自由への疾走

act.2


 俺の心情とは裏腹に、やたらと空は青く澄んでいる。
 なあ、アニキ。
 俺はどうすればいい?
 あんたのいないこの世界で、俺はどうやって生きていた?
 そんな当たり前のことが、今の俺には分からない。


I wish that Icould fly 空をどこまでも
Into the sky so very high 高く飛べたらいいのに
Just like a dragonfly まるでトンボのように

I`d fly avove the trees あらゆる角度から
Over the seas in all degrees 森や海の上を飛んでいく
To anywhere I please どこでも行きたいところを

I want to get away ここから去っていきたいんだ
I want to fly away 飛んでいきたいんだ

FLY AWAY





 朝方まで狂ったように峠で走り込みを続ける俺を止めたのは兄の親友でもある史裕だった。
 兄との最後の電話から、二日経った日の事だった。
 朝焼けも近く、車の姿もまばらな駐車場の隅で、史裕は俺にこう告げた。
「涼介から連絡があった」
「………」
「しばらくDの活動は休止するそうだ」
 彼の口調は変わらない。まるで自分だけが置いてきぼりにされた気持ちで、俺は史裕に眇めた視線を向けた。
「…史裕は…」
「なんだ?」
「…知ってんのかよ」
 何を、とは言わない。史裕も聞かない。…俺は言うのが恐く、史裕には聞くまでもないことだったのだろう。
「ああ」
 平然と答える彼の様子に憤りを感じた。
「…だったら、何でそんな平気そうな顔してんだよ。アニキが心配じゃねぇのかよ?!」
 声を荒げる俺に、史裕は真剣な眼差しを向けた。
「…心配はしていない」
「…っ!」
「逆に、今のこの状態のほうが、あいつにとって良かったんだと思ってる」
「…史裕は、アニキの相手ってのも知ってんのかよ」
「ああ。藤原だろ」
「…何も思わねぇのかよ」
 その質問に史裕は一瞬眉をひそめた。しかし彼はすぐに口元を緩め笑みを浮かべた。
「そりゃ…最初は驚いたけどな。思い出してみたんだ。藤原といるときのあいつは、いつも穏やかな顔をしてた。俺らといる時の涼介は、そりゃ笑うことぐらいはあったさ。けどあんな寛いだ顔はしなかった。
…それに気付いたときに、思ったんだよ。俺たちは、あいつの事を本当に見てたんだろうか、って」
「………」
「いつだって俺たちは無意識にあいつに寄りかかって、頼って、甘えてた。
けどあいつだって苦しい時ぐらいあるだろう?それなのにあいつは俺たちにそんな所を見せなくて…いや、俺たちが見せられないようにしてたんだな。
いつだって一人で何でもこなして、俺たちはあいつが作った道を後ろから付いて歩くだけで。それに疑問すら持たなかったんだ。
それが…俺たちに涼介が頼れなかった理由だって言うなら、間違いなくそれは俺たちの責任だと思うんだ」
「……藤原には頼れたっつーのかよ、アニキは…」
 …ずっと一緒にいた俺じゃなく。
「それは俺は涼介じゃないからな。分からないさ。けど、ずっと前だったんだけどな、藤原、俺に言ったんだ。涼介を見ていると恐い、って」
「恐い?」
「ああ。いつか壊れそうで、見ていると恐いって言ったんだ。
その時の俺は、またおかしな事を言ってるな、ぐらいにしか思えなくて、あいつは意外と丈夫だから平気だよとか答えたんだよな。それを言ったら、藤原は不服そうな顔をしていたっけ。
…今なら分かるよ。藤原は、俺たちには見えなかったあいつの姿を、ちゃんと見ていたんだろうな」
「………」
 分からない。分からないことだらけだ。
 俺が見ていた兄の姿は、偽りだったのか?
 藤原が兄を見ていた。
 兄はどう思っていたんだ?
 何もかもが分からないことだらけで、俺の心を苛立たせた。
 何もかもに腹が立つ。
 こんな感情のままに走っていたって、事故る原因にはなっても、速くなれるわけではないことぐらい分かっている。だが俺のこの感情はどこへ向ければいい?
そう思ったときに脳裏に浮かんだのは藤原の顔。いつだって俺はあいつを見ながら苛立っていた。当たり前みたいな顔をして、俺の先を走ってるあいつの顔を見るたびに。
 その藤原が、今もまた俺の行けない場所にいると言うのなら……。
 頭の中で誰かが叫ぶ。
 動け。
 動いてみろ。
 いつだって俺のスタンスはそうだった。
 兄も言っていただろう?
 頭よりも感覚派の人間だって。
 考えは一瞬でまとまった。
 ――あいつに会って話をする。
 あいつに会ってあいつの顔を見て、俺にどんな答えが出るかは分からない。
 殴るかもしれない。何も変わらないかも知れない。
 だけどこのままでは何も始まらない。
 そして俺と兄とを繋ぐのは、ムカつくことにあいつだけなのだ。
 俺は史裕に無言で背を向けて、FDにキーを回してエンジンを着けた。
「啓介、どこ行くんだ?!」
 慌てた史裕の声に、
「藤原のところ」
 とだけ答えた。
 夜明け前の今なら、まだあいつが配達をする時刻に間に合うはずだ。
「…妙なことを考えるなよ、啓介!」
 背後から怒鳴る史裕の声。それを消し去るように、俺はアクセルを踏み、苛立つ心境のままに車を走らせた。



