天使が来ますよU

act.1


 佐藤錦希は自分が嫌いだ。
 まず名前が嫌い。山形のサクランボ農家の祖父に無理やり付けられた名前は「ニシキ」。苗字の佐藤と相まって、「サトウニシキ」で、サクランボの有名な品種の名前となってしまう。まだ名前の最後に「希」の文字が入っているのが救いなのだろうが、ずっと佐藤は思いつく限りの自己紹介や名前を呼ばれるような場面で、周囲の人々から失笑を受けた。
 そして次に自分の容姿が嫌い。
 佐藤はよく人から「男だか女だか分からないよね」と言われる。
 と言うのも、佐藤の身長は177センチ。足のサイズは26.5センチと、さらに細く肉付きの悪い体つきから男性と間違われることが多いが、紛れもなく女性であった。
 思春期を迎える頃から、すくすくと伸び始めた自分の身長。なのに肉付きはいつまでも薄いままで、少年のものとしか思えない体格に、周囲から少なからず陰口を叩かれながらも、せめて明るく気にしないでいようと思いながらも、今さら女性らしくすることも出来ず、サイズの問題もあるが自然と服は男物ばかりを着るようになり、同年代の女の子たちが髪や化粧に時間をかけるようになっても、彼女は必要最低限の身だしなみしか整えないようになった。
 現在、21歳の今でもそのスタイルは変わらない。
 おかげで益々性別不明となっているのだが、彼女はあまりそれを気にしていなかった。
 …今までは。
 真っ青な空の下。屋上の上から流れる雲を見ながら、彼女は晴天の空には似合わない物憂げな溜息を吐いた。
 今、彼女は某県の大学病院に入院している。
 階段から落ち、腕と胸骨を骨折。さらに頭を打ち付けてもいるため、その検査のため入院をしていた。
 だが彼女の溜息は、そんな自分の怪我を嘆くものではない。
 階段から落ちたのは事故であったが、自分の不注意もあった。仕方ないことだとの諦めもある。
 今、彼女が悩んでいるのは「恋」の悩み。
 そう。彼女はここに入院して、すぐに恋に落ちたのだ。
 今まで憧れのような恋は何度かした。
 けれどそれのどれも、『あんなデカい女、ゴメンだよ』や、『友だちにはいいけど、女として見れない』などと言う言葉を間接的であったり、直接言われたりなどして恋にいたることは無かった。
 けれど。
 今回のそれは、もう自分でセーブする前に落ちてしまった。
 だけど彼女は、今までの経験から自分のその恋が適うことは無いことを知っている。
 何故なら、相手はこの病院の医者で、おまけに顔もスタイルもどこからどう見ても上等な、彼女にとっては高嶺の花と呼べる存在だったから。
 だがそうは思っても諦められるはずもなく、無為に溜息を零し続ける毎日がずっと続いている。
 そして何度目かの溜息を吐いた時。
「…ママ?」
 足元に、ぎゅっとしがみつく存在がいた。
「え?」
 驚き、下を見ればそこには小さな4、5歳くらいの子供。
 じっとこちらを見る大きな栗色の瞳と、ふわふわの、瞳と同じ色をした髪。
「…あ、ママ、ちがうね。はるみちゃん、まちがえちゃったの。うーんと…、ごめんなさいなの」
 ほんのり厚みのあるピンク色の唇が、一生懸命にたどたどしい謝罪の言葉を述べる。
 その懸命な姿に、さっきまで憂鬱だった佐藤の心が軽くなったような気がした。
「いいよ。はるみちゃんって言うんだ?どうしたの、ママとはぐれたのかな?」
 子供の視線に合うように、腕を庇いつつしゃがみこんだ佐藤は、子供を警戒させないようにっこりと微笑みかけながら言った。
 きょとん、としていた子供は、佐藤の笑顔を見て、安心したように花のようなその顔に笑顔を浮かべた。
 …すごい可愛い子だな。
 その笑顔に、ぽかぽかと、佐藤の心に温かな気持ちが広がる。
「うん。あのね、ママとね、つぐちゃんとおかいものしたの。それでね、パパにあいにきたのよ。でも、ママしらないひととしゃべってたからね、はるみちゃんひとりでパパにあいにいこうとしたの。そしたらパパいなくてね、おねえちゃんがいたのよ?」
