天使が来ますよU

act.3


 バタン、と勢いよく扉を開き、見えた視界の先には愛しい妻の姿。そして患者である佐藤。そして妻に引っ叩かれる派手な女の姿。
 晴海が言っていた「にっきちゃんのおともだち」とやらはこの女の事だろう。
「拓海!大丈夫か?!」
 叫び、大きな瞳を零れんばかりに目を瞠らせて自分を見つめる妻の元へ駆け寄ろうとするより先に、何故か不快な印象しか与えない女が顔を歪めて涼介の胸に飛び込んできた。
「高橋先生!ひどいんです!あの人…私、何もしてないのにイキナリ殴ってきて…」
 と、縋り泣き真似を始めてきた。
 見え透いたその仕草に、涼介は不快気に眉をひそめた。
 幸か不幸か。拓海に会う以前の経験で、涼介は女の嘘には慣れている。ずいぶん上手に嘘を吐く女たちを何人も知っているが、こんな演技で騙されるのは、余程知的レベルの低い輩だけだろうと涼介は深い溜息を吐いた。
 だが、
「悪いが、離れて…」
 …くれないか。そう言うよりも先に、違う人物が声を荒げて叫んだ。
「涼介さんから離れろよ!」
 顔を真っ赤にしてそう叫んだのは、涼介がこの世で一番大切な存在。
 拓海だ。
 その目には怒りに燃え、見たことが無いくらいにギラついた眼差しで射るように田中を睨んでいる。
 あの眼差し…。
 涼介にはあの目の色に覚えがあった。
 過去、何度となく女たちにされ、そして拓海に出会って後は、自らがそればかりをしていた。
 あの目の色。
 あれは…そう。間違いなく嫉妬だ。
 そう思い至った時、涼介は感動に打ち奮え、自分の今の状況がすっかり頭から失念してしまった。
 …た、拓海が俺のことで嫉妬していてくれている…。
 今まで、控えめであった彼女は表立って嫉妬してくれたことはない。密かに胸中で思っているのだろう事は察していたが、ここまではっきりと見せたことはなかった。
 感動のあまり、らしくなく顔が赤く染まり、目にはほんのり涙。口元はデレッと美形を崩すニヤけた笑いを浮かべ、暫し呆然とこの感動を味わった。
 出来るなら世界中に、
『妻が嫉妬してくれましてね。ええ、それがもう可愛いんですよ。僕のことが大好きみたいで…いやぁ、参ってしまいますね。あんな可愛い妻で僕は幸せものですよ』
 と言って回りたい。
 だが。
 そんな涼介の行動は拓海には、田中に擦り寄られ、ニヤけているようにしか見えなかった。
 怒りに真っ赤になっていた思考が、一気に凍りつき、目の前を真っ暗にする。
 涼介に愛されている自信はあった。けれどやはり離れていることで不安は消えない。
 今回、病院に来たのも実は、緒美に、
『涼兄の事だから、きっと看護婦さんや患者さんにモテモテなんじゃない?拓海ちゃん、気にならないの?』
 と炊きつけられ、気になったせいもあったのだ。
『病院には絶対来るな、なんて、怪しいわ。きっと何か隠し事があるのよ』
 と、さらに煽られ、「涼介さんに限って…」と思いながらも、仕事中の涼介の姿を見てみたいこともあり来たのだ。
 そして「まさか…」と思っていた不安が今目の前にある。
 …やっぱり涼介さん、あんなふうに女の子に擦り寄られたら嬉しいんだ…。
 その現実は拓海には痛かった。
 痛い心が形になって、目からポロポロ零れ落ちていく。
「…う、ぅう……」
 堪えようと思っても、涙は止まらず溢れ出す。
「…涼兄、拓海ちゃんは?!」
「…え、えぇと、だ、大丈夫ですかっ?!」
 涙と同時に遅れて現れた緒美と鈴木。
 そして彼らも皆、涼介に擦り寄る田中、そして涙を流す拓海の姿に声も無く立ち尽くした。
 …い、いったい何がっ?!
