Dirty Magic 2
act.2 拓海伝説
FDの修理が終わると同時に、プロジェクトDは新たなステージに向けての調整が始まった。
赤城でのプラクティスを終え、調整に向けてのデータの採集を終えたハチロクは、いつも通りに松本が整備のためそのまま乗って帰る事となり、これまたいつもの事のように、拓海は涼介のFCに同乗する事となる。
向かう先は高橋家。
プラクティスの後の、これはもう恒例となっている。
なかなか時間を合わせることが出来ない二人の、唯一のデート時間のようなものなのだ。
本当なら二人で映画とか、恋人らしく普通に出かけることをしたい。けれど多忙な涼介が、どれだけ苦労して自分のために時間を割いているか、それを知っている拓海は、わずかな時間とは言え二人だけでいられるこの時間に文句はない。
ただ。
「なぁ、アニキー、俺、腹減った。ファミレス行こうぜ」
「あ、ちょうどいい、涼介。次の遠征の事で聞きたいことが…」
そんな大事なデート時間に、ちょくちょく割り込んでくる存在がいる事が腹ただしい。
しかも、
「ああ。分かった。じゃあいつものところでいいか?」
と、大切な恋人である涼介は、そんな拓海の不満に気付かず、あっさりと頷くのもちょっとムカつく。
けど。
『…そんな優しくて懐が深いところも…すっげぇ好きなんだけどさ…』
唇を尖らせ、頬を赤く染めながらそっぽを向く拓海の様子に、そばにいた涼介はすぐに気付いた。
拗ねたように自分から視線を逸らす彼に、涼介は苦笑しながら、膨れた頬にキスを送った。
「!?…りょ、涼介さん?」
首筋まで真っ赤に染めて、キスをされた頬を手で押さえながら拓海が涼介の方を見た。
その驚き見開かれている大きな瞳に、涼介の優しい笑顔が映る。
「ごめんな。でも家に帰ったら埋め合わせするから」
その言葉の意味。
それは涼介の部屋の中に入ってしまってからのこと。
拓海は赤く染まった頬に、熱が点るのを感じた。
「……絶対ですよ」
「ああ。絶対」
「…俺、久しぶりだからすごいがっついちゃうかも…」
「…ちょっとそれは恐いな」
「約束、しましたからね」
「ああ。大丈夫だ。安心しろよ」
笑顔で、涼介は拓海の赤い頬を撫でる。熱い頬とは対照的な冷たい指の感触に、拓海はうっとりする心を隠すことが出来ない。
「…こら。こんな所でそんな顔をするなよ」
「っむぅ…」
自然と、艶っぽい顔をしていたのだろう。涼介に苦笑されながら鼻をつままれた。
そして彼もまた声音に艶を滲ませながら、拓海の耳元に唇を寄せ、
「…後でな」
と囁いた。
それだけで、拓海の背筋に震えが走る。思わず萎えそうになる足を、支えてくれたのは目の前にいる元凶でもある涼介だった。
「涼介さんの…ばか…」
支えられた体をそのままに、胸に顔を埋め、恥ずかしそうに呟く拓海。
傍から見たら、どうにもこうにも、砂の吐きすぎで峠の駐車場が砂地整備されたグラウンドに変わりそうなほどの、甘く熱い恋人同士のやり取りだ。
もちろんそんな二人の様子に、独り者な時間の長い啓介と史裕がいつまでも絶えられるわけもなく、
「…あの…もうイイっすか…」
「…そ、そろそろ出発したいんだけどな…」
おそるおそるかけられた言葉に、我に返った二人は同じように赤面し、照れくさそうに額を突き合わせ見つめあったままで微笑んだ。
そんな二人の姿に、さらに啓介たちが、そっぽを向きながら「ゴホゴホ」とわざとらしい空咳を繰り返したのは言うまでもない。
だがそんな甘い空気を切り裂くように、聞きなれないスキール音が響いた。
「…誰だ、この音…」
「かなりハイパワーな音みたいだが…」
それは明らかに彼らがいつも聞きなれているものとは違った。
不審そうに顔を歪め、音の出所を探る啓介たちに答えを与えたのは、弟からかつて人間シャーシダイナモと呼ばれた兄、涼介だった。
「これは……ポルシェだな。それも空冷ポルシェのエンジンサウンドだ」
「ポルシェ?って、あのポルシェか?」
「ああ。たぶん間違いないと思うが…」
…ぽるしぇ?ポルシェってあの、高いって評判の車?