 秋名の峠であいつを待った。
 しばらくして聞こえてきた、もう聞きなれてしまったハチロクのエキスゾート。
 社会人になってから、配達は父親と交代だと言っていた。今日、あいつがここに来るかどうかは、俺の賭けでもあった。そしてどうやら俺は賭けに勝ったようだった。
 俺の目の前で、見慣れたハチロクが止まる。
 降りてきたのは、同じチームでありライバルでもある藤原の姿だった。
「…啓介さん」
 一瞬、あいつは俺を見て驚いた。しかしすぐにその表情は引き締まったものになり、いつもの眠そうな眼差しではなく、しっかりとした視線で俺を見た。
「…何か用ですか、なんて聞くのは、わざとらしいですよね」
 ふっと、緩めた口元。その笑みは兄の微笑に似ていた。
「俺に、話、あるんでしょう?」
 藤原が俺の前に立った。自分よりも少し低い身長。見下ろすほどではないが、それでも視線は下がる。あいつの目は、真っ直ぐに俺に向けられていた。
「俺も、話あったんです。ちょうど良かった…」
 勢いのままこの場に来たのはいいが、俺はこいつに何をどういえば良いのか、まったく分からなかった。ただ目の前のあいつを見ていただけ。
 するとあいつは、俺の正面に立った途端、拳を振り上げ俺を殴った。
「…何すんだよっ!?」
 俺は喧嘩慣れしている。殴られ慣れてもいるから、殴られた時にダメージが少なくなるように交わす術も知っていた。だが藤原の方は、殴った感じからよく分かるが、殴り慣れていない拳だった。きっと痛むのは藤原の拳の方だろう。
 けれどあいつは、そんな事をおくびにも出さず、
「何すんだはこっちのセリフだよ。あんた、涼介さん苛めただろ?」
 そう言い俺を睨み付けてきた。
 苛めた?何を言ってるんだ、こいつは?
「…は?お前、何言ってんだよ?」
 苛められてるのはこっちの方だ。俺にはそんな思いがあった。
「…あんたの電話の後から涼介さん、すげぇ落ち込んでた。涼介さん、何があったかどんなに言っても教えてくれなかったけど、俺にだってあんたが涼介さんを傷つけたのくらい分かるんだよ!あんた、いったい涼介さんに何したんだよ?!」
 普段はぼやっとした大人しいだけの印象しかなかった少年が、今俺の前では普通にいっぱしの男の顔をして怒りをぶつけてきていた。
「…何って…俺は…」
 兄が落ち込んでる?俺が傷つけた?あの、兄を?
「…嘘だろ?アニキが…」
 俺なんかのことでそんなふうになるわけがない。
 そう俺は、思い込もうとしていた。
「…嘘なワケねえだろ。あんた、自分が何したのかも分かんねぇのかよ」
 しかし、やたらと真っ直ぐな目をしたあいつが、俺の欺瞞をぶち壊した。
 …カッとした。…分かんねぇよ…?分かるワケねぇだろ…?!
 ただでさえ苛立っていたのが、その言葉で俺の中の導火線が焼き切れた。
 俺は藤原の胸倉を掴んだ。俺よりも十センチは低い身長のあいつを掴み上げ引き寄せる。あいつの目は怯まず、俺を睨んだままだ。それがさらに苛立ちを煽った。
「…分かるワケねえだろがっ!こっちはこの前から何があったかなんて何も分かっちゃいねぇよ!何でアニキは家を出て、そんでお前なんかと一緒にいるんだよ!何でお前なんだ?!」
 俺はあいつの胸倉を掴む手に力を込めた。首が絞まるのだろう、藤原は眉根を寄せ、苦しそうな吐息を漏らした。
「お前が元凶なんだろ?!お前のためにアニキは家を出てったんだ!」
 さっき殴られたのと同じ頬に、痛みを感じた。目の前の藤原が殴ったのだ。その衝撃で俺は手を緩め、その隙に藤原は俺の手の中から逃れ、後ずさるように俺との距離を開けた。
 俺は空っぽになった手で自分の顔を隠した。自分が今ひどい顔をしているだろう事は自覚していた。FDにもたれかかりながら俺は手の隙間から身勝手な心を吐き出した。
「…なぁ、藤原。お前、アニキと別れろよ。お前、別にアニキじゃなくてもいいんだろ?アニキだってそうだろ?前はアニキだって普通に女と付き合ってたんだ。お前とのコトだってすぐに忘れて、前みたいに戻るだろ?なぁ…」
 それが真実か、正しいかなんて今の俺にはどうでも良かった。ただ俺は、そうあって欲しかった。何も起こる前の時のように、戻りたかった。
 だが。
「……分かった。…涼介さんが落ち込んでたの…。あんたが、そうだからなんだ…」
 藤原は冷たい声を出した。一昨日の兄と、同じ質感の声だ。
「…顔上げろよ、啓介さん。あんた、みっともねぇし、情けねぇよ」
 苛立った藤原の声。のろのろと手を外し、顔を上げた時に見たあいつの顔には俺への哀れみの色があった。
「…啓介さん。もういいかげん涼介さんを解放してやって下さい。あの人、あんたが思ってるほど完璧な人間でも何でもないんですよ?」
 藤原が何を言いたいのか分からない。
「どっちかって言うと、あの人絶対不器用です」
 そんなわけはない。兄はいつだって何でも完璧にこなしてきた。
「信じてないみたいだけど、そうなんですよ」
 ふっと、あいつの視線が宙を見た。その視線の先には俺はいない。兄がいるのだろう。あいつは兄を思いながら、驚くぐらいにキレイとしか表現できない笑みを見せた。
「涼介さんは不器用ですよ」
 断言し、笑うあいつに俺は返す言葉を持っていなかった。