 そしてそんな中、真っ先に行動したのはもちろん涼介。
 擦り寄っていた田中を物のように放り投げ、そして気丈さを崩すまいと涙を堪える妻の元へと駆け寄った。
「た、拓海?!どうした?殴られたところが痛いのか??」
 いつもの冷静沈着ぶりはどこへやら。まるで妻の初出産を迎えた旦那よりも慌てふためき、おろおろと彼女の前で手をこまねく。
 だがそんな涼介に拓海は、
「ぅう〜…涼介さんのばかぁ…きらい…」
「……ば、ばか…きらい…」
 嗚咽交じりの拒絶の声に、涼介は地の果てまで落ち込んだ。
 今まで恥らいながら愛の言葉を囁かれたことはあっても、馬鹿だの嫌いだのという言葉は今の今まで一度たりとも聞いたことがなかった。それが今、言われた…。
「き、きらい、きらいって……」
 かつて、こんなに悲しいことがあっただろうか。いや、無い。
 …拓海に嫌われた…。
 燃え尽きた灰のようになってしまった涼介を見つめながら、ぼそりと晴海が呟いた。
「パパとママ、けんかしてるの?」
「あれは喧嘩って言うより…痴話喧嘩ね」
「そっすね…間違いなく痴話喧嘩っすね…」
 困惑しながらも答えてくれた緒美と鈴木の言葉に、晴海は納得したように頷いた。
「けんか、だめってママもパパもいってたのよ。わるいことなのよ。はるみちゃん、しかってくるね」
 ニコッと微笑みながら、剣呑な言葉に似合わない笑みを見せながら、トコトコと晴海は二人の間に立ち、そして涼介の頭を「いいこいいこ」と撫で、そして拓海には、いつも自分がされているように「メッ!」と口を尖らせ嗜める。
「ママ、パパとけんかしちゃだめなのよ?」
 突然の子供の乱入に、拓海は戸惑いながらも言葉を返す。
「…で、でも、涼介さんが先にママを苛めたんだ…」
「パパ?そうなの?」
 拓海の言葉に、ガバッと涼介が項垂れていた顔を上げる。
「まさか!俺が拓海を苛めるのは夜だけだ!!」
 涼介の言葉の意味に気付き、顔を真っ赤に染める拓海。そして意味が分かった佐藤もつられて赤くなり、緒美は、
「…涼兄…相変わらずね…」
 と溜息を吐き、鈴木は、
「…高橋先生って…」
 だんだん涼介への尊敬が地に落ちてゆく気がした…。
「へ、変なこと言わないで下さい!」
「変なことなものか?!俺にはそんな事よりも、拓海が俺に…き、き、…ああ、いかん。眩暈がする…」
 どうしても「嫌い」の一言が言えない涼介に、拓海もほんのり怒りを和らげる。
「……だって…涼介さん…喜んでました…」
 唇を尖らせ、ふてくされたようにそっぽを向く拓海に、涼介は嫉妬されて喜んでいたのが気に食わなかったのか、と反省した。
「…それは…すまない。だが、あまりにも拓海が可愛くてだな…」
「えっ?!」
「えっ?って、何だ??」
「…涼介さん、あの人にくっつかれて喜んでたんじゃないんですか?!」
 拓海のこの言葉に、涼介は再度ニヤけそうになる。
 …そうか。嫉妬か。やきもち焼いて泣いて、そして拗ねたんだな。可愛いやつめ。ああ、もう、早く二人きりになりてぇなぁ…。
 緩みそうになる頬を、涼介はもう同じ間違いはしないように引き締めながら項垂れる拓海の頭を胸に抱え込んだ。もう馴染んだ感触。拓海いつもの指定席のような自分の場所に顔を埋め、その背中に腕を回す。
「…拓海、あれにくっつかれた俺を見て、やきもち焼いただろう?」
