薔薇の名前
act.1
真っ赤な薔薇の花言葉は「熱烈な恋」。
花は嫌いじゃない。
薔薇も、派手だなとは思うけれど、取り立てて嫌いとも思っていなかった。
あの夏の日。
バイト先のGSに挑戦状と一緒に届けられた花束。
それに気恥ずかしさを覚えたけれど、生まれて初めて貰う花束に、ほんの少しだけ心が浮き立ったのは事実だ。
花瓶に入れ、自室の部屋に飾り、素っ気無かった自分の部屋に赤い花が彩りを添えているようで、枯れるまで自分の部屋を開けるのが楽しみだった。
だけど…と藤原拓海は思った。
GSのバイトも今日は無く、放課後、真っ直ぐに家路に着く拓海に、馴染みの商店街の奥様方から次々と声が寄せられる。
「拓海ちゃん。今日も来てるわよ〜」
「毎日毎日、熱烈ねぇ」
その言葉に、拓海はヒクリと頬を引きつらせた。
そして留めのような言葉。
「ステキな彼氏で幸せね。おばさん羨ましいわ〜」
…じゃ、アンタにやるよ。
などと言おうものなら、小さい頃から拓海を知る彼女たちに、母親よりもおっかなく怒られてしまう事だろう。
『あんなステキな恋人に想われて何が不満なの?!たとえ冗談でも、そんな事言ってはいけません!』
しかも一人ではなく、何人、いや何十人にも囲まれて怒鳴られてしまう自分が予測できる。
だから拓海は何も言わない。
けれど、声を大にして言いたかった。
『恋人じゃねぇし、彼氏でもねぇよ』
そして気疲れしながら辿り着いた自宅で見たもの、それは店の前に停められた、群馬の走り屋たちが憧れて止まない白のFC。さらに家の中に入ると、茶の間で自分の父親と仲良く寛ぎながらお茶をすするカリスマと呼ばれる男の姿だった。
「いやぁ。本当に兄ちゃんは話が分かるなぁ。うちの拓海のヤツに言っても、チンプンカンプンでな。こんなに車のことで話の出来るヤツなんて久しぶりだぜ」
「いいえ。こちらこそ、お義父さんの深い洞察力には恐れ入りますよ」
…何でこの人たち、こんな仲良くなってるんだよ。
ただいま、を言う事も忘れ、まるで自分の家のように質素な茶の間で寛いでいる、上質な服に優秀すぎる頭脳、そして極上で端麗な容姿と物腰、あまつさえ走り屋たちの賞賛と憧憬を一身に浴びるドラテクと言う、どこからどう見ても全てが高級品で覆われているカリスマ様を呆然と見つめた。
そんな拓海に、カリスマ様はすぐに気付いた。
文太に向けていた愛想の良い顔を、それこそ華が咲き綻ぶように満面の笑顔を向けて、そして言った。
「拓海、お帰り」
…ここはアンタの家か?
言いたいが、ぐっと我慢。
「何だ、拓海。お帰りも言わねぇで。高橋サンにも失礼じゃなねぇか」
…親父。アンタは息子が可愛くねぇのか?この状況を分かって……ねぇんだろうな。
ペコリとおざなりに頭を下げて、通り過ぎようとするのだが、それより早く、さすが白い彗星の異名を持つ男。拓海の前に立ちはだかり、そして拓海以外の老若男女を魅了する笑みを向けた。
「これを拓海に。俺の気持ちだ」
彼の手には真っ赤な薔薇の花束。
彼の手にある時には様になる花束なのだが、自分の手に渡った途端みすぼらしくなる事を拓海は嫌と言うほど知っている。
だが、受け取らないと目の前の人がどうなるのかも嫌と言うほど知っている。
なので、
「……どうも…」
と渋々受け取った。
「何だ、その返事は?高橋サンがせっかくお前のために買ってきたもんだろうが。もうちっと喜べよ」
「いいんですよ、お義父さん。俺は拓海が貰ってくれるだけで満足です」
「そう言ってもなぁ…不出来な息子ですまねぇな。高橋さん」
「いいえ。そんな事はありませんよ。拓海は俺にとって宇宙一素晴らしい人ですから」
…駄目だ。これ以上聞いていたら脳が破壊される。
拓海は彼らのやり取りを無視して、駆け上がるように自室へ向かった。
まだ背後から、拓海を非難する文太の声と、それを宥めるカリスマの声が聞こえたようだが、無視だ無視。
そして自室の扉を開き、その部屋の中の光景を見た瞬間、拓海は最近の日課となっている「げんなり」と言う気持ちを今日も味わった。