「啓介さん。涼介さんは神様じゃないんですよ?」





「…殴ったことは謝りません」
 あいつは言った。
 場所を変えませんか?と言ったあいつの言葉に頷いて、着いたのは秋名湖の駐車場だった。
「…ここで涼介さんにDに誘われたんです」
 一瞬、遠い目でそう呟いたあいつは、窺うように俺へと視線を向けるが、すぐに拗ねたように唇を尖らせ視線を湖へと向けた。その子供のような姿に、俺は改めてこいつが自分よりも3つも年下の男なのだったと確認した。
 俺もまた藤原ではなく湖へ視線を向けていた。
 朝焼けに包まれ、初夏の空気を漂わせた青々とした緑に囲まれた湖の景色は、常に夜にしか峠に足を運ばない俺にとっては新鮮であり懐かしいものだった。
 子供の頃にはよく見ていたものだ。学校行事だとか何だかんだで。
 一度、兄と来た事があった。場所はここではなかったが、兄と二人でバスで行ったのだ。俺がまだ小学校二年かそこらの年だったから、兄もまだその時は十歳にも満たない頃だっただろう。
 まだ小さかった子供が二人でそんなところに行った理由は単純だ。
 俺が愚図って泣いたから。
 予定されていた遠足が雨で潰れ、楽しみにしていた俺はひどく泣いて、我がままを言って兄を困らせた。
 兄は最初は泣く俺を諭していたが、どうしても諦めきれない俺に折れたのか、「分かった。じゃあ、今度の日曜に行こう」と俺と二人でバスに乗って遠足の予定地だった場所に向かった。
 結果は、すべて俺が悪いのだが散々なものだった。
 最初は機嫌良く騒いでいた俺も、途中からは疲れたのと眠くなったのと、また目当てであった菓子を食い尽くしてしまったら、途端に不機嫌になってまた駄々をこね始めた。
 そしてあの時の俺は兄にこう言った。
『来るんじゃなかった』
 あの時、兄はどんな顔をしていただろう。俺は覚えていない。自分の感情ばかり優先させて、兄のことなんて何も見ちゃいなかった。
 今はそれが悔やまれる。そして藤原が俺を殴ったのは、こんな馬鹿な俺を兄の代わりに責めているのだと言うのなら、俺には何も言い返す権利はなかった。
「…分かってるよ、そんなことは」
 シャツの胸ポケットから、もう中学の頃からずっと吸っている煙草を取り出し、一本咥え火を付ける。昔はこうしていると大人になったような気分を覚えていたものだが、今はあれが錯覚だった事を俺は知っている。法律的に吸える年齢になった今でも、俺はあの頃のまま成長なんかしていない。
「本当に分かってるんスか?」
 ちらりと奴に視線を向ければ、疑わしそうに俺を見る奴の目。…ムカつく奴だ。
「うるせえな、分かってるっつってんだろ?…何でお前なんかがいいっつーんだ、アニキは?」
 嫌味なつもりだった。だが藤原は、
「…あ、それ俺も思いますよ。涼介さん、趣味悪いなぁって最初思ってましたから」
 自分で言うか、普通。…変な奴だ。
 いや、最初からこいつは変な奴だった。早いくせに全くそんな自覚も無く、そういやGTRとバトルするってんで、俺がわざわざ待ち伏せして助言してやろうと思ったのに、言い合いに終わったのはもう一年ほど前の話か。
「…なぁ」
「なんスか」
「…アニキ、どうしてる?」
「ヘコんでますよ。あんたのせいでしょ?」
 …ムカつく奴だ。俺は絶対こいつとは仲良くなれねぇ。
「あの人、自分はうまく隠してるつもりなんでしょうけどね。バレバレっすよ」
 藤原は兄のことを語るとき、やたらと優しい目になる。それが俺に、兄とのことが本当なのだと思い知らせていて、いたたまれず煙草の口を噛んだ。苦い味が広がる。
