自由への疾走

act.1


「涼介さんは不器用ですよ」
 そう言って笑うあいつに、俺は返す言葉を持っていなかった。

「啓介さん。涼介さんは神様じゃないんですよ?」


You think you`re on top of the world  大物を気取っているが  
But you know it`s really over  実のところはもう用なしさ  
Runnin`round with diamond rings  ダイヤの指輪をギラつかせて  
And coke spoons that are overflowin`  コカイン食らってやりたい放題  
Rock and Roll is dead  ロックンロールは息絶えた  

But all the money in the world  世界中の金を積んでも  
Can`t buy you from the place you`re going to  堕ちてゆくあんたを救えはしない 

Rock and Roll is dead
ロックンロールは死んだ








 晴天の霹靂。
 俺にとってもそうだが、うちの両親にとっては正にその表現が正しいだろう。
 反抗一つしたことのない自慢の息子。頭も良く、人柄も真面目で、どこを取っても問題児だった弟のこの俺とは正反対の兄が、彼らの前で初めての反抗をした。
 いつものように夜遅くに帰宅した俺の耳に飛び込んできたのは、聞きなれない父の怒声と母の泣き声だった。
 そもそもが病院を経営するうちの両親が揃って家にいることも珍しければ、今のように声を荒げるような事態など、高校時代よく警察に補導されていた俺と違い常に優等生然とした兄には無縁のことだった。
 居間と廊下を隔てる半透明のガラスの扉越しに伝わる緊迫した雰囲気。異常な事態に、俺は自室へと向きかけていた足を止めた。
「涼介!考え直せ、そんな一時の気の迷いで、一生を棒に振る気か?!」
 切羽詰ったような父の声。それに被さるように聞こえてきたのは母の泣き喚く声だ。
「そうよ!涼介がそんなふうになるなんて信じられないわ!…そうだわ、病院に行きましょう?精神科で見てもらえばきっと…」
 父もそうだが、母も普段は冷静な人だ。父は医者だし、母もまた経営に携わる理事の一人であるため、常に凛として高圧的な雰囲気を壊さない人たちだ。そんな彼らが常の冷静さをかなぐり捨て、兄に向かい、嘆きそして喚く。そんな中、兄だけが冷静な声のままだった。
「…いい加減にして下さい。何をどう言われようと僕は変われません。もう、僕は貴方がたの為に生きれません。もし貴方がたが今の僕を認めたくないとおっしゃるのなら、どうぞ貴方がたの中の僕を殺してくださって結構です。それに…母さん。同性愛と言うのは病気ではありませんよ?いくら精神科に通おうと治療は不可能です。諦めてください」
 兄が立ち上がった気配がした。
「…ど、何処へ行くんだ、涼介?」
 父のうろたえた声。生まれて初めて聞く声だ。俺がどんなに悪さをしようとも、侮蔑の表情を向けられた事はあっても、冷静なままだった父がうろたえている。
「しばらく家を出ます。今の貴方たちに何を言っても聞く耳を持たないでしょうから。もう少し冷静になった頃に再度話し合いを設けますので、その時点でも僕を受け入れられないようでしたら、すっぱりこの家と僕との縁を切って頂いて結構です。それでは」
「…そ、そんな、許さないわ!駄目よ、そんな事!!貴方はこの家の長男なのよ?!」
 母の声が震えている。兄に掴み寄り立ち去ろうとする兄を留めているのだろう、時折母の声は布に遮られたように小さくなったり大きくなったりを繰り返した。
「ええ。長男ですよ。だからそれが何ですか?何も僕は貴方がたが僕に望んだ責任を放棄しようと言うわけではんないんですよ。ただ、僕は貴方がたに僕と言う人間の個性を認めて欲しいだけなんです。それだけの話ですよ、お母さん」
「…け、結婚しない、子供も作らない、男の恋人と一緒にいる…それのどこが責任を放棄していないと言うんだ?!お前がした事は、私たちの期待を裏切ることになるんだぞ!」
 俺は頭の中が冷えていくのを感じた。
 俺は今何を聞いた?
 兄が…『結婚しない』『子供を作らない』、『男の恋人と一緒にいる』………?
