ROSE
ROSE 前編
暗い夜の空の下。
ヘッドライトと街灯の明りに照らされた少年の顔はあどけなく、そして濁った目の多い自分の周囲の中で、際立つように澄んだ目をしてこちらを見てきた。
だが目を合わせた瞬間、その顔が夜目に鮮やかに赤く染まる。
視線を逸らしながら、彼が言ったのは俗に塗れた自分には、予想も付かない言葉だった。
「俺のほうが速かったとは…そんなふうには絶対思ってませんから…」
俺の恋は、たぶんあの瞬間から始まっている。
『…何やってんだよ、アニキ!ふざけんな!何が藤原の家にいるだよ、勝手してんじゃねーよ!』
電話越しの啓介の声に、現実を知らされたような気がした。
「……お前に…俺の何が分かる?」
キィンと耳鳴りのような音が響き、俺の耳にはもう啓介の声が届かなくなった。
「お前に俺の何が分かるって言うんだ!」
電話の向こうに怒鳴りながら、俺が言いたいのはこんな事では無いと思った。
「いつだって好き勝手騒いで、やりたい事をやってきたお前に、俺が何を我慢して何を諦めてきたのか、分かるって言うのか?!」
これは八つ当たりだ。
「何も知らねぇくせに、お前こそ勝手なことを言うんじゃねえよ!」
自分の予想よりも、現実が厳しかった。その事を思い知らされ、勝手に傷付いて、そして啓介に八つ当たりをしている。
分かっていた事だ。
自分の選んだ道が、他人からどう見られるのかを。
だけど俺は、これを選んだ。
これを選びたかった。
だから。
…俺に後悔は無い。
最初は好奇心。
だが好奇心は好意を生み、そして恋へと姿を変えた。
その一連の感情の変化は、予定調和のように俺の中で自然と収まった。
押し付けられる周囲の期待と抑圧。その重さに自分の心がギリギリと音を立て壊れる寸前に、藤原拓海と言う存在が俺の前にそれこそ彗星のように現れ、鮮烈なイメージを刻み込み、そして渇望するまでの欲を生み出した。
しかしだからと言って、同性の、しかもまだ年若い十代の少年相手に、何かアクションを起こそうと思うほど、俺は無謀でもなく、また臆病でもあった。
たかだか恋などで、自分のこれまでの生き方すべてを失うような事をするつもりも無かった。
あの時まで。
『しわ、寄ってたんで、伸ばしてました!』
真っ赤な顔で、焦った様子で俺に言い訳する拓海に、堪らない愛しさが沸いた。
だがそれでもまだ、俺には行動に移すだけの情熱はなかった。
けれど、あの後、藤原の膝の上で眠った時に。
俺は今まで感じたことのない安らぎを感じた。
眠る、と言うのは俺にとって義務だった。
眠らないでいることが可能ならば、出来るだけ眠りたくないぐらいに時間の無い俺にとって、体と心を休めるための眠りは義務でしかなく、それに対し寛ぐことなど考えたことが無かった。
眠りながら、ずっと俺の頭を撫でる藤原の手の感触を感じていた。
その温かな手が、そこから伝わる藤原の心が、俺を癒し心地好い眠りへと誘った。
深い眠りから覚め、爽快ささえ感じる体を起こした俺が見たのは、一緒に眠ってしまったのだろう、座りながら転寝をする拓海の姿だった。
あどけない寝顔。まさかこの少年らしさを残す彼が、あんなキれた走りをするだなんて誰も夢にも思わないだろう。
じっと、健やかそうな拓海の寝顔をしばらく見ていると、長い睫が震え、ゆっくりとその大きな、そして意思を感じさせる綺麗な瞳が開かれた。
目覚めてすぐは、まだぼんやりとして、自分がどこにいるかさえ分からないでいた拓海は、その視線が俺に合った瞬間に、ボッと顔を一瞬で赤く染め、けれど自分がどこにいるのかを理解した途端しっかりと俺を見つめながら、そして笑った。
