幸せな結末
act.1
衝動で行動してしまうのは、自分の悪いクセだ。
分かっているが、つい出てしまった言葉は、彼の嘲笑を買った。
「…啓介さんが好きです」
驚き、目を見開いた彼の顔を見た瞬間に、自分の失敗を悟った。
「…何だよ、お前、ホモかよ?」
冗談にしてしまえれば良かったのだろう。上手くごまかして、何もなかった振りで笑ってしまえばよかったのだ。だけど拓海はそんな器用なタイプではなく、羞恥に目元を赤く染め、項垂れ逃げ出すしか出来なかった。
だけど。
「待てよ、藤原!」
逃げ出そうとしていた腕を掴まれた。
一瞬の期待に、振り返り彼の顔を見ると、それが間違いであった事を思い知らされた。
面白そうに、意地悪く唇を吊り上げた彼が言った。
「いいぜ、付き合ってやっても」
掴まれた腕が痛かった。
「男と付き合ったことなんてねぇけど、面白そうだからな。それにお前、女みてぇな顔してるし、女の代わりにはなるよな?」
だけど、それ以上に胸が切られるように痛かった。
それなのに。
その申し出に、頷いたのはきっと自分が大馬鹿だからだ。
傷つけられてもいい。
一瞬でもいいから、幸せな夢を見たかった。
あの人が好きで好きで…。
きっと頭がおかしくなってしまったのだ。
「今からすぐ出て来いよ」
俺、と言った言葉の後に、そっけなく自分の用件だけを言って、いつも電話は切られる。
拓海の返事は聞かない。いつもそうだ。
付き合い始めた当初、
『明日、仕事あるんで無理です』
そう答えたことがあった。
それに対する啓介の答えは非情で、
『俺が出てこいっつったらすぐ来いよ!』
怒鳴られ、それでも拓海が言い渋っていると、
『…あっそ。じゃいいわ。他の奴誘うし』
その冷たい声音に、拓海は慌てて啓介の元へ向かった。
啓介は喜ばなかった。
冷たい表情のまま、息せき切って現れた拓海を見てこう言っただけ。
『何だ、お前、来たんだ…。じゃ、お前でいいか』
それ以来、拓海は啓介の誘いに嫌とは言わない。
ただ黙って彼の元へ向かう。気まぐれな彼の言動に振り回され、他の人たちには嫌と言うほど愛想を振りまいていると言うのに、自分には笑顔一つ見せない啓介に、いつも拓海の心は痛く軋む。
自分が馬鹿なことをしている自覚はある。
遊ばれているのも分かっている。
だけど、それでもいいと思うほどに、拓海は啓介が好きだった。
なぜこんなに好きなのだろうか?
疑問に思ったこともある。告白する前に、いっそ嫌いになれればいいのに、と思ったこともある。
だけど何もかもが無駄だった。
理屈ではないのだ。ふとした表情に目を奪われ、離せなくなり、どんどん自分の中で啓介の存在が増えていく。自分を覆いつくし、寝ても覚めても彼の事を考えるばかりで、まるで病気だと思った。
啓介の態度は、拓海が彼を好きになる前からあまり好意的なものではなかった。
感情が素直なのだろう。目に溢れる熱のこもった敵対心は、拓海の中に彼への恐れを植えつけた。今まで、あんな目で誰かに見られたことはない。彼よりもはるかに年下の自分がバトルに勝った。それが啓介のプライドを傷つけたのだろう。まだ拓海が高校生であった頃。峠で見かけるたびに、彼は拓海を強く熱い、恐いぐらいの眼差しで睨みつけてきた。
その視線が緩んだのは、拓海が涼介にチームに誘われた、次の日の朝のことだった。
いつかのように待ち伏せする啓介に、拓海は暗い気持ちで車を止めた。前のように、言い合いになるのは目に見えていたからだ。
けれど――。
あの時に啓介がしていた眼差しは、もう恐いものではなかった。
夢と真剣に向かい合う男の目。静かな焔のように燃えるその瞳の熱さに、拓海は初めて啓介に畏怖を覚えた。
それから、どんどん啓介の眼差しは見るたびに色を変え、プロジェクトDが始動する頃には、拓海に「控えのエース」などと悪態を吐きながらも、目が笑っていたりした。
そんな些細な変化が嬉しくて、楽しくて、そしていつの間にか引き返せないほどに好きになっていた。
誰かを好きになったことは初めてではないけれど、こんなに切ないまで相手を想うのは初めてだった。
最初から諦めていた恋だった。
男同士で、相手は自分のことをあまり快く思っていない。
それだけでも不利なのに、伝え聞くのは過去の啓介の恋愛遍歴。
『啓介?あいつはモテるよ?そりゃ、あの見かけもあるけどな。性格が気さくで明るいだろう?女からしたら取っ付きやすいみたいだな』