一人だけぼんやりと、拓海はその言葉を別世界のように聞いていた。
何故そんな車がここに来るのか?
「…ここに…来るな」
涼介のその呟きは当たり、音が近付いてくるのが拓海にも分かる。
何となく嫌な予感を覚え、涼介の手をぎゅっと握ると、彼もまた同じ気持ちなのだろうか。温まった指で握り返してきた。
「何もなければいいが…」
だが涼介のその願いが叶わなかった。
駐車場に悠々と乗り付けた車は二台。涼介の読み通りそれはポルシェ911カレラとBMWのコンバーチブルのカブリオレ。
二台の車はわざわざFDやハチロクの前で見せ付けるように停車した。
「…何か、ヤな感じだな…」
「…ああ」
今やそこにいる全ての人間たちが皆、嫌な予感を味わっていた。
ぎゅっと、さらに涼介の手を握る拓海の力が強くなった。
車のドアが開き、ブランド物に身を包んだ四人の二十代前半の男が降りてくる。
「…何だ、最近騒がせてるプロジェクトDって、こんなショボい車なんだ」
対面するように停まった車から、降り立つなりカレラの助手席に乗っていた男がそう言った。
「ふぅん、FDね。こっちはオイオイ、どこの骨董品だよ」
カブリオレの運転席に乗っていた男までもがハチロクを見てそう言う。
「速ぇって言うからわざわざ見に来たのにさー、こんなショボいんじゃガッカリだな」
「そうだな。まさかこんな、国産車ばかりとはな…」
馬鹿にしたように言い放つ男たちに、Dメンバー全員に敵意が芽生える。
しかしそれを抑えたのはリーダーである涼介であった。
「…悪いが、俺たちの車は走るためにあるんだ。品評会をしたいなら、どこかのモーターショーでも見に行ってくれないか?」
毅然と涼介がそう言うと、男たちは一斉に口角を引き上げて嫌な笑みを浮かべた。
「…へぇ。せっかくこんな地元で頑張ってるヤツラがいるみたいだから、わざわざ見に来てやったのに。そんな言い方するんだ?」
「結構だ。俺たちは見世物じゃない。走るためにいるんだ。用件がそれだけならもう用は無いだろう。俺たちは失礼するよ」
そう言い、涼介は背後にいたメンバーたちに撤収することを指示した。
「…何だ、逃げるのかよ」
「逃げる?面白いことを言うな。勝負を申し込まれた覚えも無いのに、逃げるも何も無いだろう」
フッと鼻で笑い、涼介は拓海の腕を取り、「行こう」とFCの扉に手をかけた。その時。
「スカしてんじゃねぇよ。お前…高橋涼介だろう?」
その言葉に涼介も、拓海も啓介たちの動きが止まる。
「…もう覚えてねぇのか?ドンガメ君?」
醜く顔を歪め、彼らは嘲るような笑みを浮かべた。
「もう思い出したくない事かなぁ?さんざん俺らに苛められたもんなぁ」
ゲラゲラと耳障りな音を立てて彼らが笑った。
涼介は目を眇め、自分の遠い記憶を探った。
そして過去、彼らがかつて涼介が転校することを余儀なくされた某私立小学校の同級生であるらしい事を思い出した。だが今の涼介には拓海を好きになって、そして彼がかつての汚点とも言えるべき自分の過去を肯定し、受け入れてくれた時点でそれは何の脅威でも無くなった。
ピクリ、と反応しそうになった拓海を、そして啓介をまたも涼介が視線だけで止めた。
「生憎と思い出す価値のない人間のことまで、記憶に留めておいてやるほど俺は暇じゃないんだ。俺が過去、どうであったかなど今のこの場では関係ないだろう。だから何だと言うしかないな」
変わらず毅然とした態度のままの涼介は、拓海の惚れた欲目を抜かしても、とても立派なものだった。
本来なら、今すぐ涼介を、皆を、ハチロクを小馬鹿にしたような彼らを殴ってやりたい。けれど涼介がそれを止めるからしないだけだ。そしてその気持ちは傍らで、固く拳を握る啓介も同じなのだろう。
「…何だと、このドンガメが!」
苛立ち、怒鳴る男に対し、涼介の反応は冷静なままで、軽く溜息を吐きながら、
「…話にならないな。啓介。帰るぞ」
振り向きそのまま去ろうとする背中に、男の乱暴な手が伸びた。