「…他の人の前でもそうだけど、あんたの前でも涼介さんいつも完璧な人間を演じてようとしますよね。俺、いつもそれ変だなと思って見てたんですよ」
「…どう言うことだよ」
 藤原が言いたいのは、俺が今までずっと見逃していた兄の姿なのだろうか。
「普通、家族とかって一番気を許せる間柄じゃないですか。それなのに何であんなに気ィ張ってるんだろ?って。
啓介さんの方も、普通ならそういうの真っ先に気が付かなきゃいけない立場なのに、あんた、まるでフィルターかかったみたいに涼介さんを『完璧だ』っていうふうにしか見てないし。
涼介さんが弱ったり失敗してたりするところ、啓介さん想像したことないんじゃないですか?」
 そうだ。兄はいつも完璧だった。それが真実だった。
「…ねえよ。だからそれが何なんだよ…」
 あいつはまた口を尖らせた。だいぶこいつの表情が読めるようになってきた。今のはたぶん俺の答えが気に入らないのだ。
「だから、…あんたもわかんねー人だな、完璧な人間なんていないんスよ。外では完璧装ってても、家の中では普通はだらけてたりするもんじゃないですか。なのにあの人の場合、その家の中でも演技してなきゃいけなかったってことですよ」
「…それは俺のせいだってことか?」
「違いますよ。だから、そこが涼介さんが不器用だって言うんです」
 ワケわかんねー。何で俺はこんなガキに諭されてるんだ?
「…俺は口がうまい方じゃないから…よく説明できないんですけど、涼介さん、昔の俺の母親に似てるんですよ」
「母親ァ?」
 また何言い出すんだ、こいつは。
「俺が中学入ったばかりの頃に死んだんですけど」
「…………」
「すっげぇ我慢強い人だったんです。しんどいのに我慢して、大丈夫だっていっつも言ってて、そのせいで病気見逃して手遅れになっちゃったんです」
 藤原の目に、一瞬翳りが指した。だがすぐにあいつはそれを消し、また湖にぼんやりとした視線を投げた。
「…俺も、啓介さんのこと言えないんですよ。
俺、自分の母親が病気になるだなんて信じられなくて。風邪一つ引いたことのない人だったし、弱ったところだとか苦しそうなところなんて、見たことなかったから。母親がしんどそうにしてても、『大丈夫』って言葉信じてた。
今なら根拠のないものだって分かってるんですけど、俺の中では母親は何て言うか、叩いても壊れない存在って言うか…。
そうですね、絶対に負けないヒーローみたいな存在って言うか、そんな感じだったんです」
 だけど、とあいつは続けた。あいつの視線が俺に向けられる。あいつの目は俺を不安にさせた。俺には見えないものを見ている人間の目だ。
「急に倒れて、入院して、医者からもうあと僅かだなんて言われて、悪い夢見てるみたいで、信じられなかったんですけど、病室で寝てる母親の姿が…小さかったんです。
痩せて、細くなって、昔は俺よりも大きかったのに、いつの間にか俺のほうが身長も伸びてて、手なんか俺の半分くらいだったんですよ。
…別人、見てるみたいでした。…でも間違いなく俺の母親で、そんで、思ったのは…本当はずっと、母親が小さくなっていくの、俺見てたのに、見ないようにしてたんだ、って…そう思ったんです。
…何て言うんだろ?…そうですね…負けないはずのヒーローが、負けるところを見たくなかったんですよね、きっと。
恐かったんです。…俺を、守ってくれる存在がいなくなってしまうのが…」
 藤原は目を伏せ、そしてまた湖へ視線を戻した。
「…涼介さんも一緒なんですよ、啓介さん。あの人も不器用で、我慢強いから、言えないだけで辛いんですよ本当は」
