Darling 番外編

恋は盲目


「いってぇぇ!」
 夏の厳しい暑さが過ぎ、季節は一気に秋へと向かいだしている。
 九月に入った途端に、うだるようだった夜の蒸し暑さは和らぎ、肌に過ごしやすい涼しい風を送っていた。
 そんな過ぎ去った夏の名残を一身に残すような男が、夜の峠で叫び声を上げる。
「いてぇって、史裕。ソコ触んなよ」
 史裕は、叫び声を上げた啓介のタンクトップから覗く肩を見つめる。
 そこは真っ黒に染まり、そしてところどころ皮がめくれているようだった。
「…ああ、もしかしてこの前の海の日焼けか?」
 この前。
 親睦会を兼ねプロジェクトDのメンバーで海に行った事があった。
 その時に最初から一番はしゃいでいたのは目の前のこの男で、そして夜に慣れた体には夏の真昼の暑さは眩し過ぎ、どんどん一人また一人と体力の限界で脱落していく中、最後まで海に浸かっていたのもこの男だった。
 そしてその結果が、これと言うわけか。
 史裕は苦笑した。
「馬鹿だな。日焼け止めを塗ってなかったのか?」
「…塗ってたよ。でもこうなったんだよ」
 一番日焼けの酷い肩におそるおそる触れ、そして痛かったのだろう。眉をしかめて慌てて指を離す。
「お前、毎年海には行ってるだろう?いつもこうなのか?」
 不機嫌そうな啓介に、史裕はヤンチャな弟を見守る気分でそう問いかける。彼の本当の兄のように…とまではいかないが、ずっと啓介を彼の兄と一緒に見守ってきた史裕だ。つい面倒を見たり気にかけてしまうのはもう習性のようになっている。
 すると啓介は、いつもならすかさず史裕に言い返すというのに、何故か今回は口ごもった。
 言いにくそうにゴニョゴニョと言葉を濁し、あらぬ方向を見つめている。
「啓介?」
 不審に思い、史裕がその顔を覗き込むと、その視線に気付いた啓介がハッとしたように何度か瞬きを繰り返す。
「…あー…や、いつもは、その…アニキが日焼けした後なんか、冷やしとけってローションとかくれてたからさ、今年はその…それがなかったから…」
 啓介にしては珍しく言葉を濁した言い方をする。
 けれど元来、史裕は性根が真っ直ぐに生まれついている。邪推はせずに、その口ごもる理由を、彼の兄である涼介に今年は放っておかれたせいで拗ねているのだろうと考えた。
「ああ、そういや、涼介はすぐに帰ったんだったな。確か…藤原が気分が悪くなったとかで」
 だから史裕が「藤原」の名を口にした途端、啓介がビクリと震えたのも見なかった。
「緒美ちゃんはちゃんと来てたのに、肝心の藤原が一緒にいれなくて残念だったよな。
 そういや、啓介。お前、緒美ちゃんと喧嘩してたみたいだが、仲直りはしたのか?」
 史裕はあの時の光景を思い出す。
 拓海と緒美の二人を迎えに行ったはずの啓介と涼介は、けれど戻ってきた時には緒美と啓介の二人だけだった。
『拓海ちゃんは気分が悪くなったから涼兄と帰るって』
 ニッコリ、笑顔なのにどこか背中におどろおどろしい空気を纏わせる緒美。そしてその背後で、呆然としたように項垂れる啓介。
 不思議な二人の光景に、史裕は普段の二人を知っているだけに、「どうせまた啓介が緒美ちゃんを怒らせたんだろう」と予想した。そしてその予想は概ね合っている…。
「…喧嘩?…あー…、まぁ、その…」
 今度は頬を染め、口ごもる。
 今日は変な日だ。啓介が啓介らしくない。
「啓介?」
 そしてパッと自分を見つめるその顔は、さっきまでの気だるげな感じは払拭され、初恋に照れる少年のように瞳を輝かせ、頬はうっすら赤らんでいた。
「…誰にも言うなよ」
 誰に言うと思っているのだろう?分からないながらも史裕は頷いた。
「実は、さ…俺、緒美と付き合ってんだ」
 は……??
 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
 けれどじわじわと、言葉が史裕の脳内に侵食し、そしてその意味をしっかりと理解する。
「…え?だ、だって、緒美ちゃんは藤原と付き合ってるんじゃ…」
 いや、その前に、お前、緒美ちゃんのこと、好きだったのか?
