていなかった事が、拓海の言葉によって明らかとなる。言われてみればそうかも知れない。
『でもそんな優しい涼介さんが、家族を傷つけても、俺を選んでくれたのは……その…すっげぇ嬉しいです…』
 恥ずかしそうに、頬を赤く染め、目を逸らしながらそう言う拓海に、俺の胸にあたたかい気持ちが込み上げる。
 ここには俺が欲しくて、得られなかったものがある。
『…ああ。俺は拓海が一番大事だから。家族よりも誰よりも』
 俺の言葉に、拓海の顔がますます赤くなる。照れを隠すように、彼がまた唇を尖らせ、俺に向かい拗ねた顔をする。
『……啓介さんよりも?』
『何だ、もしかして啓介に嫉妬してるのか?』
『だって、あんたら仲良いじゃないですか…』
 そう言えば、俺が啓介と一緒にいる時など、たまにやけに熱っぽい拓海の視線を向けられる事があった。恋人のかわいい嫉妬を知り俺は笑った。
『啓介は俺の中で一番身近な家族だからな。それを言うなら、お前だって親父さんと仲が良いじゃないか』
『お、親父と啓介さんは違います!』
『一緒だよ。俺には。拓海にとっての親父さんが、俺にとっては…啓介…かな?親父さんより、遥かに頼り無いけど』
 耳まで真っ赤に染め項垂れた拓海の額が、俺の肩に乗せられる。心地好い感触。些細な触れ合いが、俺の胸に幸福感を生む。
『…すいません。変なこと言いました…』
 自分が子供じみた嫉妬をしたことに気付いたのだろう。気まずそうに拓海は、俺の肩で顔を隠すように埋めた。
『構わないよ。俺がそれだけ好きだって事だろう?』
『………そーです』
 小さく、でも不満そうに答える拓海の言葉に、俺がどれだけ幸せでいれるのかを彼に伝えられたらいいのに。
『…啓介さん…怒るでしょうね』
 腕の中の拓海の不安そうな呟きに、俺は幸せに浸っていた意識を現実に戻す。
『何が?』
『だって…涼介さんのこと、俺が取っちゃうから…』
 拓海の言葉に、俺は微笑みで返した。
『あいつなら大丈夫。きっと分かってくれる…』
 腕の中の幸せを抱きしめる。
 俺は、信じていた。
 ずっと一緒だった弟なら、きっと俺の気持ちを分かってくれるのだと。
 何の根拠も無くそう信じていて、けれど俺はすぐにそれが、ただの希望的観測にしか過ぎないことを思い知らされた。



「もう電話はしない。お前もするな」
 そう怒鳴り、通話を切り、感情のままに携帯をベッドに投げ捨てる。
 憤りのままに激しく投げつけた携帯は、ベッドのスプリングに弾かれ、跳ね返り床に落ち鈍い音を立てた。
 苛立っていた。
 やりきれなくて、髪の毛を手でかきむしる。
「……くそっ!」
 乱暴にベッドの上に座り、震える手で顔を覆った。
 啓介が自分に投げかけた言葉が、耳の奥で何度も繰り返す。
 俺にとっての啓介は家族だった。この世で一番身近な存在であったと言っても過言ではない。
 そして俺は啓介にとっても俺がそうであったと思っていた。
 けれど啓介の言葉は、あの親たちとスタンスの変わらないもので、その事実は俺を苛立たせ、胸の中に空虚感のようなものを生み出した。
 悔しいのか。悲しいのか?嵐のような感情が自分の中で渦巻き、どす黒い形になってあふれ出しそうだった。