手の中の薔薇の花束がポロリと落ちて、部屋の中に転げ落ちる。
だが落ちた薔薇の花束が、どこに行ったのかも分からないほど…そこは赤。赤の山。
部屋一面の真っ赤な薔薇の花束の山。
確かに、花を貰うのは嬉しい。
彩りのある花が部屋を飾ると、心が浮き立つ感じがしたものだ。
…最初の頃は。
けれど今となっては拓海にとって、これは災難でしかない。
高橋涼介。
赤城の白い彗星、群馬のカリスマ。
その彼の名とともに。
拓海が彼こと高橋涼介と出会ったのは、あの夏の夜。
峠の薄暗い闇の中でも、彼の白いFCと際立った容姿は、彼の弟である黄色いFDの持ち主と同様人目を引いた。
拓海も、遠目で格好良い人だと思ったものだ。
そして迎えた彼とのバトルの日。
初めて彼と向き合い、そして言葉を交わした。
あの時もまだ、拓海は彼に対し尊敬に近い念を抱いていた。
バトル終了後、そしてさらにその思いは増した。
本来なら自分が負けていただろうバトル。勝利したのは、ひとえにここが秋名と言う自分のホームグラウンドと、僅かばかりの運であると拓海は自覚していた。
『お前いい奴だよ。気に入ったぜ…。…また会おうぜ』
そう言われて、純粋に嬉しかった。
社交辞令のようなものだとしても、自分が一目置く人物から認められたのだと思ったから。
だが、涼介の『気に入った』は、拓海の予想を超えていた。
ありていに言えば、『気に入られすぎた』のだ。
その翌日から、毎日届けられる薔薇の花束。
配達をする花屋の店員さんが教えてくれた。
『真っ赤な薔薇の花言葉は「熱烈な恋」なのよ。拓海ちゃん、よっぽど気に入られちゃったのねぇ。こんな毎日愛の告白みたいな花束を贈られるなんて』
その頃はまだ、『まさか…』なんて笑える余裕もあった。
そして花束が届き始めて一週間目。
花束は店員さんではなく、カリスマ本人によって届けられた。
折しも、時刻は夕方。
晩御飯の買い物客で賑わう、商店街にとって一番書き入れ時と言える頃であった。
真っ赤な薔薇の花束を抱えた、見た目極上、おまけに白馬ならぬ白のスポーツカーに乗った王子さまと見紛うばかりの人物の登場に、目敏く、また日々の話題に飢えた主婦層たちの目に留まらぬはずが無い。
そして王子さまことカリスマ、いや高橋涼介は、藤原とうふ店の店先で、帰宅したばかりの学生服姿のその家の息子、藤原拓海を捕まえて、まさに花束通りの熱烈な愛の告白をした。
『藤原。俺の心はあの日から寝ても覚めてお前の事ばかりだ。自己分析をした結果、俺はお前を愛しているという結論に至った。藤原…いや、拓海。これが俺の気持ちだ。受け取ってくれ』
そう言いながら、差し出した薔薇の花束を拓海は受け取ってしまった。
あまりの非日常に、頭の機能を停止し、条件反射で行動した結果であった。
だがそれを見ていた近所中の住民は皆、
『藤原さんちの拓海ちゃんが、ステキな王子さまから愛の告白をされて、薔薇の花束に込めた彼の愛を受け取っちゃった?』
と取られてしまった。
真っ白なスポーツカーに乗った王子さまと、平凡な商店街の豆腐屋の高校生の息子。
そんな二人のロマンスに、某韓流ドラマにより純愛ブームが蔓延し、去ること無い主婦層たちのハートに火が付かないはずが無い。
瞬く間に、この藤原とうふ店の恋物語は商店街中を席巻し、翌日には拓海は、商店街公認の立派な「彼氏」持ちとなってしまった。
『男同士が何よ!応援してるからね!!』
『うちの父ちゃんがモラルがどうとか言ってたけど、殴っておいたから!』
そんな励ましの言葉を受けて、初めて拓海はことの重大さに気付いた。
そして頼みの綱となるはずの父親は、拓海より素早く涼介に懐柔され、バイト先の店長は奥さんに言い含められこれまた論外。そして先輩、親友は元よりカリスマのシンパ。
『すげぇじゃん、拓海。あの高橋涼介の恋人なんて!』
『さすが拓海だな。俺たちはお前が只者じゃないと信じてたぜ』
その日。拓海は暴れた。大暴れした。
