薔薇の名前
act.3
震える指でかけた電話番号。
数コールの末、出た相手は、望んだ人物の声ではなかった。
『…あぁ、誰だ、この番号?』
出た瞬間にそう言われ、拓海は失望に気持ちが沈むのを感じた。
声と口調だけで判る。
彼の弟である啓介だ。
なぜ彼が涼介の携帯に出たのか、それを不審に思う間もなく、拓海は言葉を発した。
「あの…藤原です…」
何度か彼と会い話したことはあるが、常に喧嘩腰でしか話したことがない。どうしても気後れする気持ちを震わせ名前を名乗ると、電話の向こうから怒声が響いた。
『ああ?!テメェ、この、藤原ァ!!』
その激しい怒鳴り声に、負けず嫌いの拓海の心にも怒りが湧く。
「…何だよ、アンタ、いきなり…」
けれど次の瞬間、それはいきなり萎む。
『何だじゃねぇんだよ!このヤロウ!お前のせいでアニキは…』
その言葉を聞いた瞬間、心臓がキリで突かれたような気分になった。
「アニキって…涼介さんが…どうかしたんですか…?」
声が、震えないようにするのが精一杯だった。
『どうかしたじゃねぇよ。お前のせいでアニキ、出てっちまったんじゃねぇか!』
出てく…その言葉を理解し、拓海は必死な気持ちで問い返した。
「ど、どこに出てくんですか?」
『…東京だよ。何か、向こうに前から呼ばれてたらしいんだと。けど、今まではずっと断ってたんだよ。峠もねぇしな。でも…お前のせいで、アニキ、ここにはもういられないっつって、戻らねぇって出てっちまったんだよ!』
もう声が震えるのをごまかすことは出来なかった。
言葉も上手くつむげない。
「…そ、そんな…俺、あの……」
電話越しでも、そんな拓海の同様は伝わったのだろう。ハァと啓介の溜息が聞こえた。
『…いきなりヤロウに惚れられて、お前が戸惑う気持ちも分からなくねぇんだけどよ。しかもアニキ、かなり強引だったろ?さすがに俺もお前に同情しないでも無かったけど…でも、やっぱ俺はずっと今までのアニキを見てるから。
…今までさぁ、アニキって何でも出来るし、夢中になったことなんて無かったんだよなぁ。車のことにしてもさ、ずっと敵無しでやって来て、初めてお前って奴が現れたとき、アニキ嬉しそうだったんだ。
そんで、お前に負けて、あげくお前に惚れたみたいでさ。俺としてはアニキがおかしくなっちまったのかと思ったんだけど…。
…でも、アニキ、すっげぇ嬉しそうだったんよな。今までつまんなさそうにしてたのが、いきなり幸せそうになって、お前のケツ追っかけ回して…。
…初恋だって言ってた。こんな楽しいのは生まれて初めてだ、って。お前には迷惑だったかも知んねぇけど、俺はお前にはソコんとこだけ分かってて欲しかったって、そう思うよ』
どうしよう?涙が出てきた。
こんな大事なことばかり黙ってて、余計なことばかり言って、何が「思った事は言わないと伝わらないだろう?」だ。何も伝わってなかったじゃないか。
「…あの…涼介さんの連絡先とかは…」
『お前、どうするつもりだ?せっかくアニキがお前を諦めようとして、こっち離れたんだぞ?変に期待持たせるんなら…』
「そうじゃなくて!…俺…涼介さんに言ってなかったから…すげぇ大事なこと…」
そうだ。拓海も何も伝えてなかった。
気持ちが行動に追いつかず、戸惑うばかりでいつも無視していた。
伝えたい。もう手遅れだとしても。だから…。
ハァ、と啓介の溜息が再度電話越しに聞こえる。
『10時』
「…え?」
『高崎駅から10時×分の新幹線。急げよ。お前なら間に合うだろ?』
「…え?…あの、どう言う…」
『…っ、あー!本当にお前、ニブいな。今日なんだよ、アニキの出発日。今日の午前10時×分の新幹線!分かったら、追いかけろ!!』
拓海は時計を見た。
高崎の駅まで…急いでギリギリかと言う時間だ。
拓海は通話中だった電話を放り投げ、ハチロクのキーを掴み走り出す。
「…おい、拓海…」
慌てる様子の拓海に、文太が声をかけるがそれさえも届かない。文太はそんな息子の様子に、フッと笑い煙草の煙を吐いた。
「…ガンバレよ」