「あー…ソレ、誤解。あいつら友達なんだよ。俺も最初そう思ってたんだけど、今は絶対それが有り得ねぇって知ってるし」
 やけに自信満々に胸を張る啓介に、どこからそんな自信が来るのだろうかと史裕は首をかしげる。
 男女にも友情は存在するが、あの緒美の態度は明らかに拓海に好意を抱いているようだった。そして普通の男ならば、あんな美少女に好かれて、好意を持たないはずがないと思うのだが。
「ヤ、でもさぁ、俺らまだ喧嘩友達っつー感じでさ。そんな甘ったるい雰囲気とかにはないんだけど、その…俺もちゃんと告って、あいつもらしくなく真っ赤になって照れてくれちゃったからさ、俺のこと好きだっつーのは分かってんだけどさァ…」
 けれど始まった啓介のノロケに、ほんのり「恋は盲目」と言う言葉を思い出す。
 どんな経緯でこんな事になったのかは知らないが、とりあえず幸せそうなので由としよう。
 そして照れながら緒美とのこと、そしてこれからの付き合い方を相談し始めた啓介に、史裕は苦笑しながらもアドバイスを返す。と言っても、恋愛経験は明らかに啓介の方が多そうなのだが。けれど人生経験は史裕の方が有利だ。真剣な恋の前には、今までのハシカのような恋とはやはり違うのだろう。
「本当に相手が好きなら、ちゃんと相手のペースに合わせてやれよ。お前の方が年上なんだから、あまり振り回したり、不安にさせたりするんじゃないぞ」
 と、月並みな言葉ではあるが、自分なりの精一杯の言葉を返した。それに神妙に頷く啓介の姿は、今までのどんな啓介よりも好感持てた。
 若い二人の始まったばかりの恋。
 それを何だか年寄りくさく応援したくなる。
 つい微笑ましく見つめていたところ、ふと声をかけられ我に返る。
「史裕さん、涼介さん知りませんか?」
 声をかけた相手はFDのメカニック。彼もまた海に参加した一人だ。海にいるというのにメガネを手放さず、そのメガネを取った顔に、クッキリとメガネ型の日焼けが残っているのを思い出す。
 それを思い出し、史裕はクスとしのび笑う。
「ああ、さっき藤原に今度のハチロクのセッティングを説明するって言ってたけど…。どこかそこらへんにいるんじゃないか?」
「困ったなぁ。FDなんですけど、この前セッティングを変更するようなこと言ってたと思うんですけど、指図書には変更前のしか書いてないんですよ。本当にこれでいいのか、知りたくって…」
 弱りきった顔のメガネに、史裕はチーム内の纏め役の顔で頷いた。
「分かった。じゃ、涼介に聞いてくるよ。とりあえず今のセッティングで啓介、走ってみてくれよ。それで別に違和感が無いならいいが、何かあったら報告してくれ」
「分かりました」
 メガネが頷いたのを確認し、史裕は踵を返そうとした瞬間、さっきまでの頬を赤らめた顔とは裏腹の、ほんのり青ざめた啓介の顔がそこにあった。
「…あー…史裕」
「啓介、何だ?」
「その…別に、アニキたち探さないでも…後とかでいいんじゃねぇ?」
「そうもいかないだろう。こういう事は早めに対処しないとな」
「で、でも、さぁ」
「変な奴だな。とりあえず聞いてくるから、お前は走りに集中しろよ。まぁ、浮かれる気持ちも分かるけどな」
 暗に、緒美との仲を揶揄すると啓介の顔がまた赤く染まった。それに微笑みながら、背中を見せる。
「あ、史裕っ!」
 追い縋るような啓介の声にも振り返らず、ただ「ハイハイ」とばかりに軽く手を振り、史裕は歩き出した。



 涼介を探し、暗闇に近付いた史裕の耳に、ボソボソと話し声が聞こえる。
 その独特の声の響きに、親友のそれを悟り、史裕はその音源に近付いた。
「日焼け?拓海は海に入らなかっただろう?」
「入らなかったんじゃなくて、入れなかったんです!」
 親友の楽しげな声と、それに呼応するいつも大人しげな少年の憤慨した強い声。
 …ずいぶん涼介は藤原と仲良くなったんだな。
 僅かな会話の中にも、二人の親密さが見えて、どこか線を引いた拓海が、涼介には心を開いたのかと史裕は喜ばしく思った。…この時は、まだ。
「怒ってる?」
「…怒って、ません、けど…」
 それにしても、涼介のこんな楽しそうな声は初めて聞く。可愛がっている従妹の緒美にでさえ、こんな砕けた感じで話すことはないのではないだろうか?