 だが欝とした感情を抑え、拳を握り締め項垂れる俺の耳に、優しい声が届く。
 トントン。小さな、彼の部屋であると言うのに遠慮がちなノックの音。
「…涼介さん?どうしたんですか?開けますよ」
 扉がそっと開かれ、中の様子を窺う拓海の表情が変わる。眉間に皺が寄り、ぎゅっと唇を引き締めて俺のほうを見た。
「……何かあったんですね」
 部屋の中に入ってきた拓海が、ベッドの脇に立ち、座る俺の肩をいたわるように撫でる。
「さっきの電話?…啓介さんに何か言われたんですか?」
 心配そうに覗き込む顔。
 親を、啓介を捨てても守りたかった存在。
 俺は彼に手を伸ばした。
 ぎゅっとその体を抱きしめて、腹の辺りに顔を埋める。
「……拓海…」
 名前を呼んだ。
 今はもう一番大切になってしまったその名前を。
 あたたかな手が、俺の頭を撫でる。優しく、いたわるように。そして愛情を込めて。
「……大丈夫ですよ」
 そして俺が望んでいた言葉をくれた。
「大丈夫です。俺は絶対に涼介さんの側にいますから」
 人を好きになる。
 愛され、それを守りたいと思う。
 それがどんなに辛く、大変なことかを俺は思い知らされた。
 渦巻く感情から逃げるように、拓海の体をそのまま組み敷いた。
 服を剥ぎ、あたたかな熱を伝える肌に手を這わせながら、彼の体に自分の跡を残す。
 性急に彼の内に分け入り、自分の心の澱を吐き出すように、何度も拓海の中に高ぶりを吐き出した。
 何度目かの行為の後で、苦しそうな彼の声を聞き、俺は我に返った。
 跡、と言うには生易しい。痣でしかない赤い斑点と、乱暴な行為に傷付いた彼の後腔は切れ、シーツの上に血を滲ませていた。
 急速に湧き上がったのは罪悪感と自分への嫌悪感。
 俺がしたのは、拓海に自分の憤りを身勝手にぶつけただけで、これは愛情では無い。いや、愛情はあった。だがそれを凌駕する苛立ちが俺をこんな行為に狩り立たせた。
 震える手で拓海の体を抱きしめる。
「ごめん…」
「…りょ、すけさん?」
「ごめん、拓海…」
 彼の体をかき擁き、謝罪した。拓海が俺の頬に手を触れる。彼の手の濡れた感触に、自分が泣いていたのだと言うことを知った。
 ふっ、と拓海が笑う。
 怒るべきはずである彼は、俺に笑い、そして泣く俺の頭を優しく撫でた。
「…あんたが感情表現が下手なのぐらい、分かってますよ」
 俺の目に、また涙が浮かぶ。それをまた拓海が指で拭った。
「…泣きたかったんなら、最初から素直に泣いてればいいのに」
 拓海の言葉で、俺は自分が泣きたかったのだと言うことに気付いた。
「…悲しかったんだ」
「…はい」
「悔しかったのもある…」
「負けず嫌いですもんね」
「だが…急に恐くなったんだ…」
 俺のした事は、許されないことだったのかと思い知らされて。
「…俺も…恐いですよ?」
「そうなのか?」
「はい。人間ですから」
「…そうか」
「あんたがいなくなるのが恐いから、だからこんな事されても我慢するんですよ?」
「…ごめん。本当にすまないと思ってる」
「いいっすよ。あんたに甘えられて、俺、嬉しかったし」
 甘える?