何気ない、彼のことを良く知る史裕の言葉に、動揺せずにいれた自分を褒めてやりたいと思った。
告白する気なんて無かった。
だけど、あの時。あの夏の暑い日に。
二人だけで民宿に泊められて、緊張する自分とは逆に、さっさと浴衣に着替えて「風呂に行こうぜ」なんて、友達にするみたいに話しかけられ、いつもの棘が消えたみたいな彼に、思わず衝動のまま口から言葉が漏れていた。
あんな事を言わなければ良かった。
けれどそれと同時に、言って良かったのかも知れない、と言う気持ちもある。
出口の見えない恋を、抱え続けているのはとても辛い。
たとえこの結末が、自分を傷つけるようなものであったとしても、拓海は後悔しないだろう。
啓介に自分を好きになってほしいなんて思わない。
ただ、自分が好きで。
束の間でもいい。彼のそばに一緒にいたかった。
呼び出され、向かった高橋邸に啓介はいなかった。
「よく来たな、藤原。啓介から聞いている。上がれよ」
拓海を出迎えてくれたのは涼介だった。
拓海は驚いた。かぁっと顔が赤くなり、動揺のあまりオタオタと視線をあちこちに彷徨わせた。
「ほら、上がれよ藤原。それとも、俺の出迎えじゃ不満か?」
「い、いえ、そんな事ないです…」
手と足、左右一緒に出しながらぎこちなく歩いて、何度か通されたことのあるリビングのソファに座る。
座った途端、拓海の前に出されたのは冷たいお茶。コースターに乗せられた冷えたそれに、緊張しながら拓海は口を付けた。
「ありがとうございます。頂きます」
飲みながら、拓海は啓介の時とは大違いだな、と思った。
これが啓介なら、「勝手に座れよ」と言ったきり、自分を構いもせず、あげく「藤原、茶ァ」と命令までしてくる。そんな態度は、拓海には男同士だしこんなものかと思えるものであったが、こうやって比較するものが現れると、啓介の態度が横暴なものなのだと自覚してくる。
初めて、この家に来て自分が客なのだと思えた。
そんな事をぼんやり考えながら、お茶を飲んでいると、涼介の視線に気付いてふと顔を上げた。
じっと見つめてくる視線。だがその目に悪感情は無く、逆に可愛い弟を見守る慈しみに満ちたものがあった。
「…涼介さん。何ですか?」
拓海には兄弟がいない。涼介の存在は、拓海にとっては理想のお兄さん像だ。こんな人が兄だったらすごいだろうな、とは思うが、啓介のように恋には発展しない。啓介だけが特別なのだ。
パッと見た目、啓介に似ていない涼介だが、大まかなパーツは一緒だ。そんな啓介に似た涼介に見つめられ、拓海は頬を染めて居心地悪そうに身じろいだ。
恥らう拓海の姿に、ますます涼介の視線が和らいだ。
峠ではなかなか見ることの出来ない笑みを浮かべ、嬉しそうに頬を緩ませる。
「いや、悪い…。俺の周りは大雑把と言うか、遠慮しない人間が多いからな。藤原みたいにきちんと礼を言って、申し訳なさそうにしてくれるのが珍しいんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。啓介が良い例だな。あいつ、ひどいだろう?」
「……えっ…あ、あの…」
「基本的に、我が侭な子供なんだよ。悪い奴じゃないんだけどな。ただ、相手の気持ちまで推し量れないんだ。自分の考えだけで行動して、いつも失敗している」
涼介の目が、悪戯っぽく拓海を見つめた。
その眼差しに、拓海の心拍数は上がる。
…まさか、気付かれてないよな…。
「…い、いえ、あの、そ、そんな親しいワケじゃないし、よく分かんないです」
目を逸らし、自分の中では上手くごまかせたと思っているのだが、涼介には勿論それはわざとらしさしか感じない。
涼介の口元の笑みは深くなる。
「…隠すなよ。俺は知ってるよ。啓介から聞いたからな」
笑みのまま言われた言葉に、拓海の目が零れ落ちんばかりに見開かれ、次にはサッと青ざめた。
その表情の暗さに、フォローが必要かと涼介が口を開こうとした瞬間に、
「すみません…」
青ざめた顔のままの拓海が頭を下げた。罪悪感から、じわっと目が潤んでくる。せめて零れ落ちないように堪えようと思ったのに、ぽつりと落ちた水滴がテーブルの上を塗らした。
「ご、ごめんなさい…あの…全部、俺が悪いんです…」
一方、悲痛な声でそう言う拓海に、涼介は少なからず驚いた。