『しわ、寄ってませんでしたよ?』
あの瞬間。
――これが欲しい。
そう痛烈に願った。
今まで何かを望んでも、諦めることを前提としてきた人生だった。
親の愛も、夢も、そして初めて誰かを欲した、自分の恋さえも。
だけど、あの瞬間に、俺は諦めていたはずの恋を手に入れたいと思った。
今まで車のこと以外で情熱を感じたことは無かった。
けれど俺はあの時、情熱を手に入れた。
一度その温もりを知ってしまうと、もう知らなかった頃には戻れない。
俺は眠ろうとしても、拓海の体温が恋しくて不眠になってしまった。
眠れず、しかし雑事は増え、徒らに体力ばかり浪費し、自分の心も体も磨耗しきっていた頃に、迷惑だと知りながらも拓海に電話をかけた。ただ、声だけでも聞きたかったのだ。
『もしもし?』
見覚えのない番号に、電話に出た拓海の声が尖っていた。
いつも連絡は、史裕か松本に任せている。俺が直接電話をかけることは滅多になく、以前、チームに誘う時に教えた番号も諸事情から去年末に変更していたため、今の電話番号を拓海は知らない。
自分でも支離滅裂な行動であったと思う。
だがあの時の俺は色んなことが限界で、そして半分おかしくなっていた。
『眠れないんだ…』
名前も何も言わず、ただそれだけを携帯に向かい喋った。
不審な電話だ。俺だったらすぐに切る。
けれど拓海は、
『…また…しわ、寄ってるんですか?』
笑いを含んだような声で、そう答えてくれた。
『ああ。疲れてるのに、眠れないんだ。もう限界かも知れない』
『…大変ですね。涼介さん、今どこにいるんですか?』
『…藤原の家のすぐ近く』
『じゃ、うちに来て下さい』
『…えっ?』
『俺、ちゃんとしわ寄らないように、見張っておきますよ?』
その言葉に甘え、深夜とはまではいかないが、それでも訪問するには夜遅くに、俺は藤原家へ向かった。
『汚いところですけど、どうぞ入って下さい』
そう言われ、しかし遠慮がちに上がった俺の目に、拓海の父親の姿が見えた。恐縮そうに頭を下げた俺に、親父さんは「おう」とだけ言って、軽く目だけで目礼した。
『これ、高橋涼介さん。うちのチームリーダーなんだけど、今日、うちに泊めるから』
俺には向けないようなぞんざいな口調で、拓海が親父さんにそう言った。
ずっと一緒に暮らしているはずなのに、いつまで経っても他人行儀な口調でしか話せないうちの家とは違う。そこには見えないけれど確かな信頼関係があった。
『ふ〜ん。ま、いいけどよ。布団あるのか?』
『用意した。涼介さん、俺の部屋でもいいですか?』
『っつーか、うちには客間なんかねぇしな』
『うっせーよ、親父!』
何気ない会話。けれどそこに溢れている彼らの思いやりと言うのだろうか、そう言ったものが見え隠れしていて、その空気に触れた俺は、一気に心安らぐのを感じた。
『すみません、お邪魔します』
もう一度頭を下げた。
昔ながらの懐かしさのある町並み。生活感の溢れる家。そして言葉は乱暴だが優しい空気を放つ二人に囲まれ、俺は無機質な自分の家を思い出した。
あそこには、冷たいイメージしかなく、いつも重い空気の中で窒息しながら生きていた。
弟の啓介はその重さに耐え切れず、自由を求めて外へ出て、俺は俺を縛る親の期待と言う言葉に繋がれて、あそこに留まることしか出来なかった。
俺は良い。啓介だけでも自由に生きたらそれでいい。
そう思っていた。
けれど、それでは俺は幸せではないことに、このときの俺は漸く気付いたのだ。
それから何度も藤原家へ眠りに行った。
夕食は一緒に取り、藤原家で風呂に入ってそのまま眠る。