「期待してくれと望んだ覚えはありません。それを裏切ったと言うなら、貴方がたの見込み違いだったんでしょう。僕にはそれについて責められる覚えはありませんね」
「…涼介!」
「だから!冷静でない今の状態で何を話し合っても無駄でしょう?いらない労力を使わせないで下さい。それは常に貴方がたが僕たちに言っていたことでしょう?貴方がたは僕や啓介に、常に『手間をかけさせるな』だの『面倒は起こすな』だの言っていたでしょう?貴方がたが僕たちにそう教えた事なんですから、僕たちにどうぞその見本を見せてくださいよ」
「…りょ、涼介、あなた…」
「もう宜しいですか?ではもう荷造りも済んでありますので」
 父はもう兄を止めることはなかった。母のすすり泣く声が聞こえる。
 呆然とする俺の前に、扉の向こうから兄が現れた。
 兄の身体越しに見る扉の向こうの景色には、常に高圧的だった俺の両親が、髪を乱し、老人のように項垂れる姿だった。
 兄は立ち尽くす俺に、動揺もなく、いつもの「フッ」と人の悪い笑みを浮かべ言った。
「…状況はお前が聞いた通りだ、啓介。俺はしばらく家を出るから、何か用事があったら電話してくれ」
 俺は気付かなかったが、廊下の脇に大きなスポーツバッグが置かれていた。兄はそれを取り、振り返りもせず先程俺が入ってきたばかりの玄関へと向かう。
「…ちょ、ちょっと待てよ、アニキ?!」
 何がなんだか分からない。
 これは本当に現実の事なのか?
「何だ、啓介?用件は手短にしてくれよ。俺の計算よりも、思ったより手間取ったからな。あまり遅い時間に訪問するのは避けたいんだ」
「わ、ワケわかんねぇよ、アニキ。…なぁ、これってマジなのかよ?嘘じゃねぇんだよな?!」
 兄は、うろたえる俺に構わず口元だけで「フッ」と笑った。
「ああ、マジだし、嘘でもねえよ。全部本当のことだ」
 俺は、泣きそうな顔になっていたと思う。
 目の前の兄は、確かに兄なのに、俺はそれを認めたくなかった。
「…たまにはお前も苦労しろ。お前には悪いと思っているがな、俺もいいかげん疲れたよ」
 苦笑する兄の姿に、俺は兄を掴む手に力を込めた。
「……誰だよ…」
「何が?」
「恋人って、言ってた…男の…誰なんだよ、そいつ…」
「………。知ってどうするんだ?」
 まるで子供に諭すような兄の声。いつだってこの兄はそうだった。俺をガキ扱いして、ちっとも対等に扱ってくれようとしない。今だってそうだ。何でそんな大事なことを、俺に言わないんだ?言えなかったにしても、そんな素振りも見せなかったくせに、何でいきなりこんな事になってんだよ?!
「…知らねえよ!わかんねぇけど、でも知りたいんだ!」
 兄の胸倉を掴んで引き寄せる。前までは俺の方が身長が兄より僅かに低かった。今の目線は同じだ。見ろよ、俺だって成長してるんだ。兄もそれに気付いたのだろう。少し驚いたような顔になった兄は、続いて「ふっ」と柔らかな微笑を漏らした。
「啓介」
「…なんだよ…」
「藤原だ」
「……え?」
 兄の眼を見た。
 真剣な眼差し。いまだかつて俺はこんな兄の眼を見たことがない。
「藤原だ、俺の相手は」
 驚愕に固まる俺の手をそっと解き、兄は俺に背を向けた。
「じゃあな、啓介。腹出して寝るなよ」
 そして玄関の扉を閉め、姿を消した。
 続いて聞こえる、兄のロータリー音。
 俺の手は震えていた。
「…なんだよ…」
 フジワラ?
「何なんだよ?!」
 ぎゅっと拳を握り締める。
「なんだっつーんだよ、もう…」
 苛立ち紛れに壁を殴っても、痛くなるのは俺の拳だけで何の解決にもならない。こういった方法で苛立ちが紛れないのは、高校時代の馬鹿で嫌ってほど思い知らされた。兄に教えられた解消法は…車。
 でもそれを教え、諭してくれた兄はいない。
 出て行った。
 そして残された言葉は…フジワラ…。
 今年の春から、同じチームで活動するライバル兼仲間でもある少年。
「…ワケわかんねぇよ、もう……」
 いつもなら「そんな事も分からないのか、啓介?」と馬鹿にしながらも教えてくれる兄ももういない。
 俺は廊下にへたり込み、混乱する頭を抱え、一人孤独感と戦った。
 涙は出ない。ただひたすらこれを現実だと認識したくない、ガキのままの俺がいるだけだった。