目の前の少年は、ぼんやりとしているが、根っこは負けず嫌いで気性の荒いところがある。実際に彼が泣いたところなど、あのハチロクのエンジンブローぐらいしか記憶にない。
それが意味するところはつまり、彼にとって今の状況は、あの時と匹敵するぐらいに悲しいのだということになる。
「…藤原」
涼介は頭を下げたまま上げようとしない拓海の肩に手をかけて、その顔を上げさせた。号泣、とまではいかないが、その瞳は涙で濡れて潤んでいる。
「勘違いするな。俺は別にお前たちのことに反対していない」
「…えっ…?」
「それに、どうしてお前が謝るんだ?別にお前は悪くないだろう?」
優しく、宥めるようにそう言うのだが、頑固なところのある拓海は聞かない。
「だ、だって、俺が、啓介さん好きになったから…だから、啓介さんに無理させて…」
「無理?あいつが?」
その言葉に、真剣に驚いたように涼介が言い返す。拓海は涼介の表情に気付かず、こくりと頷いた。
「お、俺、啓介さんが、本気じゃないの、分かってるつもりですから。だから、どうせすぐに別れると思うし、だから、あの…それまで見逃してもらえませんか?」
真面目な顔でそう言う拓海を、涼介がマジマジと見つめる。その表情には懐疑的なものがあったがすぐに消え、次に現れたのは深い溜息だけ。
「…啓介、あのバカ…」
涼介が発したこの呟きは、啓介の失態を責めるものであったのだが、拓海は違うふうに受け止めた。
「あの、啓介さんは悪くないです。俺が…俺が、あんまり一生懸命だから、その…同情してくれたんだと思います」
だが拓海の必至の言葉にも、涼介は首を振りまた深く溜息を吐く。
「…藤原、そうじゃない。あのな…」
拓海の勘違いを諭してやろうと、口を開いた涼介は、しかし最後まで言葉を紡ぐことが出来なかった。
「……何してんだよ」
低い、不機嫌とあからさまに分かる声音。
涼介のものでもない、拓海のものでもない声。
振り返った拓海の目に飛び込んできたのは、最初の頃よりも、厳しい眼差しで自分を見つめる啓介の姿だった。
「啓介」
「……啓介さん…」
ギラギラとした目。あの目はもう嫌悪の感情を超えている。あれは…拓海を憎んでいる目だ。
無意識に、拓海は傍らにいた涼介に縋るように身を寄せた。その瞬間、啓介の眼差しがさらにきつくなる。
「来いよ」
ズカズカと感情そのままの乱暴な足取りで二人の間に割って入り、拓海の腕を乱暴に掴む。
「おい、啓介…」
「アニキには関係ねぇよ!」
啓介が涼介に怒りを見せるのは珍しい。兄を信奉する啓介にとって、涼介は絶対だ。怒鳴られることはあっても怒鳴ることは無い。それが、怒鳴った。その事実に涼介は驚き、拓海は萎縮した。
そして驚き固まる涼介を尻目に、啓介は無理やり拓海の腕を引っ張り、自室へと連れ込んだ。
扉を乱暴に閉め、散らかった部屋の真ん中に据え置かれたベッドの上に、拓海をまるで物か何かのように放り投げる。
乱暴な扱いに、驚き顔を上げた拓海の目に映ったのは、今まで見たことがないくらいに、怒りの表情を浮かべる啓介の姿だった。
憎悪の眼差しに晒され、拓海は何も言えず俯いた。その態度が、さらに啓介を煽ることも知らず。
「…アニキと何しゃべってたんだよ」
低い声。爆発する寸前のマグマのように暗く響く。
「…べ、別にも何も…」
「…何も?嘘つけよ。あんな目ェして、アニキとくっついといて、何もないワケねぇだろうが!」
啓介の足が、近くにあったパーツを蹴る。蹴られたパーツは壁に当たって強い音を立て、傷跡を残し落下した。
「お前、それともアニキに色目使ってたのか?」
「なっ…!」
酷い言いがかりに、拓海も堪えきれず顔を上げる。
「そ、そんなことしてない…」
「ハッ!信じられるかよ?!お前、男なら誰だっていいんだろ?」
「違う!」
啓介の腕が、拓海の襟首を掴みあげる。呼吸が苦しくなり、拓海は必至に掠れながらも声を上げる。
「…お前、いつもアニキの顔見て赤くなるもんな」
…違う。確かに赤くなるけどそれは純粋な憧れだ。啓介のように胸が痛くなることは無い。だけどどんなに否定しても、啓介は信じない。
「俺だけじゃ足りなくて、アニキにまで手ェ出そうってのか」
行き詰る呼吸は、声を出すのも難しくなり、ただ拓海は首を横に振り続けた。
「…お前みたいのを、アニキが相手するのかと思ってたのかよ?」
…この人はいったい何を言っているのだろう?
