夜の橋

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 気が付くと橋の上に立っていた。
 よく見かけるコンクリート造りの橋じゃない。
 時代劇などで見かけるような、木で出来たアーチを描く橋。
 橋の入口には柳。
 下を流れる川は、何故か見えない。
 真っ白な靄が橋の下を覆っている。
 時代めいた木の橋。その欄干に触れてみると、思ったよりも暖かい。
 きっちりと組まれた木の橋には、釘の一本すら見当たらなかった。
 いったいどうやって作ったのだろうと覗き込むと、横を慌しく走っていく音。
「ああ、忙しい忙しい」
 トントンと軽やかな木の立てる足音。
 顔を上げ、走り去っていく後姿を眺め、ぎょっとした。
 烏帽子を被った公家装束を纏った服装にではなく。
 その、子供としか思えない背にではなく。
 ヒョロリと、お尻の辺りから零れているフサフサの尻尾にだ。
 思わず息を飲むと、走っていた「もの」が立ち止まり振り返った。
 その顔は予想通り人間ではない。髭の生えた狐。
「おやおや、この橋に来るとは…。とんだ迷子だ」
 ケタケタと狐は笑い、すぐに興味を失ったようにまた「忙しい忙しい」と走り出す。
 あれは人間ではなかった。
 そして、よく考えればこの場所も、現実味の薄い場所。
 自分は今どこにいるのだろう?
 夢だろうか?
 それとも…。
 瞬間、頭がキリと痛む。
 眉を顰め、頭に手を遣ると、そこに感じたのは包帯の感触だった。
「…ケガ…?」
 ズキズキというより、頭がヒリヒリ痛む。
 ぶつけたというよりも、どうも擦り剥いた時の痛みに近い。
 ケガなんかしただろうか?
 考え込むと、ふと、脳裏にスキール音が甦る。
 ギュキィィと軋むタイヤと擦れたゴムの匂い。
 けど、あれは……。
 思い出そうと、目を閉じ記憶を辿る。
 けれど、川の下を流れる靄のように、頭に霞がかかってはっきりしない。
 いったい自分に何があったのだろうか?
 考えようと、また目を閉じようとした瞬間、ふわりと懐かしい匂いが鼻腔に届く。
 思わず、目を開き顔を上げると、目の前にきれいな女の人がいた。
 絽の着物を着た、懐かしい人。
 にっこりと微笑み、彼女は呼んだ。
「拓海」
 名を。
 拓海もまた、彼女を呼んだ。
「…お母さん」
 それは小さい頃に別れたきりの母親の姿。
 最後に見た、彼女の顔には白い布がかかっていた。
 もう二度と会えないのだと、そう思っていた母が目の前にいる。
 拓海は母に飛びついた。
 記憶の中では大きいと思っていた母は、今は自分より背が小さい。
 こんなに華奢だったろうか、抱き締めながら拓海は久しぶりの母の感触を味わった。
「まぁ。もう大きくなったのに。拓海は子供のときと一緒ね。甘えん坊だわ」
 拓海の背に、そっと回された細い手。
「この橋は現(うつつ)と夢を繋ぐ橋。現から逃げ出す橋」
 腕の中の母が、拓海を見上げ、柔らかな笑みを浮かべる。
「拓海」
 頬に感じる母の手の感触。その指先は冷たかった。
「…とても辛いことがあったのね?」
 冷たい母の指先に、ほろりと落ちた拓海の涙が零れる。
 暖かい涙に濡れた母の薄桃色の爪が、血のような真っ赤に変化する。だが、拓海は気付かない。
 母はにんまりと笑う。
 そして拓海は思い出した。
 ボロボロと、涙が零れ落ちていく。
 そうだ。思い出した。
 とても辛いことがあった。
 もう、イヤだと、逃げ出したいと…現を離れるほどに。



 バタバタと、将来医者を志す者とは思えないほどに、取り乱した様子で病院内の廊下をひた走る。
 注意しようと咎める者も、走る青年の鬼気迫る形相に口を噤む。
 目当ての病室にたどり着いた青年は、ノックもせずにドアを開ける。
 そこに見えたのは、ある意味見慣れた光景。
 酸素マスクに心電図。
 だがそこに眠る人の姿だけは違う。
 機械に繋がれたそに眠るのは恋人の姿だ。
 見えているものを信じたくない。これは夢だ。そう、涼介は思いたかった。
 だが、
「…アニキ」
 ベッドの傍らに座っていた弟が立ち上がる。
 昨日見たよりも、憔悴した姿。
 たった一日で、いや数時間で憔悴して見えるほどの衝撃を受けた弟の姿が、これは現実なのだと涼介に思い知らせる。
 動揺する。そんな感情は無縁だった。
 感情をコントロールする術など、幼い頃より培ってきた。
 年を重ねた今では、笑顔でどんな嘘も吐けるほどに。
 だが、今そんな自制は効かない。
 勝手に手が震えだし、惑乱した頭は未だ落ち着きのカケラさえ見出せない。
「……何があった」
 搾り出すように吐き出した言葉。
 言った瞬間に、心臓が一気に暴れ出す。
 脳内にドクドクと響き出す音が、自分の鼓動なのだと気付くまでに時間がかかった。
 弟が項垂れ、傍らにいた親友が代わりに口を開く。
「……分からないんだ」
 けれど、放たれた言葉は、涼介が知りたい事実には遠かった。
「分からない?どう言う意味だ」
 苛立った気持ちを隠せずに、声に棘を含め吐き出すと、史裕は痛ましいものを見るように涼介を見つめた。
「言葉の通りだ。分からないんだ。何故、藤原が目覚めないのか…。確かに、事故はあった。だが…掠り傷のはずなんだ。車もほぼ傷付いていないし、藤原の外傷も、この…頭部の擦り傷だけだ。検査をしても、脳に損傷は無い。なのに…目が覚めない…。知りたいのは俺たちの方だ」
 最後は、常に落ち着いた彼らしからぬ吐き捨てた様子に、動揺しているのは彼も同じなのだと、涼介は怒りを納める。
「…すまない」
 ふらりと、夢遊病者のような足取りで、涼介はベッドの傍に立つ。
 ベッドの上の、機械に繋がれた恋人の姿。
 思えば、彼女の姿を見るのも久しぶりだ。
 それなのに…恋人なのだ。
 その柔らかい頬に触れる。
 あたたかい。
 けれど、その頬はもう涼介のために赤く染まらない。
 大きな、零れるような真っ直ぐな瞳は閉じられたままだ。
「史裕」
 柔らかな髪。
 少女らしい、細い首。
 彼女の全てが愛おしいのに、涼介は彼女から目を逸らしていた。
 いつも諦めるように微笑んでいた少女。
 だから涼介は知らない。
 彼女が何を考えていたのか。
 何も…知らない。
「…お前が最後に見た時、藤原はどんな様子だった?」
 ゆっくりと頬を撫でる。
 滑らかな肌。触れるたびに愛おしさが増す。
「どんなって…普通だったよ」
 普通…。涼介は彼女の普通すら知らない。
 自分の前で、常に萎縮していた少女。
 涼介は自嘲めいた笑みを浮かべた。
「何でもないことのように、『じゃあ行ってきます』って…普通に笑ってた」
 頬を撫でる、涼介の指が止まる。
「…笑ってた…か」
 ズキリと、胸に痛みが走ったのは悔恨のためだ。
 自分は彼女の笑顔を見たことが無い。
 笑顔に、させる事すら出来なかった。
「藤原……」
 涼介は硬く目を閉じ、己を悔いた。




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