FCが着いたのは秋名湖。
まだ肌寒い日が続いているためか、観光客などの姿は見えない。
二人きりで話すには絶好の場所のように思われた。
拓海はFCを降り、ベンチに座った。
遅れて、涼介も拓海の隣に座る。
びゅう、と冷たい風が吹き、拓海はブルリと身を震わせた。
「…拓海。寒いだろう?これを…」
涼介が自分が着ていたジャケットを脱ぎ、拓海に差し出す。だが拓海はそれに首を横に振り断った。
「いらねぇよ。あんたこそ寒いだろ。俺は平気だから」
「俺は拓海が寒そうなのが気になる。俺のことはいいから」
じっと真剣な眼差し。見つめられ、拓海は頬が赤くなるのを感じた。
そうなのだ。
この高橋涼介は、黙って大人しくしていれば、拓海が見惚れて頬を赤く染めてしまうくらいに男前なのだ。
だが彼の行動が拓海を悩ませ、そして苛立たせる。
「いらないって。あんたが着てろよ。あんた、勉強大変なんだろ?風邪引いたら大変じゃないか」
差し出すジャケットを、無理やり奪い逆に涼介の体に巻きつけるように被せる。
せっかくの仕立ての良いジャケットがくしゃくしゃになってしまったが、そんな拓海の行動に、涼介は不機嫌になるどころか嬉しそうに微笑んだ。
「拓海は優しいな」
「はぁ?俺のどこが?」
「自分の体より、俺の体を心配してくれている」
「そ、そんなの、誰でも…」
やけに甘ったるく自分を見つめてくる涼介の視線がいたたまれず、拓海は頬を染め目を逸らした。
「そんな事ないよ。これが、今までの女だったら、きっと口では遠慮しながら、このジャケットを奪うように着てるよ」
…今までの女。
その言葉を聞いた瞬間、また胸にチクリと針が刺さった。
しかもその針は、さっきのようにすぐ消えず、ずっとジクジク痛み初めている。
「だから、拓海は優しい。…そんなところも好きだ」
何でだろう?胸が痛くて、そして無性に悔しい。
「……何でだよ」
「え?」
「…あんた、俺のこと、何で好きなんてそんな事言うんだよ」
「何でと言われても、好きなものは好きだし。思った事は言わないと伝わらないだろう?」
「俺なんて…どうって事ないヤツだし…」
「そんな事は無い。拓海の素晴らしさはよく知っているつもりだ」
「……男だし…」
フッ、と涼介が笑う。
「何だ、そんな事を気にしているのか?そんなものは、真実の想いの前には些細なことだ。現に、拓海の周りの人たちはみんな祝福してくれているだろう?気にする事はないよ」
「お、俺が言いたいのはそう言うことじゃなくって!」
思わず怒鳴った拓海を、涼介の真剣な眼差しが射る。嘘やごまかしが利かないほどの。
「…じゃあ、何?…言って、拓海。
…拓海が、俺とのことを受け入れられてないのは知っている。けれど、俺は受け入れてもらいたい。俺と同じように想ってもらいたいと思っている。それがどんなに難しいことか、俺は十分わかっているつもりだ。だから、俺は何でも出来るよ。拓海が望むなら」
…嘘吐き。「今までの女」って言ったじゃないか。きっと他の「今までの女」にも、同じ事を言ったんだ。そうに決まってる。
渦巻く醜く暗い感情。
こんなのはもう嫌だ。
だから拓海は言った。
涼介の目をしっかりと見つめ、彼に負けない強い眼差しで。
「…何でも?本当に?」
同じように、涼介も真剣な目で頷いた。
「ああ。何でも」
コクリと咽喉が唾を飲み込む音がした。
「…じゃあ…」
心臓がドクドクと戦慄きだした。
「…もう、俺の前に現れんな」
涼介の表情は変わらなかった。ただ、石のように固まっただけで。
「あんた、迷惑なんだよ。俺がどれだけヤな思いしてるか、分かってんのかよ?」
耐え切れず俯いた。
どんどん色を失っていく涼介の表情を見ていられなくて。
「…だから、もう来んなよ。顔…見たくないし…」
風がビュウビュウ吹いていた。
さっきよりも、寒く感じるには気のせいではない。
永遠に思えた沈黙の果てに、涼介が風の音に紛れて、呟く声がした。
「……そうか」
それは、いつも自信に満ちていた彼のものとは思えない。とても頼りないものだった。
薔薇は変わらず拓海の部屋にある。
ドライフラワーになり、新鮮な時より多少色がくすんだとは言え、赤い色を保ち拓海の部屋を彩る。
近所の喫茶店の奥さんから教えてもらった薔薇のジャムは、同じく教えてもらったように、ティーパックの紅茶などに混ぜて飲むようになった。
香る薔薇の香りに、嫌でもあの人を思い出す。
薔薇はまだある。
けれどもう増えることは無い。
あの時を境に、涼介はパッタリと現れなくなった。
最初はその事に騒々しかった奥様方も、むっつりと黙り、何も語らない拓海の姿に、少しずつその口を押さえ、今では腫れ物を触るように何も語らなくなってしまった。
これで良かったはずだ。
前のように、穏やかに過ごせるはずだった。
彼が来ていたときのように、騒がれることもなく、苛立つこともない。
なのに、なぜこんなに苦しくて、悲しくて、落ち着かない気分になるのだろう?