苦しい息の中で、拓海は思った。
ギラつく目。見たことがないくらいに怒りを顔に現せて、啓介が自分を見ている。
「ふざけんな。お前みたいのを、誰が相手にするかよ!」
…もう嫌だ。もう聞きたくない。
恋心はずっと前から粉々に砕けてバラバラになっていた。お願いだから、やっとの思いで支えているそれを崩さないで欲しい。
それなのに…。
「いいか、アニキに近付くんじゃねぇぞ!」
せめて、この怒りが自分のために生まれたものだったなら、救われたのに。
拓海は理解した。
啓介は、自分の尊敬する兄を、自分が誘惑したのだと思い込んでいる。
自分が、汚したのだと思っている。
しょせん啓介にとって自分はそんな存在で、彼の感情のカケラの一つでさえ動かすものにはなれやしない。
じゃあ、自分は何なんだろう?
この人にとっての自分はいったい何だ?
分かってる。本当はずっと分かってたんだ。
だけど、目をそらして、見ないようにして、自分の傷にも蓋をして、ずっとごまかしていた。
けれどその傷は、もう啓介によって晒され、抉られ、修復不可能なまでに自分を壊した。
「…な、何だよ、お前…泣いてんじゃねぇよ!」
頭を乱暴に殴られ、またベッドの上に放り投げられる。チッ、と啓介の舌打ちが聞こえた。
「とにかく、もうアニキには近付くな!分かったな!」
拓海はもう啓介の声を聞きたくなかった。
無言で立ち上がり、啓介を無視して外へ出ようとする。
「…おい」
また腕を掴まれた。あの時と同じだ。
あの時は、馬鹿な自分は傷つけられると知っていながら、その腕に縋ってしまった。
けど、もう間違えない。
拓海は啓介の腕を振り払った。
初めて見せる、拓海の拒絶に、啓介の怒り一色だった声音に戸惑いが混じる。
「待てよ、藤原!」
さらに掴んでこようとする腕を、また振り払う。
だが啓介の腕が、しっかりと拓海の肩を掴み、自分の方へと向けさせる。
「チッ…。…何だよ、何泣いてんだよ。怒ったのか?けど、お前が悪いんだからな」
前よりも声音は柔らかい。けれど決して優しくはない言葉。
ずっとこの人はこうだった。
きっとこの先も一緒だ。
自分ばかりが永遠に片思いをしている。
空しい、届かない気持ちを抱えて。
「…もう、たくさんだ」
「は?」
最後なら、真正面からこの人を見てやる。
二度と、自分と言う存在を忘れられないように、この人に傷を付けて残したい。
「あんたなんか嫌いだ」
「……お、おい、藤原…」
「うっせぇよ、触んな!」
驚いた啓介の顔。もっと、もっと驚けばいい。
「あんたみたいな、最低な人間、初めてだ」
「…な、何だと、お前…」
振り上げた啓介の拳。殴ればいい。そう思った拓海の気持ちとは裏腹に、その拳は下ろされることなく、啓介の傍らに戻された。
「いきなり何言ってるんだよ、お前」
「いきなりじゃねぇよ。最初っから思ってた」
動揺を隠すように、啓介の顔に張り付いていた嘲笑が消える。
「お、お前が俺に好きだって言ったんだろ?だから俺が…」
「そうっすね。でも、もう俺、あんたのこと嫌いだし」
「………」
「あんたなんかに好きだなんて、言わなきゃ良かった。おかげで、散々だ」
「………」
「あんたも、もういいでしょ?無理に男となんて付き合わずに済んで。遊びはもう潮時でしょ?」
「……藤原…」
そんな真剣な声で名前を呼ばないで欲しい。
無理やり奮った自分の勇気が、挫けてしまうから。
「…じゃ、いいことなんて全然なかったけど、これまでありがとうございました」
おざなりに頭を下げる。啓介の顔は見れなかった。自分に対する怒りや憎しみの表情なんて見たくもなかったし、自分のみっともない顔も見られたくなかった。
顔を見られたらきっとバレてしまう。自分が嘘をついていることを。
扉を開け、かすかに、肩越しに啓介を見た。顔は見えない。その眩しいまでに存在感のある金色の髪が見えただけ。
「さよなら」
振り返らず扉を閉める。
もちろん、追ってくる者もいない。
これで終わり。
あんなに苦しかったことも、たったこれだけで終わる。
清々しいはずだ。
もう身勝手に呼び出されることも、啓介の機嫌を一々気にして脅える必要もないのだから。
それなのに…。
別れた今のほうが、どうしてこんなに苦しいのだろう?
身を裂かれるような痛み。今すぐ誰かに自分を殺して欲しい。そしたら楽になれるから。
もう我慢しなくていい涙を、拓海は思う存分流した。
2006.1.28