 俺はもう短くなった煙草を足で踏み潰し、口を開いた。声が掠れていたのは煙草の煙を吸ったせいだけじゃない。やけに口の中が乾いていた。
「…疲れた、って言ってた、アニキ…」
「そうですね。でも涼介さん、自分が疲れてるって自覚も無かったですよ、最初」
 藤原は俺が踏み潰した煙草の吸殻を拾い、俺に手渡した。今まで俺にそんな事をする奴はいなかった。唯一兄だけが俺に携帯用の灰皿を渡してくれたが、それを俺はあまり活用することはなかった。兄の行動はいつもそうだ。何も言わず、ただ俺に「間違ってる」ことを示唆するだけ。そんな兄のスタンスは、俺にとっては優しいものだったが、察しの悪い俺には優しすぎて自分の為にはならなかった。
 俺は無言で受け取った吸殻を、兄から貰った灰皿に入れた。兄が望んだ使い方通りに。
「…D始めたばかりの頃に、俺、たまたま涼介さんが寝てるところに出くわしたんですよ。バンの中で寝てたんですけど、あの人、こう、眉間にしわ寄せながら寝てたんです」
 藤原は指で眉間を擦りながら俺を見た。
「…Dに参加するようになってから涼介さんのこと見てましたけど、あの人、いつ見ても大変そうなんですよね。大変そうなのに、いつも平気な顔しててみんなに指示とかしてて。
みんなもそんな涼介さんを頼りきってたから下手に弱った顔とかも出来ないんだろうな、って思ってましたけど、でも、寝てても大変そうな顔のあの人見てたら、この人はいったいいつ休んでるんだろう?って…。何か悲しくなったんです」
 そして藤原は笑った。俺が苦手なあのキレイな笑みを見せて。
「だからつい、俺、涼介さんの眉間のしわ、伸ばしたんですよね。少しは楽になるかな、とか思って。
そしたら涼介さん起きちゃって。
俺も無意識でやってたから驚いて、真っ赤になって焦って、どう説明したらいいのか分かんなくって、思わず『しわ寄ってたから伸ばしてました!』って言っちゃって。
…涼介さん笑ってました」
 そりゃ笑う。予想外な言葉すぎるからな。
 そして俺は今思い出した。兄は、昔から全開で笑うことが滅多にない。俺の記憶の中でも何度かあるかないかだ。そしてつい最近の中での兄の笑いの中には、常にこの藤原の存在があった。
「…その時は、またしわが寄らないように俺に見張っててくれって、そう言ってまた涼介さん寝たんですけど、そん時、ついつい俺、涼介さんに膝枕しますから、とか言っちゃって、結局やっちゃったんですけど、そうしたら、しわ、寄らなかったんですよ」
 惚気か?俺の頭の中でバンの中で藤原の膝枕で寝る兄の姿が思い浮かんだ。苦い気持ちになったが、俺の中の最初のときほどの拒絶と嫌悪感は無くなっていた。
「それから涼介さん、疲れた時とか俺の所に寝に来るようになったんです。熟睡できるからって」
 覚えがある。兄が外泊することはよくあった。大学に泊り込みとかもよくあったらしいが、そうでないときもあったのは帰宅した兄の様子で伺えた。その時の兄には、疲れたときに見せるピリピリしたものが無く、いつも穏やかな空気をまとっていた。女の所にでも泊まったにしては、空気が穏やか過ぎるとは思っていた。だけど俺はそれをさして疑問に思うことはなかった。…俺に見えていたモノってのは、結局そういうことだったんだろう。
「最初は…そんな感じだったんです。
それが変わり始めたのは、正直俺もわかんないですけど、俺、母親のこととかあって、あまり人と深く関わるのとか苦手だったんですよ。
なんか、トラウマになってるみたいで、いつかどっかいなくなるんじゃないかとか思ったら、恐くって。
