豆腐屋小町
act.2
来るもの厳選、去るもの追わず。一度食べたものに二度目はなく、口の悪い輩によって「日替わり定食」と揶揄されたあの高橋涼介に、とうとう決まった恋人が出来たらしい。
今まで降るようにあった「食事」の誘いに、「恋人がいるので」と断る。
そしてさらに相手が、「一度だけでいいから!」などと食い下がると、
「…いや、…もう不味いと分かっているものを食う気はしないな」
と、やに下がった顔で、あげく惚気られてしまうらしい。
これは一つの伝説である。
そう、高橋涼介の学友という立場にある人々は皆、そう思った。
その際、思い付くのは彼らが皆医学部と言う理系であるためか、物事の追求、いわく探究心がめらめらと湧き起こり、高橋涼介の初の恋人への知的、或いは俗物的好奇心であるだろう。
しかし研究するにはその事象を知らねばならない。それには唯一の情報源である高橋涼介という存在の陥落から始めねばならない。
高橋涼介。
彼は学友たちの間で、難攻不落の人間コンピューター。血の色緑とも称される心に氷を宿す男。自分に厳しく、人にはもっと厳しい。そんな厄介な人物だ。
そんな彼を陥落するには、定番の手段である「酒」というアイテムだけで不足かと思われたのだが…。
某、居酒屋。
ここには現在、高橋涼介を囲み、三人の男と二人の女がいた。
高橋涼介の恋人への知的探求の心が止まらず、実行にさえ移した勇気ある選ばれた精鋭だ。
手こずった実習が終了し、寝不足の頭を抱えて居酒屋で酒を煽る。それよりも不足していた睡眠を十分とり疲労を解消したほうが生産的であると思うのだが、時として人は自分を苛めたがる傾向にある。
今回の飲み会も、またそんな人間の自虐的行為から生まれたものだった。
この打ち上げ兼、飲み会は、実習後のもう恒例となって久しいが、今回、彼らには自虐のほかにもう一つ目的があった。
それは、「高橋涼介の恋人」を探る事。
疲労の激しい涼介に、酒を飲ませ、口を軽くさせる。だが普段、酒には強く、また口も堅い男であるだけに、彼らはこの成功率を一割未満と認識していた。
それなのに…。
「俺の恋人?知りたいか?…そうだな。可愛いよ。でも強くて、時には俺を凌駕して驚かせる」
彼の口は軽かった。
恋人の話題が出た途端、仏頂面が満面の笑顔になり、さも嬉しそうにニコニコと喋り続ける。
彼らは思った…。
『これは本当にあの群大のメフィストフェレスとあだ名された高橋涼介なのか?』と。
だが彼らはまだ平静だった。こんな事ぐらいで驚いていては、うっかり動脈を傷つけてしまい、頭から大量に血を被ることもある医学部は務まらない。
「具体的に恋人はどんなタイプなんだ?」
「具体的…。そうだな、ものに形容すると…」
「形容すると?」
「…豆腐だ」
「豆腐??」
「ああ。それもただの豆腐じゃない。大豆からこだわった、丁寧に手作りで作り上げられた滑らかな舌触りの絹ごし豆腐だ」
…滑らかな、と言う箇所に、やけに力が入っていたようだが、酒の入っていた彼らは軽くスルーした。
「でも、豆腐みたいな淡白な味だとすぐに飽きるんじゃない?高橋君は前は入れ替わり立ち代り相手が変わっていたでしょう?同じ相手だと物足りないとは思わないの?」
かつて、涼介の日替わり定食の一品であった女性がそんな意地の悪い質問を投げかける。
だがそれにも、涼介は、フッと遠くを見る眼差しで微笑むだけで動じない。
「飽きる?君は豆腐と言う食材を侮っているのか?あれは無限に広がる食の魔術師だ。毎日食べても飽きることはないな」
ニヤリ。そう微笑む姿にうすら寒い悪寒が走る。
「愚者のために豆腐と言う食材を説明してやろうか?」
ええ。是非。無言で彼らは頷いた。まだ彼らは走る悪寒よりも、知的好奇心が勝っていた。
「…まず、オーソドックスな食し方として、冷奴がある。実にシンプルだ。だがそのシンプルな食し方の中にも、調味料一つ、薬味一つ違うだけで何と五十通り以上もの味の違いがある」
醤油、ポン酢、味噌、酢、ラー油、キムチ垂れ、オリーブオイルと言う如何物食いもある。薬味は葱・生姜・山椒などでさっぱり食べるのもいいが、梅肉、鰹節、海苔などもあり、また少しワサビなども加えると、味にメリハリが出てきてまたさらに美味い。
等々と語る涼介をもう止める事は誰も出来ず、皆、グラスを傾けながら、今までお目にかかったことがない、高橋涼介の笑顔を眺めた。
彼らは皆理解している。
これが、豆腐になぞらえた恋人の自慢であり、惚気でしか無いことを。
「そして冷奴のオーソドックスさに飽きた時に、豆腐はこれまた無限の可能性を秘めている。揚げ出し豆腐などは言うに及ばず、湯豆腐、豆腐田楽、豆腐サラダ、豆腐ハンバーグ、豆腐ステーキ、そして時には刺激のあるマーボ豆腐。考えただけで涎が出てこないか?」
…はい。あなた実際にもう出ていますよ?