「良かった。拓海に嫌われたら俺は泣くからね」
「…嘘ばっかり」
 …チュ?
 今、妙な音が聞こえなかったか?
 何故か嫌な胸騒ぎが沸き起こる。
「嘘じゃないって。本当だよ。何なら証明してみるか?」
「どうやって、ですか?」
 涼介の声が、いわゆるヒメゴトの最中のように甘やかな艶を含み始めている。
 そして同じく拓海の声もまた、上擦り、掠れてやけに色っぽい。
「簡単な事だよ。俺を嫌いって言えばいい」
「……涼介さん、俺がそれ、出来ないって知ってて言ってるでしょ?」
「へぇ、そうなのか?」
「そう、です…やだ、こんなトコで…」
「こんな俺は嫌い?」
「……………意地悪」
 物陰で。
 史裕は涼しげな季節だというのに、蒸し暑い真夏よりも激しくダラダラと汗をかいていた。
 ふとリフレインする啓介のあの言葉。「誤解」「今は絶対それは有り得ねぇ」…あれは、もしやこれを指していたのだろうか…。
 そして物陰で史裕が硬直している間にも、会話は続く。あやしげな物音とともに。
「…ああ、これか、拓海の日焼け跡って」
「みっとも、ない、ですよね、土方焼けなんて…」
 …ああ、そうか。藤原は運送業だものな。土方焼けは出来てしまうよな。
 何だか遠くなりゆく意識の中、やけに冷静にそんな会話を聞いている自分がいた。
「いや…この日焼けした部分と、真っ白な本来のお前の肌の色のコントラスト…たまらなくそそるよ」
 思わず想像。…気持ち悪いと思うどころか、ほんのり顔が赤らんでしまう自分が恐ろしい。
「変、じゃない?」
 不安そうな拓海の声。涼介だけではなく、傍で聞いている史裕まで、どこかその声に庇護欲を沸き立たせる。
 ただし、史裕のそれはかわいいものを守りたいと言う保護欲で、涼介のそれは……。
「本当に分かってないな、お前」
「え?あ……」
 …何した、涼介!
「…色っぽいんだよ」
 …何したか、想像できた!!
「だ、ダメです、涼介さん…」
「どうして?もう止まらねぇよ…ほら」
「あ……」
 …今、ドコ触らせた!
「や、ダメです、誰か来たら…」
 …ドキ。もういます。
「見せ付けてやるよ。お前が俺のモノだってこと…」
 …や、もう十分です。
 けれど好奇心は猫を殺す。
 史裕はおそるおそる、物陰から顔をそっと出してみる。
 その瞬間、見えた光景を史裕は一生忘れることは出来ないだろう。
 闇夜に、ぼんやりと浮かぶ日焼けしていない拓海の白い肌。首元まできっちりとボタンを止めて着ていた開襟のシャツを肌蹴させられ、真っ白で艶やかなその肩のラインが目に眩しい。史裕からは拓海の背中しか見えないが、それだけでも十分に扇情的な光景だった。
 そしてすぐに首を引っ込めればいいのに、思わずそんな拓海の肌に魅了され、見入ってしまった史裕に恐ろしい事態が訪れる。
 ぼうっと見ていた史裕の視線の先には、拓海を正面から抱きかかえる涼介がいる。それはつまり、史裕と対面する姿勢にあるということで、必然的に目が合った。
 パチリ、と合った瞬間に、史裕の背中に悪寒と言うには生易しい凍て付く波動が走り抜ける。
 普段から怒ったら恐ろしい男だと知っていた。
 けれど史裕は、涼介のそんな逆鱗に思い切り触れてしまったらしく、そしてその感情はすさまじい。
 ただ、見ているだけだというのに寿命は軽く十年は縮んだ。
 あの目が全てを語っている。
 ……貴様…見たな…と。
『お前、見せ付けるって言ってたじゃないか!』
 けれどそこは長年の親友。思わず目で訴え返す。
 それに返す親友の目はまだ厳しいままだ。
『…馬鹿だな、俺がそんな事を本当に許すとでも?』
『ブラフ(ハッタリ)か?』
『違うさ、ちょっとした愛のスパイスさ』
 無言で目でやり取りする二人。その沈黙に不安を覚えたのはもちろん拓海だ。
「…涼介さん?」
 さっきまで史裕に向けられていた凍て付く眼差しが嘘のように、柔らかく甘い眼差しを拓海に向ける。
 親友のそんな目は初めて見る史裕だ。それと同時に、どこか冷血で本気になることがない男の、紛れもない本気の感情を垣間見て、史裕は場違いではあるが感動を覚える。
「ああ、ごめん。抑えてたんだ。…早く拓海の中に入りたくて」
「…こ、こんなとこで…」
「だろう?拓海がそう言うから、必死に我慢してるんだ」
 …ああ、よく分かるよ。お前、本当に頑張ってるよ。
 なぜか応援モードになってしまう。手に汗握ってどうして親友の濡れ場を見ているのだろうか?