ハチロクの爆音が響く。スキール音を立て、走り出す姿に、文太は砂を噛んでいたような気分だった食事が今日は旨そうだと微笑んだ。
走る。
こんなに全速力で走ったのは初めてだと言えるほどに。
啓介に告げられた出発時刻まであと五分。
駅に着いた途端、駐車場に停めたハチロクから飛び降り、全速力で走り続ける。
学校で体育の授業はあったが、ダレてまともに走った事は無い。
体力はあるつもりだったが、呼吸が苦しくなり、汗が噴出してくる。
駅構内を走り、改札口を駆け抜けようとしたところを駅員に止められ、急いでいるのに入場券を買わされ、やっとの思いで入ったホームに目当ての人物は見つからない。
ホームにはもう新幹線が停車している。それが時間の無いことを拓海に知らせ焦らせる。
ハァハァと荒い息を吐き、キョロキョロと普通よりも高めな身長の彼を探す。
そして見つけた。
遠目でも分かる、あの雰囲気と艶やかな黒い髪。
見た瞬間、涙で目が滲んだ。
「…涼介さん!」
叫んだ。心のままに。
すると今にも新幹線に乗り込もうとしていた彼の足が止まる。こちらを振り向き、涙目の拓海と目が合った瞬間、驚愕の表情になり、そして苦笑を浮かべた。
拓海は彼の元へ駆け寄った。
もう、何もかもぐちゃぐちゃで分からない。
ただ、言わなければという気持ちだけがいっぱいにある。
「…見送りに来てくれたのか。ありがとう」
今まで、拓海を見ながらそんな寂しそうな顔になった事は無い。自分のせいで、この人にこんな顔をさせたのかと思うと、過去の自分が悔しくて仕方ない。
「…お、おれ…は…」
喋りたいのに、荒い息が言葉を邪魔する。もどかしさに益々涙が滲む。
「そんなに心配しなくても、もう戻らない。藤原の前には顔を出さないよ」
…藤原、と名を呼んだ。悔しくて死にそうだ。堪えていた涙が、ポロリと頬を伝い落ちる。
「…泣くほど嫌だったか?…悪かったな。俺は…生まれて初めてだったんだよ。こんなに夢中になれる存在っていうのが。子供と一緒だな。欲しくて、駄々を捏ねてお前を困らせた。申し訳なかったと思ってるよ」
ブルブルと拓海は首を横に振る。
駄々なんて幾らでも言えばいい。聞いてやる。これから好きなだけ。
言葉が出ない。胸がいっぱい過ぎて。早く、何とか伝えたい。じゃないと…。
焦る気持ちが、行動に現れた。
涼介の胸倉を掴み、引き寄せ、そしてその唇に噛み付くようにキスをした。
キスの仕方さえ知らない拓海だ。歯が当たって痛い。けど、そんな事には構えなかった。
ガチンと歯がぶつかり、すぐに顔を離す。
「…行くなよ」
「…たく、いや、藤原…」
ドン、と彼の胸を叩く。
「…拓海って呼べよ…」
涼介の手が拓海の頬を撫でる。濡れた感触に、涙がずっと溢れていたのを知る。
「拓海、でも…」
「…あんた、いっつも急なんだよ!」
「急?」
「…俺は、鈍いほうだし、こんな気持ち初めてだし…だからゆっくりじゃないとダメなのに、あんた、いきなり好きだの何だの言ってくるし、よく分かんなくなってくるし…」
「…うん。ゴメン。焦ってたんだ…」
「…あんなにしつこかったのに、いきなり来なくなるし…」
「…ゴメン、臆病だったんだ」
「……そうじゃない。俺が悪いんだ…俺が…」
ぎゅっと涼介の胸に縋り、俯いていた顔を上げる。
目の前には、前のように嬉しそうな瞳で見つめる涼介の顔。
その顔がまた自分に向けられるのが嬉しい。今なら素直にそう言える。
「…俺だって…あんたが好きなのに…」
泣き笑いの表情で微笑むと、涼介の顔もクシャリと崩れた。
そしてあらん限りの力で抱きしめられる。
「拓海…拓海…」
「行くなよ…行かないでよ…お願いだから…」
人前でこんなに泣けるだなんて思わなかった。誰かに縋り、無様に泣いているだなんて。
けれど今はそんな事も頭に無く、ただひたすら離したくないという気持ちだけで行動していた。
涼介の手が宥めるように拓海の背中を撫でる。
その腕の感触が心地好い。
けれど、ホームに発車を告げるベルの音が響いた。