家にいる時間はどんどん少なくなり、向こうでの生活が増え、俺の服や荷物がどんどん彼の部屋の中にあふれていく。
親父さんは、俺が拓海を愛していることにたぶん気付いていた。
激情を抑え、切なそうに拓海の後姿を見つめる俺を、たまに痛ましそうに見つめる親父さんの目に出会うことがあった。
そしてその思いが確信に変わったのは、夕食の後、薦められて親父さんと一緒に酒を飲んだ時だった。
『兄ちゃんも大変だな』
『まぁ、覚悟していましたが。それでも、チームと学業の両立は、予想以上に大変でしたけれど』
『…あんたも、考えすぎないで、もっと気楽にやればいいのにな』
『………』
『物事ってのは、難しく見ちまうと、どうしても難しくなっていくもんだ。でも実際は、自分で思っているより、単純だったりするんだがな』
『…それは…』
『俺は別に説教してぇわけじゃねぇんだ。それは勘違いしないでくれや。ただな…見ていてもどかしくなる時があるんだよ。
俺は鈍くないつもりだ。親父さんが俺に何を言いたかったのか、分かっているつもりだった。
けれどまだ臆病な俺の心は、そんな忠告を素直に聞き入れることは出来なかった。
だが、衝動はやってくる。
性欲に踊らされていた十代の頃より、二十歳を越え幾分落ち着いたとは言うものの、俺はまだ24になったばかりの男で、突然、不意の嵐のように襲い来る衝動に悩まされることは実は多々あった。
それでも、彼の隣で眠りながら、ずっと抑えていられる自信はあった。
しかし、親父さんとそんな話をして二・三日後だろうか。俺が拓海の部屋の扉を開けると、彼が上半身裸の状態で服を着替えていた。
『…あっ、涼介さん!』
慌てたように、彼が手に持っていた替えのシャツを頭から被る。
『す、すみません、すぐ着替えますから!』
拓海の肌を見たのはその時が初めてだった。
今まで、見るような機会はあったが、あえて自分を律し見ないようにしていた。
不意うちで見てしまった彼の肌は白く艶やかで、その下に張り巡らされているしなやかな筋肉が波を作り、肌の上に曲線を描かせていた。そして俺に見られた羞恥のためだろう、白かった肌が、一瞬で薄桃色に染まる。その色の変化を目にした瞬間、例えようもないほどの衝動が俺を襲った。
『……拓海…』
恥ずかしそうに背中を向けて、服を着ていた彼の体を抱きしめる。首筋に顔を埋め、まだTシャツの裾が下ろされていなかった彼の剥き身の肌に手を這わせた。
予想通りの滑らかな感触。そして俺の手が這わされた途端、彼の肌があわ立ち、胸の部分から激しく鳴り出した鼓動の響きを感じた。
『…りょ、涼介さん、あの…』
身動ぎする彼の体を反転させて、正面を向かせる。戸惑い、何かを言いたがっていた唇を俺の口で塞いだ。
初めは唇を嘗め回していただけだった口付けは、息苦しさから口を開けた拓海の隙を狙って、口内に舌を忍びいれる。
夢中だった。
好きで、欲しくて、彼を全部自分のものにしたかった。
『…ぅん、は、ぁ…』
舌と唇が絡めあう水音が互いの唇の間でして、その合間に拓海と俺の苦しげな呼吸音とうめき声が漏れる。
キスをしながら、拓海を彼の背後にあったベッドに押し倒す。二人分の重みを受けて、ベッドが激しくきしんだ。
彼の胸に、脇腹に手を回し、存分に撫で回した後に、下腹部に手をやった。ジーンズのボタンに手をかけて外し、ファスナーを引き下ろした途端、俺のキスに溺れていたようだった拓海の動きが変わった。
『…ちょ、待って、涼介さん!』
ベッドの上でバタバタと暴れる足。振り回された腕が、俺の顎を打ち、沸騰していた俺の頭が覚め、そして俺は自分が何をしているのかを一瞬で悟った。