「ふざけんな、ドンガメのくせに!」
そして涼介の肩を掴み、その頬を殴りつける。
反動で涼介の体は地に伏せた。
「ハッ、ドンガメはそうやって地面を這いずり回ってりゃいいんだよ!」
突然の暴挙に、啓介はいきり立ち、拓海は倒れた涼介に駆け寄り、その体に身を寄せた。
「…てめぇ、何すんだ!」
今にも殴りかかろうとする啓介に、
「啓介、寄せ!」
またも涼介が制止した。
「…っ何でだよ、アニキ。こいつら、アニキを殴ったんだぞ?!」
「だからと言って殴り返してどうする?お前までそいつらと同レベルに落ちるつもりか?!」
「…けど」
「涼介さん。大丈夫ですか?…口の中、切れてる…」
啓介を止めながらも、痛む口に顔を歪めながら喋る涼介に、堪えきれず拓海はその殴られた頬と口元に手をやった。
相手が喧嘩慣れしていないせいだろう。あまりひどくはならないようだが、口が衝撃で切れている。
…こんなキレイな顔を殴るなんて…。
ふつふつと、見えにくいが拓海の中に怒りが蓄積されていく。
「フン、いい格好してんじゃねぇよ、ドンガメ。向かってくる勇気が無いだけじゃないのか?」
ニヤニヤと、挑発するように言う男たちに、抑えていた拓海もとうとう我慢が出来なくなった。
すっくと立ち上がり、彼らの眼前に立つ。
「いい加減にしろよ、あんたら。自分がどれだけみっともねぇ事してんのか、分かんないのか?」
…怒るな。怒っちゃいけない。
拓海は自分にそう言い聞かせていた。
本当なら、こんな奴ら、顔面に一発キめて鼻を折ったところに、延髄蹴りをくらわしたい。
けれど涼介が、一番愚弄されていた涼介が、彼らを相手に喧嘩する事の空しさを訴えている。
拓海はそんな涼介の思いを理解し、彼らには穏やかに引き取ってもらおうと、らしくなく穏やかな話し合いのようなものを望んだつもりだった。
だが。
「あれ、何だ、すっげぇ可愛いじゃん。お前、男かよ?」
「あ、本当だ。何だ、女?」
「いや、男だぜ、これで。女みたいな顔してんなぁ」
「スカート履いたほうが似合うんじゃないのか、お嬢ちゃん」
無作法に、男たちの手が拓海に伸びる。
その手に、さすがの涼介も黙っていられず、
「よせ!そいつに触るな!!」
怒鳴った。
「何だ、このお嬢ちゃん、お前のオンナかよ?」
「うぅわ、マジ?ホモかよ?!」
「あー、でもこいつならなぁ。俺も味見したいかも」
ゴクリ、と男たちの咽喉が鳴る。
「ふざけるな!たく……み?」
涼介は見た。
拓海のその華奢な背中から立ち上る憤怒のオーラ。
ゴウゴウと燃え上がるそれに気付かず、男たちが拓海の肩に手で触れようとしたその時。
ゴキ…。
鈍い骨がきしむ音。
それは拓海の手のひらから生まれていた。
彼の手のひらには、拓海に触れようとしていた男の手首がある。
それが今、妙な方向に折れ曲がっていた。
「…う、うわぁ!お、俺の手が!!」
「な、何すんだ!お前!!」
「そ、そうだぞ。こんな事してただで済むと思ってんのか?!」
口々に喚きだす男たち。
しかし。
「ぐちゃぐちゃうるせぇんだよ、このチンカスが!!」
拓海の表情を見た瞬間に、青ざめ、黙り込んだ。
ポキポキ…。ポキポキ…。
拓海が拳を握り締め、指を鳴らす。
「よくもまぁ、好き勝手に言ってくれたよなぁ。お前ら、その覚悟、出来てんのか、コラ!」
そこにいたのはもう彼らが良く知っていた藤原拓海ではなかった。
「…け、啓介、あれは…本当に藤原か?!」
「…た、拓海?いったい、何が…?」
啓介は唇を戦慄かせ、うろたえる兄やメンバーたちにこう言った。
「アニキ…あれはもう藤原じゃねぇ」
「えっ?」
…てっきりデマだと思ってたんだが…あいつの情報は正しかった!!
「あれは…」
「あれは?」
「伝説の…」
「伝説?!」
「渋川の阿修羅だ!!」
――渋川の阿修羅が今…赤城に光臨した…。
2005.11.15
※お断り…現今ポルシェのモデルは水冷エンジンです。あえて涼介のマニアっぷりを出すため、作中のは空冷にしました。ご了承下さい。