 涼介にとって、田中はすでに「あれ」だ。
「………」
 拓海は無言で、涼介の胸に顔を埋める。だが無言が肯定の意を示している、フッと涼介は微笑みながら優しく拓海の背中を撫でた。
「今まで、拓海はやきもちとか見せてくれなかったから、つい嬉しくてな…。だって、拓海が俺をそれだけ好きだって証だものな」
「…いつも…嫉妬してます…」
「そうなのか?」
「…涼介さん、カッコいいから…誰かに取られないかって…いつも涼介さんの周りの女の人たちに嫉妬してます…」
「それは嬉しいな」
 ぎゅうっと、抱きしめる腕の力が強くなる。
「拓海が不安なら、病院中に言って回ろうか?これが俺の大切な奥さんです、って。誰も寄って来れないように俺たちが仲が良いってことを見せびらかそうか」
「…りょ、涼介さん…」
 うっとり、見つめる拓海の目にはもう嫉妬の色はない。そこにあるのは「好き」という感情を湛えた潤む瞳。
 吸い寄せられるように二人の唇が近付き、そして……。
「これでなかなおりなの」
 にっこり。
 間にはさまれた晴海は、両親の熱烈なキスシーンにも動じず、嬉しそうにニコニコと微笑んでいた。



 暫く熱烈に愛情を再確認した夫婦は、夫は平然と、妻は我に返った途端、顔を真っ赤にして涼介の影に隠れた。
 そして固まったように動くことすら出来なかった外野の四人はようやく動くことが許された。
「…あ、あー、と、それで、いったい何がどうなってるのかな?」
 口火を切ったのは鈴木だ。
 鈴木は少なからず驚きを隠せないでいた。
 初めて見た涼介の噂の妻が、まるで晴海の大人版そのままの姿をしていた事も驚きなのだが、あの涼介の溺愛ぶり。惚気はよく聞かされていたが、これほどまでとは夢にも思っていなかった鈴木だ。
 そして佐藤は、さっきからコロコロと表情を変える拓海に目を奪われていた。
 見せる顔がその度に違う。けれどそれのどれもが輝いている。
 その輝きは、顔の造りや美醜によるものではない。どれも、拓海の内面から溢れている。
 そんな拓海に純粋に「すごいな」と感心し、そしていつもクールで落ち着いた高橋医師の変貌にも驚いた。
 どうやら展開から、涼介が拓海の夫である事は理解できたのだが、佐藤はこれまでの人生で、こんなに熱烈なカップルはお目にかかったことが無い。
 その事にも、「すごい…」と純粋に驚いた。
 緒美は「相変わらず…」と呆れ顔で、そして田中は…。
「ちょ、ちょっと何なのよ!あの人がアタシを叩いたんじゃない!それはどうなってるのよ?!」
 と怒りを見せた。
 だがそれもすぐに佐藤によって窘められる。
「…田中。いい加減にしなよ。拓海さんがあんたを叩いたのだって、先にあんたが拓海さんを叩いたんだし」
「だ、だって、それはあの人が変な言いがかりをつけてくるから…」
「言いがかりじゃないよ。拓海さんは私のために怒ってくれたんだよ。あんたには分からないだろうけどさ…」
「な、何よ、佐藤のくせに!」
 そう言い、またも佐藤を突き飛ばす。その衝撃に佐藤は顔を歪め倒れ掛かるが、
「佐藤さん!!」
 駆け寄ってきた鈴木に支えられ、転倒は免れた。
 鈴木は腕の中の佐藤にほっと安堵の溜息を零したが、すぐに、
「大丈夫か?痛みはないか?」