拓海の上にのしかかっていた体を離し、床に降りベッドを椅子にして座り、欲情し獣のようになっていた顔を拓海に見せられず、腕で頭を抱えて項垂れた。
『……すまない』
『え、あ、あの、涼介さん?』
戸惑った拓海の声が、俺の背中でする。
『悪かった。つい、箍が外れて…』
『…それ、どう言う意味ですか?』
不満そうな拓海の声。確かに、いきなり押し倒され、理由も曖昧では彼の納得できないだろう。
すべてを壊すつもりで、俺は胸に秘めていた言葉を発した。
『…お前が、拓海が好きなんだ』
背中に、拓海の手のひらが触れるのを感じた。
『俺の好きは、さっきみたいな好き、だよ。このまま側にいたら、俺はきっとお前を汚すだろう。だから、頼むよ。俺を拒否してくれ。じゃないと俺は…』
『俺は?』
『……お前を襲いそうだ』
そう言った瞬間に、体をぐいっと引っ張られ、ベッドの上に俺は横たわっていた。
上からのしかかっていたのは、拓海。
ギラギラとした、怒りを孕んだ目で俺を睨みながら、ぺろりと舌で唇を舐める。
こんな状況だと言うのに、性懲りもなく俺はそんな彼の姿に欲情した。
そして、
『…バカじゃねぇの』
『…え?』
『俺、男だよ。イヤだったらあんたを殴ってでも、さっき逃げてた』
『……でも、さっきは…』
『い、いきなりだったから…ちょっと焦って…。それに、あんた、俺をどう思ってるか言わなかったじゃないか!』
怒りで高潮した頬が赤い。その赤さも俺の欲を煽る。
『俺だってあんたが好きだ!』
横たわった俺の体に、馬乗りになった拓海がそう叫ぶ。
『汚すとか、何とか言ってるけど、あんたが俺を汚せるわけないじゃないか。何であんた、肝心なところで優しくするんだよ!』
こんな状況なのに、拓海を可愛いと思った。
『だから、今度は俺が襲ってやるんだ!』
そう言うなり、噛み付くような勢いで俺の唇に貪りつき、慣れない仕草で舌を絡める。
そしてさっき俺がしたように、服の裾から俺の肌を撫で回し、ズボンのファスナーに手をやったところで、彼の動きは止まった。
俺のそこは、もう硬化し、明らかな欲望を服越しに伝えている。
俺のそこに触れた途端、さっきまで夢中だった拓海の動きが止まり、泣きそうな、困ったような、迷子の子共のような顔で俺を上目遣いで見てきた。
『…どうした?』
もう主導権は彼にない。
『………』
彼が目を逸らす。
『…どうしたらいいのか、分からない?』
悔しそうに、彼がコクリと頷いた。
『俺が拓海を襲っていい?』
俺がそう言うと、拓海はふてくされた顔のままで俺の上に覆いかぶさってきた。
ぎゅっと俺の体にしがみつき、耳たぶに噛み付いて痛みを与える。
『…あんた、狡い…』
こんな行為に慣れていないだろう彼の体と自分の体をひっくり返し、俺が拓海を組み敷いた。
『……どんだけ、こんな事してきたんだか…』
俺の手馴れた動きを咎める拓海に、俺は彼の手を取り、自分の胸に当てた。
早鐘を打つ、俺の鼓動が彼に届くように。
『好きな人とするのは初めてだ』
『…あんた、本当に狡い…』
ゆっくりと、熱を分け合うように、二人で肌を重ね、堪らない幸福感に二人で酔いしれた。
俺は例えようのない幸福の中に漂いながら、親父さんの言った通りだったなと思い出し、微笑んだ。
俺のその笑みを見て、拓海が怪訝そうに問いかける。
『何ですか?』
『いや……』
すぐ側にある拓海の頬に触れ、引き寄せた。
『…自分で思うより、物事は単純だったな、と思って』
笑うと、彼もまた笑った。
そして唇を触れ合わせ、この幸せがずっと続けばいいのにと切に願った。
2006年2月7日