 たどたどしい晴海の説明に、頭を悩ませていた佐藤は、晴海の最後の言葉に驚いた。
「…お、お姉ちゃんって、その…分かるの?」
 彼女の人生において、自分がすぐに女性に見られた経験がほとんど皆無に近い。特に子供などは分かりやすいものにしか目がいかないらしく、大体彼女は「お兄ちゃん」と言われる。
 佐藤の質問の意味が分からなかったのだろう。晴海はきょとんと首をかしげ、
「なんで?おねえちゃん、おねえちゃんじゃないの?」
 と不思議そうに聞いてきた。
「え…あ、うん。お姉ちゃんで合ってるよ。いつもお兄ちゃんにばかり間違えられるから、ちょっと驚いちゃったんだ」
「そうなの?でもおねえちゃん、ママとにてるのよ?うーんと…おんなじかんじ」
「えっ?そうなの??」
「そうなのよ。だからはるみちゃん、ママとまちがえちゃったの」
「そっか…」
 こんな可愛い子のお母さんとどうやら似ているらしい事を言われ、落ち込んでいた佐藤の気持ちが浮上する。
「おねえちゃん、おててイタイイタイの?」
 今度は心配そうに、ギプスをしたままの腕を見つめられ、思わず佐藤は無事なほうの手で晴海の頭を優しく撫ぜた。
「うん、ちょっと怪我しちゃったんだ。でも大丈夫。お医者さんがすぐに直してくれるから」
 そう、慰めるように言うと、パッと晴海の顔が輝いた。
「あのね、はるみちゃんのパパ、おいしゃさんなの!」
「えっ?じゃ、もしかしてこの病院のお医者さん?」
「そうなの。パパ、せんせいしてるの!」
 ニコニコ、いきなり全開の笑顔になった晴海に、佐藤はよほど父親のことが好きなんだろうなと予想した。
「そっか。じゃ、パパのお名前なんて言うのかな?」
「うんと、ねー。えっと…はるみちゃん、れんしゅうしたの…うーんと…」
 …練習?何の??
「えっと…ママはりょうすけさんっていってるの。でもそういったら、おにいちゃんにはわかんなかったの。だから、はるみちゃんれんしゅうしたの」
 どうも話が分かりにくいが、たぶん父親の名前を説明する練習をしたらしい。そしてどうやら、「お兄ちゃん」に伝わらなかったことで練習を始めたらしかった。
 だが晴海は答えを出すよりも先に、彼女たちの背後から名前を呼ぶ声がした。
「晴海?!」
 え?と思い、振り返ったそこには、目の前の子供がそのまま大人になったような、背が高くスレンダーではあるが、可憐な雰囲気を持った一人の女性がいた。
 その姿に佐藤は目を見張る。
 …綺麗な人だな…。
 目の前の女性は、佐藤に負けず劣らず化粧っ気がない。なのにゴテゴテと塗りたくった、綺麗を売り物にしている女性には真似できないほどの、素肌ならではの美しさに溢れていた。
「ママ!」
 そして晴海が言った言葉に再度驚く。
「晴海!どこに行ったのかと思って探したんだよ?!」
 心配そうな顔で駆け寄ってくる女性をまじまじと見つめながら、佐藤は先ほど言われた言葉を思い返す。
 …こんな人と似てるなんて…絶対に間違ってる!
 晴海の言葉を嘘とは思わないが、どう見てもこの女性と自分は月とスッポン。似てる箇所といえば背が高いことと、茶色いショートヘアーぐらいだろう。だがしかも目の前の女性の髪色は、染めた自分のもとは違う、天然のものだろう。根元から余すことなく茶色い。
「ごめんなさい。うちの子が迷惑かけちゃったみたいで」
 心の底から申し訳なさそうに頭を下げる女性を見ながら、呆然としていた佐藤は慌てて我に返った。
「え?!…い、いえ、そんなこちらこそ、晴美ちゃんとお話できて楽しかったです」
 頬を真っ赤に染めながら、まるでサクランボそのままの顔色で、慌てふためき同じように頭を下げる。
「あのねー、はるみちゃん、おねえちゃん、ママとまちがっちゃったの」
 …う、うわー、そんなこと言わないで!!
