天使がきますよ
鈴木一郎は25年の人生で初めての挫折を迎えていた。
某メジャーリーガーと同じ名前を持つ彼の人生は順風満帆。家は金持ち、眉目秀麗成績優秀と、自分は人の上に立つべき人間だと自負さえしていた。
しかし六年の学生生活を終え、春からここ某県の大学病院で研修医となった彼は、自分の自信を打ち負かす人物と引き合わされることとなった。
それが研修医である彼の指導医、高橋涼介だ。
高橋医師は、実家は病院を経営し容姿は端麗、物腰優雅で冷静沈着、おまけにその仕事振りはこの医局で最も出世が早い男と噂される人物だ。
最初は鈴木も、高橋医師に負けないつもりでいた。仕事は熟練度があるため互角とは言えないが、容姿は互角、身長も少々劣るがほぼ互角。
しかし、研修医として働いている間に、優秀だと信じていた自分が何も出来ない小僧だと思い知らされ、その度に高橋医師の凄さを見せ付けられ、あげくせめて体力で勝負と思ったら、それでも適わずこの前十二時間もの大手術中に倒れ、気が付いた時には仮眠室で寝かされていた。
起きた鈴木が聞いたのは、あの大手術中執刀医だった高橋医師は、休憩無しにその後運び込まれた急患の手術に入り、まだその最中であると言うこと。
人間として医師として、鈴木が自信を喪失し、落ち込む彼をさらに落ち込ませたのはナースステーションで聞いた先ほどの会話。
「鈴木先生?ああ、あれは駄目よ。いい?男ってのはね、見かけだけじゃないの。中身も輝いていて、初めてイイ男って言えるのよ。鈴木先生は外面ばかり飾ってるけど、そんなもの見る目のある人間が見たら、すぐハリボテだって分かるわよ」
「えー、じゃどんなのがイイ男って言うんですか?」
「そうね。あの人なんて完璧ね。高橋先生。内面も外面も、あれは極上だと思うわよ」
「あ、分かりますー。すっごいカッコいいですもんね、高橋先生って」
「そうよねー、クールなところがまたカッコいいのよ」
鈴木は最後まで聞けず、ナースステーションを後にし、休憩室のベンチで項垂れ座っていた。
『そりゃ高橋先生は凄いさ。でも俺だっていつか、あれぐらいに…ハァ。なれねーか…』
研修医となった人間すべてが誰しも一度はこの様な自信喪失の状態に陥るらしい。だが鈴木は自分だけは違うと思っていた。だが結果は…。
『もう医師やめてーなぁ…』
宙を振り仰ぎ、背伸びをした彼の目に、その時ふしぎなものが飛び込んできた。
動くぬいぐるみだ。
黒白パンダの大きなぬいぐるみが、とてとてとこちらに歩いてくる。
『は?』
マジマジとよく見れば、歩いているのはぬいぐるみではない。その後ろにそのぬいぐるみを抱えた、たぶん子供だろう小さな足がかすかに見えていた。
ぬいぐるみ、もとい子供はトテトテと鈴木のいるベンチへと歩いてくる。そして彼の前まで来たとき、パンダの顔の横から、ひょっこりと現れたのは……。
『…天使だ』
ぬいぐるみよりも愛らしい、茶色のふわふわの髪に大きな栗色の目。ほっぺたは真っ赤なりんごのようで、唇は愛らしく尖り、ピンク色をしている。
天使は言った。
「おにいちゃん、どうしたの?」
声も愛らしい。鈴木は感動のあまり呆然としていた。
「イタイイタイの?」
可愛らしく首を傾げる天使。やっと鈴木は我に返り、慌てて天使に向かい首を横に振った。
「…違うよ。ちょっと疲れていたんだよ」
そうなの?とまたも可愛らしく天使は首をかしげた。
この休憩室は一般患者のあまりこない場所だ。そこにこの子供。迷子だろうか?
「君は、どうしたの?迷子かな?」
ううん、天使は首を横に振った。
「ちがうのよ。ぱぱにあいにきたのよ?」
「パパ?パパと一緒に来たの?」
「ちがうのよ。ケイちゃんとなのよ」
「ケイちゃん?」
「そうなのよ。ケイちゃんといっしょにふーみんのおみまいにきたのよ?ふーみん、えっとねぇ、すとれすせいのいかいようなのよ?」
ストレス性の胃潰瘍、かな?