涼介が拓海の肩を抱きながら体を離す。拓海の顔はもう涙でぐちゃぐちゃだ。けれどその顔を隠さず晒した。自分の顔の酷さより、涼介の顔を覚えていたかった。
「ごめん…もう行かないと」
「…………」
もう遅いのだろうか。苦笑いの涼介の顔を見つめる。
「でも…戻ってくるから。必ず。拓海の元へ」
じわ、とまた涙が溢れる。
「だから待っていてくれ。俺が戻るまで」
こくん、と拓海は頷いた。
「……待ってる。だから…絶対帰ってきて…」
「拓海…」
また唇が寄せられる。涼介主導のキスは、さっきのように歯は当たらない。拓海の唇に優しい温もりと感触だけを残した。
唇が離され、最後まで繋いでいた手と指が離される。
扉が閉まり、すぐに無情にも新幹線は走り去って行く。
彼の名残も残さず。
拓海はずっと走り去ったホームに立ち、ずっと彼が去った方向を見つめていた。
「…待ってる…ずっと…」
そう呟き、去って行ってしまった彼の背中を見続けた。
この腕の中に、肌の上に残る、彼の感触を思い出しながら。
だが―――――…。
それから三日後。
帰宅した拓海は、思ってもいない物を見てしまった。
「…良かったわねぇ、拓海ちゃん。彼氏と仲直りしたんだ」
「もう、おばさん気が気じゃなくって…これで安心して眠れるわ〜」
そんな奥様方の言葉もどこへやら。
拓海は店先に停められた白いFCの姿を凝視した。
…まさか、なぁ…動かさないと良くないから、啓介さんでもうちに来たのかな?
と、思ったのだ…が。
家に入った途端、それが間違いであった事を拓海は知る。
「…お義父さんにはご迷惑をおかけしてしまって…」
「いいよ。気にすんな。俺はアンタとうちのが仲良くしてくれればそれでいいんだからよ」
ピキリ、と拓海は固まった。
…どこからどう見ても。
そこに居たのは、三日前にホームで拓海と熱烈な感動の別れを繰り広げた相手であったのだから。
「…ああ、拓海。お帰り」
そう笑う姿も、本物だ。
「…りょ、涼介さん…?」
「ああ。俺だよ。はい、拓海に…俺の気持ちだよ」
そしていつものように渡されたのは真っ赤な薔薇の花束。今日はやけにボリュームが多い。
ズシッと重いそれを受け取り、拓海は呆然と目の前の人物を見つめた。
「…と、東京に行くって…」
「ああ。行ってきたよ。あ、これ土産だ。お義父さんが拓海はこう言うのが好きだって言うから、コレにしたんだが…」
手渡されたのは「ひ○こまんじゅう」。それをマジマジと見つめ、拓海は混乱する頭で考えた。
「…な、何でもう帰ってきてるんですか?」
「何でって…学会で教授に付き合っただけだからね。だから、戻ってくるって言っただろう?」
にっこり微笑まれ、拓海は色んな符号が重なるのを感じた。
そして湧き上がってきたのは怒り。絶対そうだ。そうに違いない…。
「…あんた、俺に嘘ついただろ…」
返答次第では殴る。だが拓海の考えるより遥かに、敵はしたたかだった。
「まさか?俺は拓海には嘘はつかないよ」
「だ、だって、あんた、もう戻らないって、啓介さんに……」
そしてしたたかな男はにっこりと、薔薇より艶やかに微笑んだ。
「…ああ。確かに啓介には嘘はついたけどな」
その瞬間、拓海は悟った。
全部。
全部、計算なのだ。アレもコレも。今までのこと全て。
がっくりと項垂れ、膝を着く。
もうこの人相手に逆らう気力が失せた。
そして諦めた。
「…あんた、マジに俺のこと好きなんか?」
項垂れる拓海の前に、涼介もまたしゃがみこみ、視線を合わせる。
キラキラとした子供のような瞳。そう…駄々っ子の瞳だ。
子供の我侭さと、大人の計算高い頭脳。
それを合わせ持った厄介な男は、嬉しそうに微笑み頷いた。
「愛してるよ、拓海」
拓海の脳裏に浮かんだのは、「惚れた方が負け」と言う言葉。
だからもう仕方ない。
拓海も、苦笑いではあるが笑った。
「…じゃ、もうしょうがないし…いいっす…」
とりあえず幸せだし。
拓海は涼介の腕の中で溜息を零しながら、そう呟いた。
薔薇の花言葉は熱烈な恋。
拓海はそれを、今、嫌と言うほど実感している……。
カウント1234…6? Kingyo様リク作品
2006年4月8日