 そうか。俺は拓海に甘えてたのか。
「…誰かに甘えた事なんて、今まで無かったな…」
「そうなんですか?」
「ああ。そう言う環境ではなかったし、学校でも頼られるばかりで、俺が頼る場面はほとんど無かったからな」
 ぽんぽんと、拓海が子供にするように俺の頭を軽く叩いた。
「今日の事、許します。でも一つだけ条件があるんです」
「何?」
「絶対に俺にしか甘えないこと」
 悪戯っぽく笑う彼に、また俺の恋は深くなる。
 どこまで行くんだろう、この恋は。
 ここが頂点だと思っているのに、次の瞬間にはまた新たな高みに俺たちは登っている。
 二人でずっと、どこまでも飛んで行ければいいのに。このまま。
「…拓海は俺を甘やかしすぎだ」
 俺は微笑んだ。
「涼介さんだって俺を甘やかすじゃないですか」
「好きだからな」
「俺だって同じです」
 生まれた時から親に貰えなかった分の愛情を拓海から貰っているような気がした。
 俺に出来るのは、同じだけの愛情を拓海に返すだけだ。
「…愛してるよ」
 彼の耳に囁く。拓海の体に、肌に、心に染み渡らせるように。


 だが拓海は俺を甘やかすだけの存在では無かった。
 そんな事があった翌週、彼の拳の赤くなっているのに気付き、俺が、
「それ、どうしたんだ?」
 と聞くと、何でもないことのように、
「啓介さん、殴ってきました」
 と答えた。
 そして、
「啓介さんが涼介さんに謝りたいそうですよ。だから今度の俺の休みの日に、啓介さんうちに呼ぶことにしましたから。その日は涼介さんも早く帰って来れるんですよね?」
 事後報告な言葉を聞き、俺は戸惑った。
「…拓海、啓介のことは有難いが、でも今はまだ…」
 けれど躊躇する俺に、拓海はビシリと言った。
「つべこべ言わず会えばいいんです!で、ムカついたと思ったら殴ればいいし、許してやろうかなと思えばイヤミの一つでも言って許してやればいいんです」
 拓海は甘やかしかと思ったのだが、実はかなりスパルタであるらしい。
「……分かった」
 頷きはしたが、でも俺の心にはまだ迷いがあった。
 だが。
『物事ってのは、難しく見ちまうと、どうしても難しくなっていくもんだ。でも実際は、自分で思っているより、単純だったりするんだがな』
 親父さんのその言葉は、この場面でも当てはまり、俺には苦笑しか浮かばない。
「俺が馬鹿だった!」
 藤原家の居間の畳の上で正座をして、頭を下げる啓介に、俺はそんな事を思った。
「…俺の方こそ…ごめん」
 俺たちは変わっていく。
 啓介もきっと色んな意味で変わったのだろう。
 この変化は全て拓海によってもたらされたものだ。
 …いや、違うな。そうじゃない。
「今までカケラもそう言ったところ見せなかったくせに、いきなり爆発して、それで気付いてもらえなかったからって怒るのは、涼介さんも悪いです。気付いてほしかったんなら、少しぐらいはそういうところ見せておけば良かったんです」
 拓海と言う眩しいくらいの強い存在に触発され、子供のままで自分をごまかしていた俺たちが、急速に大人になっていっているんだ。
「で、啓介さんも悪いんです。一番そばにいたくせに、全然気付かなかったってのは。
 俺も、そして啓介も。
 そしてきっと、拓海もまた。
「そんで、二人ともお互いを許すって言ってやればいいんです。それで仲直りです。喧嘩、両成敗って言うでしょう?」
 ゆっくりと大人になっていこう、二人で。
 そしてずっとこのまま一緒にいられる道を二人で探そう。
「…拓海に会えて良かった」
「…ちょ、涼介さん、いきなり何ですか?!」
「一緒にいよう?」
 一人では恐い道も、きっと二人でいられたら平気でいられるだろう。
 だから、
「……はい」
 頼むからYESの言葉だけを言ってくれ。
「はい。涼介さん」
 幸せなんてものは自分が欲しがらない限り、絶対に手に入らない。
 昔の俺はそんな事も知らず、与えられる事ばかりを待っていた。
 だが俺は拓海に会い、それを求める事を覚えた。
 それを欲し、求め、手に入れてもまた維持することに努力を重ねなければ、だがすぐにそれは失われてしまう。
 俺はまだ弱く、くじける事もきっと多いと思う。
 この先の未来。
 どんなに悲しい事や辛い事があっても、努力だけは止めたくない。
 拓海に出会えて良かった。
 そしてこの家に一緒にいれて良かった。
 この生活を守るためなら、俺は何だって出来る。そう思った。
「愛してる…」
 この言葉を胸に。




2006年2月10日



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