 やけに寒々しい廊下に座り込み、俺は昔を思い出す。
 唯一の味方だった兄のいないこの家は、俺にとっては牢獄と一緒だった。
 小さい頃から放任主義と言えば聞こえはいいが、体のいいネグレクトの対象だった俺たちは、いつも一人で何もかもをこなすしかなかった。食事を食べるのもそうだし、風呂に入るのも着替えもそうだ。小学校に入ったばかりの俺の教科書や靴に、名前書きをしてくれたのも兄だ。俺にはまだ兄の存在がいたから楽だったが、兄はたった一人で本当は大変だったのだろうと思う。けれど俺は兄が困っていたり弱っていたりする姿を見たことが無かった。
 そんな兄に甘え、我がままを言った事もよくあったが、いつも兄は怒らず俺の世話をしてくれた。
 小さい頃は良かった。そんな兄を純粋に慕えていたから。
 けれど物心が付いて、少しばかり他の奴等の声が聞こえて理解できてくるようになると、俺は兄の存在が目障りになった。
 どいつもこいつも、口を揃えたように俺にこう言ったからだ。
『あの涼介君の弟の…』
『涼介君は出来たのにね』
『涼介君を見習いなさい』
 子供は鈍感そうに見えて敏感だ。俺にだって俺は俺だと言う自我くらいあった。すべてに於いて兄を引き合いに出され、そして何に於いても兄のようになれない俺は、その現実と理想のギャップを自分の中で消化しきれず、最悪な事に兄に八つ当たりをすると言う行為で苛立ちを止めようとした。
『誰が何と言おうと啓介は啓介だろ?』
 そう言っていつだって俺の味方でいた兄を、俺は憎しみの対象にさえ見た。
 そんな俺に兄は何も言わなかった。ただ黙って、少し悲しそうに俺を見るだけだ。
 兄に苛立ちをぶつけても、納まるどころか余計に増した俺は、今度は苛立ちの現況である兄を避け始めた。中学に入る時も、兄は私立の進学校だったのに俺は地元の公立校。そこで喧嘩や煙草、果ては女までを学び、その状態のまま高校に入り単車と言う玩具を手に入れた。
 同じような苛立ちを抱えた仲間と集まって、ひたすら騒いでめちゃくちゃに走って、たまに殴り合いの喧嘩もする。
 その結果は、補導されることも警察に捕まることもあったり、色々だった。
 もちろんそんな結果を残す息子を、うちの親が可愛いなんぞと思うはずもなく、怒声ばかりの俺と親との関係を、いつも取り持ってくれていたのは兄だった。
 そして俺が十八の時。
 何回目かの警察の世話になったとき、身元引受人に現れたのは、怒りを含んだ父の顔ではなく、嘆いた母の顔でもなく、昔のままにじっと俺を見つめる兄の顔だった。
『弟がお世話をかけてすみません』
 警察に頭を下げ、冷静沈着に対応し、手続きを済ませた兄は、呆然とする俺に楽しそうに笑いかけこう言った。
『やっと二十歳になったからな。漸くお前の身元引受人も出来るようになったんだ』
 そしてそのまま連れていかれた峠で、兄は俺にダウンヒルを見せた。
 単車ではあり得ないスピードで走る車と、間近に迫るガードレール。そんな危機的状況にあると言うのに、兄の顔は今まで見たことがないくらい楽しそうで。どんなに単車で飛ばしても、どんなに喧嘩に明け暮れても、何も響くものがなかった俺の心に、兄の走りは恐れと脅威を植えつけた。恐かった。けれど兄の動きには迷いが無く、兄の思う通りに車はあり得ない動きとスピードで曲がっていく。俺はこのまま死ぬのかとさえ思った。けれど、兄は言った。
『死なねえよ』
 見つめる俺に、兄は笑った。
『信じろ、俺を』
ギリギリのスリルの中で、俺はハンドルを握る兄の姿を黙視し続けた。
やがて車は峠を下りきり、兄は路肩に車を止めた。
『…好きなんだよ、走るのが』
 おもちゃを自慢する子供のような顔で兄は俺に向かい笑った。
『お前も走るか、啓介?』
 俺は頷いた。そして泣いた。
 俺はなんて馬鹿なんだろう?
 昔、兄が『誰が何と言おうと啓介は啓介だろ?』と俺に言った通りに、兄は兄のままだったのに。
 俺はちっぽけな自分に嫌気をがさして、自分から目を背けて馬鹿ばかりをやっていた。
 いつだって兄は見ていたのに。
 俺が、俺だって事を。
 その日の夜を境に、俺は単車を降り、車の免許を取った。それから兄に、
『大学入りてーから勉強教えて?』
 と頼んだ。
 兄は笑って、
『お前、遅すぎるんだよ』
 と俺の頭を殴った。
 時間が戻ったような気がした。
 いや、最初から何も変わっていなかった。俺だけが勝手に拗ねて、馬鹿やってただけの事だった。
 そして俺は、遅すぎる受験勉強にも関わらず、鬼のように厳しい兄のスパルタのおかげで無事奇跡と言われた合格を果たし、大学生と言う身分を手に入れた。
 そして兄と一緒に峠に通い、車に傾倒し、今では自分の夢にも成り果てた。
 今の俺があるのはすべて兄のおかげだ。
 俺が、あのクソッタレな家から逃げ出さなかったのは、全部兄がいて、いつも俺を庇っていてくれたから。
 …ああ。今気が付いた。
 この家の家族を一つに繋げていたのは…兄だったのだと言う事。
 父にとっても母にとっても、もちろん俺にとっても、兄がお互いを繋いでくれていたからバラバラにならずにいたのだ。
 今はその兄がいない。
 いったい兄に何があった?何でこうなった?
 さっき聞いた兄の親との会話、そして兄が言った、「疲れた」という言葉。
 そして、「フジワラ」…。
 俺はそれらの言葉を、一つに消化できなくて、ただひたすらぐるぐると回る言葉の渦の中に沈んでいた。