「えー、と、そのケイちゃんってのは誰なのかな?」
「ケイちゃんはね、ぱぱのおとうとなのよ?」
「弟、じゃあ叔父さんだね」
「そうなのよ。でもね、ケイちゃんにおじさんっていったらないちゃうの」
「そ、そうなのか…」
この子のお父さんだったらまだ若いだろうし、その弟なんだからきっと俺と変わらないくらいなんだろうな。そりゃオジサンなんて言われたら…泣くかもしれない…。
「それで、えーっと、君、お名前は?」
「はるみちゃん」
「はるみちゃん?」
「はるみちゃんなの」
「えと、じゃあ、はるみちゃんはケイちゃんとはぐれちゃったの?」
「ちがうの。ぱぱにあいにきたのよ?」
「パパはこの病院にいるの?」
「そうなのよ。ぱぱ、おいしゃさんなの」
こっくり頷く子供の愛らしさ。たぶん4歳ぐらいだろう子供は、それこそ天使のように可愛いかった。
鈴木は不思議な感覚を覚えていた。この子と喋っていると、さっきまで落ち込んでいたのが嘘のように晴れていく。どん底にいた気分が、ほわほわと暖かく優しい太陽の日差しを浴びたように、心地好い感覚が広がっていった。
「…パパ、お医者さんなんだ。お名前分かるかな?」
「はるみちゃん」
「違うよ。パパのお名前」
「ぱぱ」
…困った。正直鈴木は子供の相手は苦手だ。小児科研修の時にそれを嫌と言うほど思い知らされた。しかし目の前の子供は別。何とかしてやりたいが…。
悩んでいるときに天の助け。
「おい、鈴木。こんなところで何してるんだ?さっき高橋先生がお前を探してたぞ?」
現れたのは同じ研修医の仲間たち。彼等はそれぞれ手に紙コップに入ったコーヒーなどを持っている。どうやら休憩にやってきたらしい。
そして彼らも、そこにいるのが鈴木だけではなく、パンダのぬいぐるみ、もとい子供が立っているのに気付いた。
「あれ、どうしたこの子?迷子か?」
ふるふると子供は首を振った。
「ちがうのよ。ぱぱにあいにきたの」
ぽやん、としたした感じのまま子供がそう言うと、言われた仲間たちは皆、ほわんとした何とも言えない、そう、まるで温泉に浸かったご老人のような顔になった。…気持ちはよく分かる。鈴木は思った。
「え、パパって…」
「どうもこの子のお父さんが医者みたいなんだけど、名前がまだ分からないんだ」
「えっ?そうなの?」
彼等は皆、腰を落とし、子供の目線に合わせて優しく問いかけた。
「お名前は?」
「はるみちゃん」
「どこから来たの?」
「おうちー」
「……じゃあ、えーっと…」
「パパの名前聞けよ」
「あ、そうだな」
「ぱぱのおなまえ?」
「そう」
「ぱぱ」
「…じゃなくてだな…」
「あ、そうだ。ママはパパのこと何て呼んでる?」
「まま?」
ことりと首を傾げたその可愛らしさ。日々のせわしなさに疲れた医者の卵たちに、それは某金融会社のマスコットの愛らしい犬よりも癒されるものだった。
「あのね、ままはぱぱのことりょーすけさんってよぶのよ?」
…りょーすけさん…りょうすけさん…りょう介さん…涼介さん?!!