清々したはずだ。心ではいくらそう言い聞かせても、奥の方からモヤモヤとした感情が溢れて、拓海の涙腺を弱くする。
泣く自分は嫌いなはずなのに、なぜか無意識に泣いている自分がいた。
「…何だよ、コレ…もう、…全部あの人のせいだ…」
あの人…と脳裏にあの端整な顔を思い浮かべれば、胸が苦しくなった。自分は病気だろうか?不治の病?いつかこの苦しさが晴れるのだろうか?
モヤモヤする拓海を、文太が一番わかっていたのだろう。
そんな日々が続いたある日。
拓海は文太から思いがけない言葉を言われた。
「…お前、もう配達しなくていいぞ」
眠かったはずの頭が冴える。
「…何で…今までいくら俺がイヤだって言っても聞かなかったくせに」
「今まではな。けど、今のお前は前とは違う」
「ち、違わねぇよ…」
「…あのな。俺をナメんじゃねぇぞ。そんな目の下真っ黒にして、あげく前からボンヤリだったが、最近はそれに輪がかかってやがる。そんな奴に運転されたらな、このハチロクがお前と一緒に崖下に真っ逆さまだ。お前もハチロクも、俺がせっかくここまで手塩に育てたんだ。心配しちゃなんねぇのか?ああ?」
「…で、でも、俺は……」
「でも、何だよ?…とによぅ、そんなにあの兄ちゃんとケンカしたのが気になるんだったら、自分から会いに行けばいいじゃねぇか。どうせ、アレなんだろ?あの兄ちゃんのうちの事で揉めたんだろ?」
あの兄ちゃん、が誰を指してるのかなん、拓海には嫌と言うほど判っている。でも今は前のように「そんなんじゃねぇよ」と否定できなかった。それに…。
「…うちのことって?」
「あ?…知らねぇのか?…あの兄ちゃん、お前には勿体ないくらいイイ奴だよなぁ」
「親父!いいから教えろよ!」
「何だよ、本当に知らねぇのか?てっきり俺はその事で揉めたんだとばかり…」
早く言え、とばかりに睨むと、文太は頭をボリボリと掻きながら、言いづらそうに語った。
「…あー、まぁ…あの兄ちゃんのうちってのが、高崎でも有名な大きな病院の家だろ。
向こうの親から、お前との事でやっぱり文句言われたらしいんだよ。このまま、お前との付き合いを止めないと勘当するとかな。
けど、あの兄ちゃんはそれを突っぱねたんだ。
そんで、うちに何かと言ってきていた向こうの親からの文句も、どんな説得をしたんだかスッパリ止めさせてよ。
…兄ちゃん、言ってたなぁ。確かに親や家は大切だけど、それより大切なモンが出来たから、自分はそれをどんな犠牲を払ってでも守ってみせる、ってな。
…あん時、俺ァ、やっぱお前ら男同士だから、複雑な気持ちは残ってたんだが、この兄ちゃんならいいかって思ったんだよ。あの兄ちゃんなら、お前を幸せにしてくれるってな」
ふと蘇った涼介の言葉。あの湖の傍で語られたこと。
『そんなものは、真実の想いの前には些細なことだ。現に、拓海の周りの人たちはみんな祝福してくれているだろう?気にする事はないよ』
あの言葉は、不仲だった自身の親とのことも照らし合わせて語ったことなのだろうか。そんな事、涼介は何も言わなかった。
ただ、いつも嬉しそうに拓海を見ていただけだ。
そして全身で告げていた。
『拓海が好きだ』
と。
胸が苦しい。痛くて痛くて、張り裂けそうだ。
「…だからな、拓海。お前も俺に遠慮しないで、アッチに嫁にいっちまって構わねぇんだぞ?あっちは長男だし、やはり家は継がなきゃなんねぇだろうし…」
「だ、誰もそんな遠慮なんてしてねぇよ!」
「うん?違うんか?俺はてっきり、お前が俺に遠慮して嫁に行くのを断ったモンとばかり…」
…まだそんな話にもなってねぇよ、バカ。
「…俺、寝る」
「あ〜、ま、早く仲直りしろよ。お前のその辛気臭い顔にも飽きたからな」
「…うん」
自室に戻り、薔薇の花に囲まれたベッドに横たわり、目を閉じる。
ドライフラワーになった薔薇から漂う、微かな花の香り。
この香りは涼介を思い出させる。
まるで彼に包み込まれているように。
「…俺って…バカ……」
いつだって、失くしてから大切だと気付くのだ。
あまりにも彼の勢いが激しすぎて、奥手で鈍い拓海が気付かなかっただけで、いつだって気持ちは最初の時から変わっていなかった。
顔を見ただけで、真っ赤になってしまう自分の頬の熱さが証明していたのに。
「…好きだよ、涼介さん…あんたのこと…」
まだ遅くないだろうか?
拓海はベッドから起き上がり、机の引き出しの中を漁った。
「確か…ここに…」
『いつでも電話してきてくれ』
そう言いながら、拓海に無理やり彼の電話番号を書いたメモを握らせた。
『こんなのいらない!』
と拒みながらも、拓海はそのメモを引き出しに仕舞った。
捨てることなんて出来なかった。この薔薇と一緒だ。涼介がくれたから、だから捨てられなかった。
探り、白い小さなメモが見つかる。
そこに記入された11桁の数字でさえ何だか愛おしい。
電話をかけるにはまだ早い。
拓海は逸る気持ちを抑え、時間が過ぎるのを待った。
2006年4月7日