でも涼介さんのときは違ったんですよ。
俺で出来ることあったら、どうにかしてやりたいって、そう思って、そんで、俺、まだガキで、何も出来ないですけど、涼介さんのこと、守りたいって、そう思ったんです」
 まただ。ガキのくせして何て顔で笑いやがる。俺は藤原から目をそらした。見ていたくないのではなく、本能的に、このままずっと見ていたらヤバいことになりそうで恐かった。
「俺がそう言ったら、涼介さん泣いたんです。俺、嬉しかった……」
 俺は兄が泣いた姿なんて知らない。だけど藤原は知っている。いや、違うな。藤原が兄を泣かせたんだ。
「でも涼介さん、またすぐに嘘吐きの涼介さんに戻っちまって、俺のこと汚すだの、自分に付き合わせて道を踏み外すことはないだの、ぐちゃぐちゃ言い出して」
 言うだろうな、兄なら。いつだって俺の前でも親の前でも、良い兄を、良い息子であり続けた兄だ。そんな兄が今さら俺みたいな馬鹿をやれるはずも無い。そうだ。兄がした事は、馬鹿な事だ。けれど兄はそれをした。それは…全て…。
「あんまり腹立ったんで、俺、自分から涼介さん押し倒しちゃったんですよ。すっげぇ驚いてました、涼介さん」
 そりゃそうだ。今俺も驚いてるよ。俺は浮かんだ笑いを殺すことが出来なかった。
「…わがままになって下さい、って言ったんです。俺は涼介さんが幸せだったら嬉しいんだから、涼介さんは自分が幸せになることを考えて下さい、って」
 幸せ?俺は兄の幸せなんて考えたことがたっただろうか?
「だからたぶん今の涼介さんってのが、啓介さんたちには不満に思えるのかも知れないですけど、俺はそれで涼介さんが楽になれるんだったら、あんたらが何て言おうと涼介さん守りますよ。
啓介さん俺にさっき別れろって言ったけど、俺にそれさせられるのは涼介さんだけです。
俺と別れて、涼介さんが幸せになれるんだったら、俺いくらだって我慢しますよ。
けど、俺が知る涼介さんは、あんたらの前だと幸せじゃないでしょう?
俺、そう言うの恐いですよ。母親みたいに、またいつ『大丈夫』じゃなくなるのかと思ったら…だから」
 真っ直ぐなあいつの目。俺はこいつの目が苦手だった。いっぱしに大人になったつもりで、狡さばかりを覚えた俺と違って、子供のままの、それでいて強い意志を持った揺ぎ無い視線だからだ。
 俺は目の前のこの3つ下の子供に畏怖を覚えているんだ。
「俺はあんたらの幸せよりも、涼介さんの幸せを選びますから」
 ムカつく奴だ。本当にムカつく。
 俺には何も言えない。アニキ。あんたの見る目は正しいよ。俺もアニキも似たモン同士だ。ひねくれて育っちまって、ごまかすことばかり上手くなってる大人の振りした弱いガキだ。だから、ガキのくせして真っ直ぐで、やたらと強いこいつに惹かれちまうんだろうな。
 俺はバリバリと頭をかきむしった。
「…俺だってアニキには幸せになって欲しいよ…お前といることで、アニキが幸せだってんなら、俺はお前ら応援するけどな、…とりあえず藤原」
「何ですか?」
「俺にアニキに謝らせろ。その場を作ってくれ」
 頼む、と頭を下げた。今さらどの面下げてと詰られそうだったが、俺たちはそうしないと変われないのだという気がした。兄と藤原のことを納得させるのは、それからでいいだろうと思った。今の俺は混乱している。今こいつから与えられた情報と、記憶の中の兄との差異にまだ戸惑っているんだ。
 フン、と藤原は鼻で笑った。
「最初っからそのつもりですよ」
 やっぱりムカつく奴だ。