「おっと、いかん…」
口元を冷静な顔のまま拭う高橋涼介。誰もそれに突っ込めない。
「様々なバリエーションの中、気に入った味があればまたあれを食したいと思う。そしてそれを食した後は、違う味付けを思い出し、また食したくなる。そしてさらに、新たな味覚の領域を開拓したいと思えば、俺の予想の十二分に答えてくれるのが豆腐だ」
…そうなのか。豆腐ってすごいな…。
「豆腐こそ、俺の理想の食材。俺は豆腐を食べるために生まれてきたと言って過言ではないだろう」
キラキラ。夢見る少年のような輝く眩しい瞳で、高橋涼介は豆腐を語る。
「…いかん。こんな事を語っていると、豆腐が食べたくなってきたな、フッ…」
そう言うや否や、涼介は携帯を取り出し皆を無視してどこかに電話をかけ始めた。
暫し、コール待ちの後、相手が電話に出たのだろう。パッと涼介の表情が明るくなる。
「…ああ、拓海?」
どうやら涼介の恋人の名前は「たくみ」と言うらしい。彼らは心の中の出す当てのないレポートに、拓海と言う名前をメモした。
「実は…配達を頼みたいんだ。ああ、そう。もちろん豆腐を」
ん?豆腐は恋人の比喩なのではなく、実際に恋人が豆腐を持ってくるのか?
それは俗に言う「鴨にネギ」では…と思ったのは、五人中二人。
「場所は……にある……だ。分かるか?…そうか。良かった、じゃ、すぐに来てくれ」
来てくれ…ってここに来るのか??
思いがけず、噂の高橋涼介の恋人を拝めることが出来るらしい。
密かに心の中でガッツポーズを取ったのは、五人中五人。
「高橋、もしかしてその、豆腐みたいだって言う恋人、ここに来るのか?」
「ああ。どうしても今すぐ食べたくてな。あいつ、本当に美味いんだよ…」
日本語…間違っています。
そして彼らは、やはり豆腐は恋人の比喩なのだと確信した。
暫し無言でグラスを空けること、日本酒一升。
涼介の携帯が鳴り、「来たか」と笑顔の涼介が電話に答える。
「ああ、拓海?ここだ。分かるか?」
立ち上がり、涼介が入り口に向かい手を振った。
とうとう噂の主の登場に、少なからず緊張し、乾いた唇を彼らはまた酒で湿らせた。
どんな美女が現れるのか…期待した男三名。どんな女が来るのか…粗探ししてやろうと意地悪く目を眇めた女二名。
だが。
「あ、涼介さん」
返ってきた声はとても女性のものではなく。
そして。
「…す、すみません、皆さんいるのにお邪魔して…」
驚き、大きな瞳を見開いたその顔は、どんなに可愛くても男のようで。
これが本当にあの高橋涼介の恋人なのか?
疑問に思う彼らに答えを与えたのはもちろん涼介だ。
「拓海、会いたかったよ」
脱色などではない自然な栗色のふわふわの髪に触れ、赤くなった頬を撫でるその仕草は友人にするには艶かしく、セクシャルすぎた。
「ちょ、ちょっと、涼介さん」
離れようと身を引く拓海に構わず、涼介はその細い腰に腕を絡めて引き寄せる。それはかつて、彼が「公害の一種だ」と公言して憚らなかったイチャつくカップルの姿そのままで、彼らは流れ落ちる冷や汗を、指先で拭いながら杯を煽った。
「あ、すみません。焼酎、ロックで」
「俺も…」
「ワイン、ボトルごと下さい」
酒の追加注文とともに。
そんな彼らに構わず、豆腐を食するために生まれてきたと言って憚らない男は、目の前の豆腐のように煌めく白い肌に、薄口の醤油色の髪と瞳の少年にベタベタと触りまくる。
「拓海も何か食べるか?」
「いいえ。俺、食べて来たんで。涼介さんはもう食べたんですか?」
「いや、まだ食べてない」
「そうですか。じゃ、しっかり食べないと。これからも忙しいんでしょう?体持たないですよ」
「そうか。じゃ、遠慮なく…」
その時、彼らは確かに嫌な予感がした…。
そしてそれは当たった…。
ぐいっといきなり彼の袖を捲り上げ。
カプッ。
『ブフーーーーッ!!!!!』
それが起こった瞬間、某、居酒屋に、彼らの口から吹き出た酒で美しい七色の虹が出来た。
「りょ、涼介さん、何するんですかっ!!」
真っ白の、それこそ豆腐のように滑らかで艶やかな豆腐のような拓海の腕に、くっきりと赤い涼介の歯型。
美味そうに、唇を嘗める涼介の舌の動きがやけにエロい。犯罪的だ。
「拓海が食べていいというから、食べてみたんだが?」
「た、食べるって、俺は食べ物じゃないっすよ!」
…いや、彼にとっては君はものすごい御馳走なんだよ?