 おこがましさにさらに佐藤は顔を真っ赤にする。
 だが女性の反応は、佐藤の予想とははるかに違うものだった。
「えっ、そうなの?もう、晴海。ママと似てるだなんて、お姉さんに失礼でしょ?」
 一瞬、嫌味かと思った。
 けれど目の前の女性の顔はそんな感じはなく、また日ごろから陰口などを叩かれ慣れている佐藤は、人の好悪の感情に聡い。だから気がついた。
 …この人、真剣に言ってるよ…。
 何だか不思議な親子だな、佐藤はそう思った。
「あ、ごめんなさい。名乗りもしないで。あの、高橋拓海です。それでこっちが晴海」
「はるみちゃんなの」
「え、と、あの…佐藤錦希です」
 笑われる?それを佐藤は覚悟したが、彼女の反応はまたも予想とは異なり、
「へぇ、綺麗な名前だなぁ…いいな…」
 ぼんやりと、あらぬ方向を見ながら呟くように言った彼女、拓海の言葉に佐藤は驚きを隠せない。
「えっ?!」
「…あ、ごめんなさい。あの、私、自分の名前が拓海って、男の子みたいな名前だから、すごい綺麗な名前とかに憧れがあって…」
 ぼわっ、と頬を一気に赤く染め、アタフタしながら言う彼女は、たぶん年上なのだろうがとても可愛らしかった。
「綺麗って…サクランボの名前ですよ?」
「え、そうなの??でも、ニシキって綺麗な響きだよね?」
「はるみちゃん、サクランボ好きー」
 …何だか。
 佐藤はとても嬉しい気持ちになった。
 胸がじんわり熱くなって、嬉しくてたまらない気持ち。
 にっこりと笑って、素直に心からの感謝の気持ちを佐藤は口にした。
「ありがとうございます」
 こんな気持ちになったのは、たぶん生まれて初めてのことだった。





 鈴木一郎は悩んでいた。
 溜息が何度も零れ、堪えようと思っても溢れ出てくる。
 悩みの内容は、彼が以前抱えていたような仕事に関するものではない。
 自慢でも何でもなく、今の自分の仕事ぶりは人に誇れるだけのものがあると思う。努力も怠ってこなかった。自信もある。
 だから悩み事は仕事関係ではない。
 では人間関係かと言うと、概ね職場の人間関係は円満だ。指導医である高橋医師の、時折放たれる愛妻自慢に延々とつき合わされるのはとても苦いものがあるのだが、それ以外は至って良好だ。
 だから人間関係でもない。
 では何か。
 ありていに言って、それは「恋」の悩み。
 あろうことか彼は患者に恋をした。
 いい子だな、と言う第一印象から始まって、偶然見かけた脆い姿にたまらなく惹かれた。
 心を抑えるまでもなく、一瞬で鷲掴みにされた心は未だに鈴木の思い通りにはならない。
 患者と医師、そのモラル的なものを問題のようにも思うが、向こうは不治の病というわけではなく、時期を置けばすぐに退院する身だ。だから関係を進展させようと思えば、過去の自分の遊びのような恋愛遍歴を考えれば容易いことのようにも思えるのだが…。
 しかしそう事は簡単には上手くいかない。
 鈴木は真剣な恋と言うものを見くびっていた。自分の身に降るまでは。
 だがいざ恋に落ちてから、今までの経験が無駄にしか思えないほど相手に対し何も出来ない。しかも向こうがそう言った方面で疎そうである事もあり、鈴木の必至のアピールは、今のところ全部空振りに終わっている。。
 それに何より。
 先ほど気付いた事実。
 彼女が、誰に好意を持っているのかに、鈴木は気付いてしまったのだ…。
『高橋先生が相手じゃ、俺に勝ち目ねぇじゃん…』
 ハァ…。落ち込み項垂れる鈴木に、さらに追い討ちをかけるように、鈴木が勝手に恋敵と思い込んでいる高橋医師こと高橋涼介が冷たい声をかけてくる。
「うっとおしいな、鈴木。さっきから溜息ばかり吐いて」
 揶揄するような声に顔を上げれば、そこには鈴木が忌々しく思えるくらいに自分よりも(ほんの数センチだ!と言い張る…)背が高く、怜悧で端整な白皙の美貌としか表現できないような容姿の人物が見える。
 …これで仕事もできるってんだから、神様は不公平だよな…。
「…別に何でも無いですよ。ほっといて下さい」
 やさぐれた気持ちでそう言い返すと、涼介の意地悪そうな笑みはますます深くなる。
「そうは言ってもな、そばで溜息ばかり吐かれてたらこっちまで気が滅入るんだよ。悩みがあるんだったら、聞いてやるぐらいはしてやるから言ってみろ」
「べ、別にいいですよ。話すようなことじゃないし…」
「嘘だな。お前は聞いて欲しいんだ。だからそうやってこれ見よがしに溜息を吐いている。そうだろ?」
 …何で常にこんなに自信満々なんだ、この人?