キれて暴れる拓海を宥めたのは、何故か拓海を悩ますそのカリスマ本人で、あげく暴れた原因は、
『俺とのことを言われて、恥ずかしかったみたいですね。あまりからかわないで下さい。拓海は照れ屋なので』
さすが医者の卵。暴れる拓海の体を、急所を抑え身動きできなくし、怒りに言語中枢が麻痺した拓海に代わり、妙な持論を並べ…それが罷り通ってしまった。
拓海は孤立無援。
大きすぎる敵を相手に、拓海は早々に無視をすると言う手段で持って抵抗するしかなかった。
そしてそれは現在も続き、冬も過ぎた春間近。
諦めない不屈のカリスマは、忙しいのにも関わらず、暇を作り出しては拓海の元へ通い、愛を囁く。真っ赤な薔薇の花束とともに。
花に罪は無い。
捨てるのも、綺麗に生まれた身としては不憫、また花屋の店員から値段を聞いてしまった事で、日ごろの節約生活の中の習性で捨てる事は出来ず、こうやって花をドライフラワーやジャムなどにして取っておいているのだが、些かもう限界が見えてきた。
今日こそは…。
と拓海は決心する。
この花地獄からの脱出を。
けれどわざとゆっくり時間をかけて着替え、「この間に、帰ってくれねぇかなぁ」とやってしまうのは、拓海が臆病だからでは無いはずだ。
だがすぐに服は着替え終わり、階下からは楽しそうな涼介と父親の話し声がまだ聞こえてくる。
「………よし」
パシンと自分の頬を両手で軽く叩き、拓海は気合を入れて階段をゆっくりと下りて行った。
茶の間に現れた拓海を見て、涼介が嬉しそうに微笑んだ。いつも拓海は部屋に閉じこもって出てこない。そのパターンばかりだったので、余程嬉しかったのだろう。まるで子供のような無邪気な笑みに、拓海はドキリと胸がざわめいたが、それは罪悪感のせいだと自分に言い聞かせた。
そして思い切って声をかける。
「…高橋さん」
けれどその瞬間、涼介の顔は寂しそうなものになる。またもその表情に、拓海の胸が泡立った。
「…涼介、と名前で呼んでくれないのか?拓海」
その言葉は、愛の告白を受けた最初から言われている。
だが拓海は「俺たちは付き合ってるワケじゃないし…」と断り、今となっては意地だ。
「そんなふうに呼ぶ理由が無いって、言ったじゃないっすか」
「理由ならあるさ。俺がそう呼ばれたがってる」
ハァ、と拓海は溜息を吐いた。
この人は口が上手い。そして自分は口下手だとの自覚はある。
どう言おうかと悩んでいると、
「おい、拓海。何ダダ捏ねてんだよ。素直に甘えちまえばいいじゃないか?」
カチン、と何かが切れた気がした。
「…うっせぇな。親父は黙ってろよ!」
だがそう怒鳴り返すと、言い合いの声が漏れていたのだろう。店先に聞きつけた好奇心丸出しの奥様方の顔がチラホラと見え出した。
…ここじゃ勝負にならない。
拓海はそう思い、顎で涼介に示した。
「どうした?」
その穏やかな顔がムカついた。
自分はこんなに困っているのに。
「外。あんた、車乗ってきてんだろ?二人で話出来るところ行きましょうよ」
そう言った途端、パッと涼介の顔が明るくなる。
それに、チクリとまた胸がざわめいたが、目先の怒りに拓海は無視をした。
「何だ、デートか」
「うっせぇよ!」
父親の茶々に、拓海は怒鳴り返し、また怒りを蓄積させる。
「あら?今日はデートなのね?若い人は羨ましいわ〜」
「拓海ちゃんなら、あの彼氏と美男美少年でお似合いね」
「奥様、バッチリ撮ったわよ。今の二人のツーショット写真」
「まぁ、本当?!あたしにも貰えないかしら?」
「いいわよ〜。引き伸ばして、パネルにしちゃいましょうよ」
けたたましい声が喧騒する商店街を抜け、ふてくされる拓海と、ご機嫌の涼介を乗せたFCが颯爽と走り去って行った。
その後姿を見ながら、店の主である文太は、頭をボリボリと掻きながらこう呟いた。
「…あいつ、俺があんまりあの兄ちゃんを独占しちまってるから、怒っちまったのかな?…若ぇ奴の恋路は邪魔しないつもりだったが…俺も気が利かねぇなぁ」
と反省し、遠ざかって行くFCに、息子の幸せを祈った。
2006年4月6日