彼らは店員から渡されたおしぼりで、ゲホゴホと咽る口元を拭いながら涙目で訴えてみた。
しかし、噂の豆腐少年。高橋涼介の恋人はそれに気付かない。
「…もう、涼介さん、酔ってるんですか?」
…いや。彼は絶対にシラフです。彼らはそう心の中で叫んだ。
そして、恋人のこの言葉に、涼介がどう答えるのかが想像できて、彼らはまたも嫌な汗が滲み出てきた。
「ああ。お前に酔っているな」
うっとり。そう囁く高橋涼介の姿に、彼らは「恋は病」という言葉を思い出した。
そして同時に、恋は不治の病であることも思い出す。
「な、何言ってるんですかっ!恥ずかしいことばかり言わないで下さい!!」
ぶわっ、と真っ赤になった少年の顔は、男でありながら確かに可愛かった。
苛めようと思っていた女性陣は、一気に可憐な少年の擁護に回り、思わずトキめいてしまった男性陣は、新たな世界の目覚めを知った。
「俺は真面目に言っている」
…はぁ。そうでしょうね。そんな真剣な眼差しを初めて拝見します。
「拓海が可愛くて美味そうなのが悪い」
…確かに。ほら、そんな事を言われて、恥ずかしそうに俯いて、照れたようにもじもじとしているところは、間違いなく可愛いと思います。
「な、何言って…」
かぁっと拓海の頬が朱に染まる。
『…あ、醤油が乗った』
「そ、そんな事ばかり言ってると、俺、帰りますよ?」
『…これはワサビかな?』
「嫌だ。やっと会えたのに、拓海は俺を置いていくのか?」
「…涼介さん、本当に酔ってるでしょう?」
『ええ。もう、君の存在にね』
ごくごくと、彼らは無言でボトルを空けていく。
「拓海は俺が嫌いなのか?」
「そ、そんなこと、ない…ですよ…」
『あ、これは昆布だしかな?まろやかな味わいだ』
「じゃあ、好きか?」
拓海は全身を朱に染めて、頭のてっぺんから湯気が出そうなほどに恥らっている。
『…揚げ出し豆腐だ!』
「…そ、そんな事は人前では言えません!」
…それは間接的に、肯定の返事と同等だ、少年よ。
拓海よりもほんの少し年かさで、賢しらな大人な彼らはそう思った。だが彼らよりも狡猾で聡明な涼介には、これらの拓海の味付けは計算のうちなのだろう。
「そうか。じゃ、二人きりならいいんだな」
「え?」
くるりと振り返り、涼介がやっと彼らを見る。にっこりと笑顔。その顔を見れば、彼らはもう二度と涼介に知的好奇心など持つまい、そう思えた。
「悪いが俺はもう帰る」
はい。そうして下さい。
「じゃ、拓海、行こうか」
「え、ええっ?って、いいんですか?」
「いいんだ」
『…いいんです!っつーか、さっさと帰れよ!!』
まだわぁわぁと騒ぐ彼らの背中を眺めながら、空になったボトルを抱え、彼らは店員にこう言った。
「すみません!俺、冷奴追加!」
「俺は揚げ出し!」
「あたし、豆腐サラダ!」
「私はこの田楽を!」
「ほうれん草の白和えをお願いします!」
某、居酒屋にある豆腐メニュー。それら全てを網羅し、彼らは垣間見た高橋涼介の豆腐の偉大さを実感した。
そして後日。
二日酔いと胸焼けに苦しむ勇気ある彼らの一人が、ふと高橋涼介にこんな質問を投げかけた。
「高橋。あの後、何味で豆腐を食べたんだ?」
暫しの沈黙の後、彼はこう言った。
「…豆腐プリン」
どうやら新たな味の開拓に成功したようだ。彼らはそう思った。
そして。
高橋涼介の豆腐は、とても大変だなとしみじみとそう思い、あの華奢な少年の細腰を憂えた。
高橋涼介。
現在、彼の携帯の待ち受けには愛らしい豆腐の姿が映っている。
それをうっとりと眺めながら、美味そうに食事をする涼介の姿は、大学内外での恒例となって彼らの間に定着した。
『高橋涼介は豆腐を溺愛している。もう豆腐無しではいられないらしい』
…こんな言葉とともに。
高橋涼介の豆腐は、『至高の豆腐』と賞され伝説となり今も人々の間で語り伝えられている。