花霞

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 カチコチカチコチ。
 一人の夜はやけに時計の針の音が響く。
 ガランとしただだっ広いマンション。
 かつて住むことすら想像しなかった場所に拓海はいる。
 けれどその事実は、拓海を幸せにすることは無く、苦しさだけを強いる。
 時刻はもう深夜。
 テーブルの上に冷えた料理。
 今日も帰ってこないだろう。
 分かっていながら食事を作る。
 それは拓海の未練のようなものだ。
 ふ、と零れた溜息がやけに重苦しい。
 分かっていたはずだ。こんな事態は。
 分かっていながら彼と結婚した。
「……涼介さん…」
 呟いた声が、一人の部屋に響いた。


 拓海がその話を聞いたのはもう十年以上も前の話だ。
 まだ六歳のとき。
 親に連れられて行った大きなお屋敷で、その男の子に会った。
 拓海は小学校一年で、彼は小学校六年だった。
 優しくて綺麗なお兄ちゃん。
 それが拓海の将来の旦那様なのだと教えられたのは、家に帰ってからの事だった。
『お母さんと向こうのお母さんとでお約束してるの。拓海が嫌だったらお断りするけど、どうかしら?』
 いつも儚い、けれど柔らかな笑顔の母。
 その母が、ほんの少し困った顔で拓海に問いかけたとき、拓海は迷うことなく頷いた。
『たく、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい』
 初恋だった。
 そしてその初恋は12年経った今も続き、とうとうその夢は叶った。

 形だけ。

 十二年振りに会った拓海の許婚は、12年前のままでは無かった。
 体格は遥かに大きく、容貌は端整なものに。
 そして心は凍えて冷たいものに。
 拓海と顔を合わせるなり、彼は言った。
「正気ですか?」
 拓海を一瞥し、彼の両親に向かって。
「何の後ろ盾も無いこの子が俺の結婚相手?そんなメリットの無い結婚に何の意味があるんです」
 その瞬間に、ピシリと拓海の大事に抱えていた淡い心に傷が走る。
「メリットとかじゃないわ。私たちはあなたと拓海さんを結婚させる。そう約束したのよ」
「そうだ。それは果たさなければならない。実際、お前も了承したじゃないか。拓海さんとの結婚を」
「俺がですか?いつ」
「お前が小学校六年の時だ」
 彼は、さも下らないことを聞いたとばかりに鼻で笑った。
「そんな戯言!十二年も過ぎれば無効ですよ」
「だが約束したのは事実だし、それに拓海さんにはもう…戻る家が無い」
「どういう意味です」
「……亡くなられたんだ。清海さんは十年前に。ご主人の文太さんは先月…」
 儚い笑顔の母は、その表情の如く儚い命の人だった。
 心臓が元々悪く、長く生きられない人だった。
 そして十年近くを二人で悲しみを堪え、支えながら生きてきた父は先月、呆気なく事故で亡くなった。
 飛び出してきた子供を避け、突っ込んできたトラックと正面衝突。
 無口ではあったが、優しい父らしい死に方だった。
 天涯孤独となった拓海に手を差し伸べたのは、かつて両親の親友でもある高橋夫妻だった。
 そして彼らは拓海にこう言ったのだ。
『拓海さん。約束を覚えてる?』
 それを果たしても良いかと、そう。
 涼介が突然ハハハと声を上げ笑った。
「成る程。亡くなられた親友との約束を大事にしたいわけだ。
 分かりました。あなた方のセンチメンタルに付き合いましょう。俺は彼女と結婚します」
 涼介の目が拓海に向かう。
 冷たい目だった。
 哀しくなるほど。
「けれど」
 切なくなるほどに。
「俺は彼女を愛さない」
 冷たい顔のまま涼介は笑った。
「それでも良ければ、どうぞご自由に」


 ガタンという音で我に返る。
 物音がした事で彼の帰宅を知った。
 時刻は午前一時。
 慌てて玄関に向かうと、涼介は拓海の顔を見るなり不機嫌そうに舌打ちをした。
「……まだ起きていたのか」
「あの…お帰りなさい」
 脱いだコートを受け取ろうと拓海が手を伸ばす。
 けれど涼介はそんな拓海を無視して横を通り過ぎた。
 その瞬間、彼のものではない香りが漂う。
 甘く、官能的な大人の女の匂い。
 ピシリ、とまた心にヒビが走る。
 涼介がキッチンのテーブルの上の料理に目を留め、拓海を振り返る。
「料理も作らなくても良い。待たなくて良い。そう言ったはずだ」
 不機嫌を絵に描いたような表情。
 拓海は萎縮し、俯くことしか出来ない。
「…すみません…でも…」
 小さな声で、けれど自分の心を伝えようとする拓海を、さえぎるように涼介の舌打ちが止める。
「君には学習能力が無いのか?」
 顔を上げた拓海の目に、侮蔑の眼差しで自分を見つめる涼介が見えた。
「…不愉快だ。二度と同じ事を言わせるな」
 それだけ言い放ち、涼介は自室に入り扉を閉めた。
 今日もピシリ、ピシリと拓海の心に幾つも傷が走る。
 けれど拓海はそんな傷だらけの心を大切に抱え、ふわりと笑みを浮かべた。
「…良かった。今日は涼介さん帰ってきてくれた」
 かつての、母親そっくりの儚い微笑みを。





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