 と医者らしく彼女の怪我の具合を心配した。
「だ、大丈夫です…」
 佐藤は鈴木の腕の中にいる事実に顔が真っ赤になる。
 そして鈴木は厳しい顔で佐藤を抱えたまま田中に向き直り、声を荒げた。
「何をするんだ?!佐藤さんは怪我人なんだぞ!それをこんな乱暴なことをして…どう言うつもりだ!」
 医者の使命感だけではない、私情に満ち溢れた感情で田中を叱る。
 田中は鈴木の叱責に、先ほどまで佐藤たちに向けていた顔とは違う、媚を売った表情で顔をしかめ、悲痛そうに言葉を発した。
「ち、違うんです。だって、佐藤がアタシにひどいことばかり言うから、つい…。お願い、鈴木先生、信じてください。アタシは悪くないんです」
 そんな田中に、静観していた涼介は侮蔑の笑みを浮かべる。
「…自身の弁解よりも先に、佐藤さんに謝るべきだと思うが」
 その言葉を追うように鈴木もまた頷き、厳しい眼差しで田中を見た。
「君の言い分は分かった。けど、実際に君は怪我をしている佐藤さんを突き飛ばしたのは紛れもない事実だ。君は佐藤さんに謝罪をするべきだと思う」
 二人のそんな反応に、さも被害者のように田中は泣き顔を作った。
「そんな、鈴木先生!」
 もう涼介に媚びるのは無理と思ったのか、哀願するように鈴木を見つめた。
 そしてその田中の声に反応したのは、鈴木ではなく何故か…晴海だった。
「…おにいちゃん、すずきせんせいなの?」
 いつの間にか側に寄って来ていて、白衣の裾を小さな手で引っ張る晴海に、鈴木は戸惑いながらも頷いた。
「え?…あ、ああ。そうだけど?」
 そう答えた途端、晴海はにっこり笑って、佐藤と鈴木を見比べた。
 そして、
「あのね。にっきちゃん、すずきせんせいのことすきなんだって」
 …爆弾発言。
「は、晴海?!」
 慌てる拓海。
「あら?」
 完全に野次馬と化している緒美。
「……ほう…」
 そしてお互いに真っ赤に顔を染め、声も出せずに動揺する鈴木と佐藤を眺めながら、もっと拗れたほうが面白かったのに、と思っていた涼介。
 そして晴海の言葉で舞台は初々しい若者たちの恋の舞台と変貌した。
「…さ、佐藤さん、あの…」
「ご、ごめんなさい!」
「えっ?」
「あの…迷惑ですよね?その…私なんかに、その…好きとか言われて…」
「そんな!まさか!その、俺こそ…実はその…佐藤さんの事…」
「えっ?」
「その…好きなんだ。迷惑でなければ、付き合って欲しい」
「………」
「ダメかな?」
 ぶんぶんと大きく首を横に振る佐藤に、鈴木はやっとほっと安堵の溜息を吐いた。
「じゃあ、いい?」
「………はい」
 おそるおそる、鈴木は佐藤の怪我をしていないほうの手を握った。たかだかこんな触れ合いで、こんなにも幸せで甘酸っぱい気持ちになるとは思わなかった。
「…良かった。てっきり佐藤さんは高橋先生のことが好きなんだとばかり思っていたから…」
「えっ?」
「だって、さっき、高橋先生が検診に回ったとき、赤くなってただろう。だから」
「あれは…高橋先生が、その…『鈴木じゃなくて申し訳ないね』って、からかうから…」
「え?!…って事は…」
 チラリ。鈴木の視線が涼介に向けられる。そして視線を向けられた涼介は、ニヤリと、人の悪い笑みを浮かべた。
 それだけで、鈴木はすべてを察した。
 …た、高橋先生…知ってて、面白がってたんだ!