 とは思っても、実際誰かに相談したかったのかも知れない。と言っても、むざむざ恋敵相手に相談するのも空しい…。
「ま、言わなくても分かるがな。恋の悩みだろう?」
「!!?」
「…見てれば分かる。しかも…俺にはその相手も分かってる」
 フフフフ、と楽しげに笑い涼介に、鈴木は冷や汗が背中を伝うのを感じた。まさか…との思いはあるが、しかしこの高橋先生ならば…とも思う。
「お前、彼女の前だとカッコ付けてるからな。分かりやすいぜ」
「か、カッコつけてなんか…」
 …してるかも…。
「やたらと爽やかな笑顔を振り撒いて、あげく彼女から何も反応返って来なかったら、お前、廊下の隅でヘコんでただろう。俺はとても笑わせてもらったよ」
 …この人、悪魔だ…。
「相手の名前は…」
 …ま、まさかまさか…。
 ニヤリと笑う涼介。
「…佐藤錦希だろ」
 …大正解。
 もう鈴木はヘコみすぎて顔が上げられない。
 しかし続いた涼介の言葉に、ガバッと勢いよく顔を上げた。
「まぁ、お前が惚れるのも分かるけどな。あれは俺も妻に会う前だったら惚れてたかもな…」
「ちょ、先生は奥さん一筋ですよねっ?!!」
「当たり前だ。あれは運命の相手だ。出会えた事が奇跡のような相手だぞ?何で他の女に惚れなきゃならん」
 …いや、そんな目ェ剥かれて言われても…。
「…そんな事は分かってますよ。でも先生が自分で惚れるかもって言ったんじゃないですか」
「ああ?そうだったか。イカンな、妻の事になると余裕がなくなって…フッ…」
「いや、いつもの事ですからいいですけどね…。でも、やっぱ先生から見ても鈴木さんって、イイ感じですかね?」
「何だ。自信が無いのか?」
「いや、そうじゃなくって…、俺、今までいかにもって言う化粧も服もフル装備みたいな女としか付き合ったことなくて、だからああいうタイプって今まで接したこと無かったから、その…」
「ふぅん?まぁ、俺も妻に会うまで似たようなものだったな。今までそう言う打算的な女ばかり見ていたから、飾り気の無い無防備で素直な姿に感動するんだよな…」
 うっとり。もう鈴木の恋愛相談はどこへやら。涼介の目は宙を彷徨いはるか向こうにいるだろう妻の姿を追い求めている。
「ああ、それすごい分かりますよ。すっぴんなのに肌とか綺麗ですしね…目鼻立ちも整ってるし、たぶんあれは磨けばすごい綺麗になりますよね…」
「そうなんだよ。いや、化粧なしでも十分可愛いんだがな。たまにする化粧とのギャップにこう、惚れ直すって言うのかな?」
「そっすねー。綺麗になるでしょうね。スタイルもいいし、背も高いから、モデルっぽくなるんでしょうね…」
「ああ、結婚式の時の拓海…綺麗だったな…」
「結婚式かぁ…夢ですよ…」
 キラキラと少年のような瞳をしながらどこか遠くを彷徨うように見つめる二人の医師。
「……何あれ?病気だわ…」
 そんな彼らを遠巻きに眺めていた、拓海と晴海と一緒に遊んでいた緒美は、その二人とはぐれてしまったことを、あんなふうになっている従兄に報告するべきかしないべきかを悩んでいた…。




2005.11.30

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