「我慢、って…」
「ここじゃ、嫌か?でも、もうコレはお前の中じゃないと治まらないよ」
「…んぅ、やぁ、揺すんないで…」
 強張った声音しか知らない少年の甘い声。それにドキドキと胸が騒ぐが、同時に親友の恐ろしい眼差しを思い出し、首を引っ込める。
「拓海…立ったままでもいい?」
「や、やだぁ、涼介さん…」
 首を引っ込め、視界から消えても彼らのやり取りは消えない。史裕の耳には生々しい恋人たちの語らいが聞こえてくる。
「…そんなにイヤ?」
「…ち、ちがう、ただ、俺…」
 躊躇するのは分かる。拓海はまだ十代の少年だ。海千山千のような涼介に付いてこいなどと言うほうが無理だろう。
「何?」
 けれど、本音ではイヤではないのだろうことは、涼介にも、そして史裕にも分かっていた。
 だからこそ涼介の声には、切羽詰っていない余裕に満ちている。
 けれどその余裕は拓海の言葉を聞いた瞬間に消えた。
「…こわい…変になる…」
 その時の拓海が、どんな表情をしていたのかを史裕は知らない。けれど聞こえた涼介の生唾を飲み込む音が全てを物語っている。
「変になっていいよ。変になって見せて」
「あ……涼介さん…」
「俺の体にしがみ付いて。…そう。声が聞こえると不味いから肩、噛んでいいよ」
 気配で、拓海が首を横に振ったのが分かった。きっとあの遠慮深い少年のことだ。涼介の体に傷を付けるなんて、もってのほかだとでも思っているのだろう。
 そんな感覚は、やはりまだ若いからだろう。
 こなれた大人にもなると、そんな傷が何よりも誇らしいことに気付いていない。
 案の定、答える親友の言葉は史裕の予想通りだ。
「噛んで。爪あとも、拓海は気にするけど、俺は嬉しいんだよ」
「………?」
 今は、不思議そうに首でもかしげたんだろうか。あどけない仕草に、親友の欲望が肥大したことを見なくても史裕は悟る。
「拓海がくれるものなら、俺には何だって嬉しいんだよ」
「んぁ!…くぅ……」
 押し殺したような拓海の声と、荒々しい涼介の息遣い。
 それを闇夜に聞きながら、史裕はそっとその場を後にした。
 真剣になることなど、車以外には無かった男が、今、真剣に恋して、そして溺れている。
 史裕は夜空を見上げ、生暖かい溜息を吐いた。
 親友の初めての恋を、史裕は手放しで応援しようと心に決める。
 彼のあんな幸せそうで、楽しそうな声は初めて聞いた。
 そして垣間見た瞬間のあの凍て付くような眼差しも。
 どれもこれも、彼の真剣さが伝わり、胸に熱いものが込み上げてくる。
 だから史裕はどんな障害がこの先あろうと、自分は涼介を応援するだろう。
 …そう。
 たとえ彼の恋人の性別が、男であろうとも。
 先ほど啓介に送った「恋は盲目」。
 その言葉を、九月の空の下、史裕は長年の親友に向けて贈った。
 彼にこそ、その言葉はふさわしい。
 そして後日、彼の恋人の性別を知った史裕だけれど贈ったその言葉を返上することは無かった。
 恋は盲目。
 その言葉は、史裕が親友の恋に送った、最大で最上の敬意であり…畏怖でもある。
 依然、幸せな恋人たちの上に、彼の送った言葉は今も降り注いでいる。




2006.9.9

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