 また新たに涼介への尊敬が失せる鈴木。
 先ほどまでの険悪な空気が消え、一気に結婚式場のような祝福ムードが漂うその中で、一人だけ納得のできない人物が一人いた。
 それはもちろん田中。
「ちょ、ちょっと何ソレ?マジ、ワケわかんねー。んだよ、あんたら、趣味悪すぎじゃねーの」
 自分の魅力が男性陣に全く通用しないと分かった途端、いきなり態度を豹変させた田中。その下卑た口調と仕草に涼介のみならず、他の面々も眉をしかめた。
 しかしそんな田中に動じず、攻撃したのは彼らではなく、まったくの部外者であるはずの緒美だった。
「フフ…。本当の美はあなたのような見せかけだけの薄っぺらいものじゃなくって、内側から溢れているものなのよ。後は努力と気合。そりゃ素材は大事だけど、中身が腐ってたら意味がないわ。だからあなたみたいに、中身が下品な人は、本物を見慣れた人たちには通用しないの。分かる?」
 涼介と同じ、善人の顔で冷徹な言葉を発する緒美に、田中はギッと憎しみを込めた眼差しで睨みつけた。が、もちろんそんな野良猫のような眼差し程度、涼介の悪魔の眼差しを受け慣れている緒美には痛くも痒くもなかった。
 しかも彼女の関心は、今、そんな惨めな態をさらす田中よりも、見つけたばかりの金のタマゴ。
 鈴木の腕の中に収まったままの佐藤にあった。
「…そんな事よりも、佐藤さん。あなた、モデルやる気ない?」
「え?」
 突然の言葉に、佐藤はパチパチと何度も瞬きを繰り返す。
「あ、ごめんなさい。申し遅れました。私、ここの者なんですけど…」
 と言って、彼女が差し出したのは一枚の名刺。
 そこには芸能関係に聡い人間なら誰でも知っているような、某有名モデル事務所の名があった。
「このスタイル、この顔。何よりこの雰囲気ね。ユニセックスな感じだけど、清楚な乙女の雰囲気を兼ね備え、けれど磨き次第では色気も出るわね…フフフ、拓海ちゃんみたい」
 もう緒美にはこのタマゴをどう育てるしか頭にない。
 元来の美形好きが高じて、モデル事務所に就職した彼女は、逸材と呼ばれる存在を見つけることに情熱をかけている。そして今まで「これは…」と思うものには何度も出会ったが、最初に「最高!」と思った存在、拓海に適うものはなかなかいなかった。
 だが。
 目の前の彼女は、拓海に継ぐ「最高!」と呼べる逸材。
 考えただけでゾクゾクする。
「身長も高いから、スチールだけじゃなくてステージもイけるわよね。凄いわ〜、もう、最高!」
「え、え?あの、でも…」
 ベタベタと身体を触りまくる緒美に戸惑いながらも、驚きが隠せない佐藤。
 今までの彼女の人生において、有り得ないことを言われている。
「でも、私みたいなのがそんなの出来ると思えませんし、む、無理です…」
 そう返す言葉は小さい。だが心のどこかで嬉しいと思う自分もいる。困って、視線を背ければ、そばにいた鈴木と目があった。
「俺は大丈夫だと思うよ?佐藤さんは綺麗になると思う」
 にっこりと、涼介いわくカッコつけた笑顔で微笑めば、佐藤は顔中を真っ赤に染めて項垂れた。
「でも…」
 躊躇う佐藤に、さらに涼介もまたフォローするように言葉をかけた。
「鈴木の言う通りだ。それに、緒美を助けるわけではないが、そいつの審美眼は間違いない。迷う気持ちがあるのなら、君は一度冒険してみるのもいいのではないかな?」
「…うん。私もそう思うよ。佐藤さんは自信持っていいと思う。きっと緒美ちゃんなら綺麗にしてくれるよ」
 と、実際に、彼女のセレクションで綺麗にさせてもらっている拓海も頷いた。
 それに後押しされるようにやっと佐藤は小さく頷いた。
「あの…私で良ければ…お願いします」
「もちろんよ。任せて!」
 一気に空気がほのぼのムード。パチパチと少々場違いな拓海と晴海の拍手が屋上に響くが、もちろんそんな大団円のムードになれない人物が一人残っているわけで。
 言わずもがなの田中だ。
「な、何なのよ、何で佐藤なのよ?何なの、こいつら!最悪!!」
 しかししかし。
 もう誰も田中を見ていない。
「さぁ、拓海。帰ろうか」
「え、あの、涼介さん、仕事は…」
「…鈴木。可愛い妻を一人で帰すのが心配なので帰ると伝えておいてくれ。昨日から夜勤で入っているんだ。もう限界だな。拓海が足りなくて」
