猫じゃらし

act.1


近所の家で猫を飼っている。
動物を飼うのは拓海の小さな頃からの夢だった。
けれど、家が食品である豆腐店であるため、それは父親の硬い拳骨とともにいつも消えていた。
だから代わりのように、近所の猫を可愛がっている。
ハチロクのボンネットの上に猫。
カーボンに変えたため、真っ黒なボンネットの上は太陽光を吸収し、猫のひなたぼっこには最適の寝床になっている。
「お前、またここで寝てんのか?」
困ったなぁ、と思いながらも、丸くなって眠る猫の姿に苦笑いしか漏れない。
十分にあったまった毛並みを撫でると、ゴロゴロと咽喉を鳴らした。
この猫は名前も知らない子だけれど、可愛がる拓海によく懐いている。
雑種の白と黒のブチ。
まるでハチロクのようなカラーリングのようなこの猫を、拓海は密かに「ハチネコ」と呼んでいる。
「なぁ、ハチネコ。俺、今から出かけなきゃなんねぇんだけど…」
ボンネットの上でハチネコがぐるりと仰向き、拓海にお腹を見せる。
無防備なその肢体と、甘えるような目つき。
諦めてこのまま家の中に引き返したいほど。
けれどどうしても出かけなければならないのだ。
「なぁ、頼むよ。俺マジで行かなきゃダメなんだって」
ハチネコが首をかしげ、拓海を見上げる。
『オレより大事なことなの?』
と。
拓海は迷い、頷いた。
「うん…すっげ大事なんだ。俺の…大好きな人に会いに行くんだ」
俯き、照れながら語る拓海に、「ハァ」とハチネコが猫らしくない仕草で溜息を吐いた。
そしてしょうがないなとばかりに「う〜ん」と伸びをし、ボンネットの上から飛び降りる。
「ありがとう、ハチネコ!」
いいってコトよ。
と、ばかりに飛び降りたハチネコが拓海の足元を掠め、そして尻尾でパタパタと足を叩く。
拓海は慌しく運転席のドアを開き、そしてエンジンを点火した。
「ゴメン、ハチネコ。帰ってきたらまたお前にこれ貸すから!」
のっそりと立ち去るハチネコに、拓海が声を残し走り去った。
ふわぁ、とハチネコは大きなあくびをしながら、
『さて。帰ってくるのはいつになるやら』
と、パタパタと尻尾を揺り動かした。
昔から自分を一番に可愛がってくれたあの子が、自分をないがしろにするのは腹ただしいが、あんな顔でお願いされては聞かぬわけにもいかない。
「なんだ、お前。寝床追い出されちまったのか?」
煙草を咥えた店主がハチネコを見下ろし、苦笑する。
「お前、ちったぁ怒って引き止めてみろよ。こう、車に張り付いて行かせねぇくらいにさ」
店主の言葉の裏に寂しさが見える。
それはハチネコにとっても同様の寂しさ。
けれどそれは出来ない相談だ。
「ニャー」
あの顔はハチネコにとって猫じゃらし。
するもんか、と思っても、ついついあの子の思う通りに飛びついてしまう。
その猫の返事が伝わったのか、店主もまたハチネコと同じ深い溜息を吐いた。
「ま……あんな顔されちまったら出来ねぇけどな」
その通りだ。
どうやら店主にとってもあれは猫じゃらしのようだ。
励ますように、猫は店主に向かってもう一度鳴き、パタパタと尻尾で彼の足を何度か叩いた。


2007年9月9日
1