 翌日。
 夕方に兄から電話があった。
「啓介?今、藤原の家にいるから」
「は?」
 電話の向こうから、かすかに聞こえるテレビの音と、藤原の父親だろう年配の男の喋り声。紛れて聞こえるチームメイトである奴の「涼介さん電話してんだろ?うるせーんだよ、親父」と言う声。
 俺は無性に腹が立った。
 うちはバラバラなのに、兄は平気な顔で俺にこうやって楽しそうな背景を連れて電話してきやがる。
 怒りのままに俺は声を荒げた。
「…何やってんだよ、アニキ!ふざけんな!何が藤原の家にいるだよ、勝手してんじゃねーよ!」
 電話の向こうで、兄は黙り込んだ。そして場所を移動したのだろう。電話の向こうからはもう、藤原の家の気配は伝わらなかった。
「…勝手、ね…お前にだけは言われたくない言葉だな…」
 冷たい言葉だった。だが俺は怒っていた。兄の変化に気付かなかった。
「何言ってんだよ。今はそう言うこと言ってんじゃねーだろ?今まで何の問題もなくやって来てたのに、何で今さら泡立てるようなこと言うんだよ?反抗するのは俺の役目で、アニキはそうじゃねえだろうが。何やってんだよ?!」
 俺は…気付かなかったんだ…。
「…役目?そうじゃない?……啓介」
「何だよ?」
「……お前に…俺の何が分かる?」
「は?」
「お前に俺の何が分かるって言うんだ!」
「……あ、にき…?」
「いつだって好き勝手騒いで、やりたい事をやってきたお前に、俺が何を我慢して何を諦めてきたのか、分かるって言うのか?!」
「………」
「何も知らねぇくせに、お前こそ勝手なことを言うんじゃねえよ!」
 兄が激昂する声を聞いたのは、これが初めての事だった。
 俺は何も言うことが出来なかった。
「もう電話はしない。お前もするな」
 それだけ言って切れた電話。俺は携帯を握り締め、ただ呆然とするしか出来なかった。
 俺は馬鹿だ。
 いつだって馬鹿だ。
 あんなに言われても学習しないから馬鹿なんだ。
 兄に何度も言われた言葉だ。
 兄は俺に馬鹿と言いながら、それでもいつでも声は暖かかった。
 だけど今兄は………。
 兄は俺に幻滅した。
 冷たい声だった。
 それをさせたのは俺だ。
 本当に、兄の言うことはいつだって正しい。
 俺は……。


But it`s real hard to be yourself  本当の自分でいるのは結構ホネだ
When you`re living with those demons  頭ん中に巣食う悪魔どもと折り合いをつけて
in your head   生きなきゃならない

Rock and Roll is dead>
ロックンロールは死んだ




…兄のことを何も知らない。


LENNY KRAVITZ 「Rock and Roll is dead」 2005年7月10日


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