「は、え、ええ?!って、それでいいんですか?」
「いいんだ」
 鈴木は思った。
 …奥さん。諦めたほうがいいですよ!…と。
「分かりました。伝えておきますので、どうぞ早くお帰り下さい。明日も確か休みでしたよね」
「ああ。任せる。じゃあ、帰ろうか、拓海」
「って、ええ?あ、あの、あ、晴海は?!」
「ママ、ばいばーい。またあしたね」
「あ、明日って、晴海?!」
「きょうはね、はるみちゃんいっぱいママといたからね。こんどはね、パパがママといっぱいいるばんなの」
「え、ええっ?!」
「じゃあ、緒美。晴海を頼んだぞ」
「任せて!晴海ちゃん、私と一緒にいましょうねー」
「うん!でも、あとでけいちゃんも、おじいちゃまもおばあちゃまもいっしょっていってたのよ。でね、あしたはぶんじーじといっしょなの。たのしみねー」
「ええっ!な、何で明日の予定まで?!」
 佐藤は思った。
 …拓海さんのこと羨ましいな、って思ってたけど…ごめん。もう…思えないや…。
 気の毒に。
 佐藤は心の中で、こっそり手を合わせた。
 そして鈴木と目を見合わせ、以心伝心。
 …ほどほどのカップルになろうな。
 …うん。
 ひょい、と拓海を抱え上げ、満面の笑みで連れ去る涼介の背後に、その場にいた人々は、悪魔の尻尾が見えるような気がした。
「じゃ、晴海ちゃん。私たちも帰りましょうか」
「うん!」
「佐藤さん、そろそろ病室に戻らないと」
「あ、はい。え、と、その、手…」
「繋いでたらダメかな?今だけ」
「…え、と…はい」
「おにいちゃんとにっきちゃんなかよしねー」
「恋は女を綺麗にするものね。まぁ大目に見てあげるわ。それより、佐藤さん、電話番号を…」
 ギイッ。バタン。
 屋上の扉が閉められ、そこに残されたのは田中ただ一人。
「な、何なのよ……」
 やけに冷たく感じる風に吹かれてなびく、自分の脱色で痛んだ髪を見ながら、彼女はほんのり自分の生き方が間違っていたのだろうかと思い始めていた…。




 そしてその後。
 いつもクールで、どこか固い微笑しか見せたことのない高橋医師が、可愛い奥さんを抱えて闊歩する姿が病院内で見かけられたそうだ。
「た、高橋先生、どうしたんですか?!」
 そう驚きかけられた声に、にっこりと、だがどこか背筋の寒くなるような満面の笑顔でこう答えた。
「うちの可愛い妻が迎えに来たので一緒に帰るんです」
 顔だけではなく全身を真っ赤に染め、恥ずかしそうにしながらも、病院関係者に出会うたび、
「…あの…夫がお世話になっています…」
 ときちんと挨拶をする可憐な姿に、密かに広まっていた「高橋先生の奥さんは実はブス」説はあっと言う間に消え、愛妻家と評判だった涼介に、『高橋先生は、超愛妻家』と最大級の形容詞が付け加えられることとなった
 さらにその後。もう一組のカップル。纏まったばかりの鈴木と佐藤の二人の交際は順調だ。
 退院後、大学に通いながらモデル修行を始めた佐藤と、まだ研修医と言う身分が取れない鈴木。
 お互い多忙なことはあるが、毎日連絡を取るようにし、空いた時間には隙間を埋めるように側にいた。
 会えない距離や時間に、不安を感じる時はあるが、だが彼らよりも長く遠距離生活を続ける高橋夫妻の姿は励ましとなった。
 いつか。
 二人、もっとお互いの夢の地盤をしっかりと築けた時に、結婚しようかと誓った。
 その時には、きっと高橋夫妻も来るのだろうなと思うと、何しろ主役の二人よりも熱い彼らのことだから、どちらが新婚夫婦なのか分からなくなるだろうなと、鈴木はちょっと困ったが、しかし先の未来を目指す日々は楽しく、待ち遠しい。
 だが一つだけ、今の鈴木を悩ませている事があった。
 それは…。
「晴海ちゃんって可愛いですね。あんな可愛い女の子、いつか私も欲しいな」
 と、照れくさそうに言う佐藤に、夢を壊すようで言えないあの言葉。

『いや、あれ、男の子なんだよ…』

 この真実を。
 鈴木と佐藤の目指す高橋家のような未来はまだまだ遠く、そして奥が深い…。




2005.12.6
END
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