 そして藤原は意外なことを口にした。
「…やっぱりさっき殴ったの、謝っときます。すいません」
「…んだよ、急に」
「さっきは涼介さんのために怒ったみたいなこと言いましたけど、本当はあれ、八つ当たりです」
「は?」
「…だって、俺は涼介さんの一番の味方でいたつもりだったけど、あの人にとって一番影響力があるのは、結局まだ啓介さんなんですよ」
「どう言う事だよ?」
 藤原は口を尖らせて、俺を睨んだ。たぶんこれは拗ねてる顔だ。
「…涼介さんがあれだけ落ち込んでたのって、絶対、啓介さんが自分の味方をしてくれるって信じてたのに、そうじゃなかったからですよ」
「………」
「だから八つ当たりです。涼介さんの中で俺が一番じゃないのが悔しかったんです、たぶん…」
 たぶん、かよ?!
「あの人、何だかんだ言って、啓介さんのことすげぇ信頼してたんですよね。涼介さんの中で家族の枠組みに入ってるのって、啓介さんだけなんですよ、きっと」
 家族。
 たしかに、あの寂しい家で、いつも一緒にいてくれたのは兄だけだった。そして…それは兄にとっても同じだった?
「正直ムカつきますけど、別にいいっすよ。五十年後には俺がたぶん一番になってますから」
 五十年。そんな先まで見ているのか?
 本気なんだ、こいつら。
 兄も、たぶん…。黙っていれば波風なんて立たなかった家に、荒波起こしてもあいつとの事を認めて欲しいと行動するくらいに。それで、家の中が壊れようと、家に戻れなくなっても、それでも兄はあいつと一緒にいたいと思ったんだ。そして、俺たちにそれを知って欲しいと思った。嘘をつきたくなかったんだ。それなのに、俺は兄に何を言った?俺は兄を傷つけた。兄のことを何も見ようとしなかった。見せかけだけの大人だったガキのままの俺じゃいられない。俺もまた兄のように、動かねばならなければならないのかも知れない。
「五十年ね、その間に別れなきゃいいけどな」
 こんな嫌味は許せよ。俺はお前にムカついてるんだから。俺は兄にとって家族かも知れないが、もう兄にとっての一番は、とっくにお前のもんなんだよ。
「…物事ってのは楽観すぎるぐらいがいいんですよ。不幸ばかりみてたら、本当に不幸になるんですから!」
「…お前、それ誰かの言葉だろ?」
「…肉屋のおばちゃん…」
 誰だよ、それ?


Let's go and see the stars 星を見に行こう
The Milky Way or even Mars 天の川 そして火星を
Where it could just be ours どれも僕たちのものになるのさ

Let`s fade into the sun 太陽の中に消えていこう
Let your spirit fly ひとつになれる場所まで
Where we are one 魂を飛び立たせるんだ
Just for a little fun ちょっとしたお楽しみのために




 俺は変われるかな?
 変われればいいと思う。
 こいつらみたいに誰かを守りたいなんて、そう思えるくらいに、強くなれたらいいと思う。
 いや、願う。
 俺は、今初めて大人になりたいと願うよ。



Iwant to get away ここから去っていきたいんだ
I want to fly away 飛んでいきたいんだ

Fly Away どこか遠くまで



Lenny Kravitz「Fly Away」 2005年7月27日

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