「…まさか…」
瞬間、鈴木の脳裏に浮かんだのは一人の人物。もしやと思い問いかければ、
「…まさか、君のパパって高橋涼介って言わない?」
天使な子供はにっこりと微笑んだ。
「そうなのよ。たかはしりょーすけなの」
『え―――?!』
鈴木が硬直し、他の研修医たちも動揺を広げる。
何しろあの高橋涼介だ。この大学病院のカリスマ。名医と評判も高く、少しのミスも許さず自分にも厳しいが他人にはもっと厳しいあの人物。
「た、高橋先生って結婚してたんだ…」
「あ、俺、そういや愛妻家とか聞いたかも…」
「…うそだろ?こんな可愛い子が、あの人と血が繋がってるのか…」
呆然とする鈴木の服の端を、何やら引っ張る小さな手。
見れば不安そうな顔をした子供が、じっとそのつぶらな瞳で鈴木を見上げていた。
思わず、「どうする〜」のCMを思い出す。あれより可愛い。
「あのね、ぱぱしってるの?」
「あ、ああ。知ってるよ。でもどうしようか。今、パパお仕事中なんだけど…」
「じゃ、はるみちゃん、まってる」
「そうか。じゃ、一緒に待ってようか?」
「うん」
何故か鈴木だけではなく他の研修医も一緒に座る。
「はるみちゃん、咽喉渇かない?ジュース買って来ようか?」
「お腹空かない?お菓子買って来ようか?」
ふるふるとはるみちゃんは首を横に振った。
「いらないの。いっしょにケイちゃんとごはんたべるの。そのあととうげでひるくらいむみせてもらうのよ?」
彼らに理解できたのは「ケイちゃんとご飯を食べる」のみだった。
「…そのケイちゃんってのは誰なのかな?」
「ぱぱのおとうとなの。でもね。ぱぱはげぼくだっていってた」
その瞬間、コーヒーを飲んでいた者は、それを口から吹き出した。
「げぼくってなに?」
…げぼく…下ぼく…下僕…だよな…。高橋先生、弟を下僕って…。
「…は、はるみちゃんは、そのケイちゃんのこと、好きなのかな〜?」
よし、話ごまかせたかな?だが、
「だめなの。はるみちゃん、ケイちゃんにすきっていっちゃだめなの」
「え、なんで?」
「あのね。はるみちゃんがほかのひとにすきっていうと、ぱぱそのひとにいじわるするの。だからだれにもいえないの。ぱぱとままとぶんじーじだけなの」
高橋先生―っ!!
「はるみちゃん、ぱぱもすきだけどままもすきよ?でもね、ままいつもいっしょにいないの」
「え、そうなのかい?」
「そうなのよ。ままおしごとなの。れーさーなの」
れーさー?って何だ?
「ままあちこちいってるの。たまにかえってくるの。はるみちゃんさびしいけど、でもね、ぱぱのほうがもっとさびしいの。だからはるみちゃん、ないちゃだめなの」
ううう…。徐々に彼らの間に涙の渦が…。
いい子だ。いい子じゃないか――!
「ままがかえってきたらね、ぱぱすごいよろこぶの。それでね。はるみちゃん、ぶんじーじのところにあそびにいくの。ぶんじーじね、いまのあいつらにちかよったらきょういくじょうよくないって。けだものだからちかよるなっていうの」
……涙返せ!!
高橋先生、あんた、鬼畜だ…。
「それでね、あさおうちかえるの。そしたらね、いっつもままつかれてるの。それでね、ぱぱはすっごいよろこんでるの。それってどうして?」
言えません!!
「…は、ハハハ…はるみちゃんのパパとママはすごい仲良しなんだねぇ」
ヨシ、ごまかした!
「はるみちゃん、今いくつかなー?」
これでもう大丈夫だろう…ふぅ。
「よっつなの」
「そうか、四つ…ん?高橋先生まだ30前だよな。じゃ、学生結婚?」
せっかく話をそらしたのに、ぽそりと呟いたその言葉は、しっかりとはるみちゃんの耳にも届いていた。
「ぱぱとままねー、できさせちゃったけっこんなの」
「で、出来させちゃった結婚?!」
…って何だ?
「あのね、ケイちゃんとふーみんと、おじいちゃまとおばあちゃまと、つぐみちゃんがいってたの。けいかくてきはんこうなんだって」
計画的犯行?!
「えーっとね。ぱぱね、ままのことだいすきなのー。だからね、だれにもとられないようにキセイジジツをつくっちゃったんだって。キセイジジツってなに?」
既成事実のコトですか―?!
『うう、俺はもう知りたくない!知りたくないよ!!ずっとこれからもあの高橋先生と顔を合わせなきゃならないんだぞ?!』
『い、イメージが…』
『人は見かけによらないって言うけど、まさかあの高橋先生が…』
悶々とする彼等。それに気付かず、はるみちゃんは「ねえねえ、キセイジジツってなあに?」と可愛らしく問いかけてくる。
『お前、言えよ』
『ヤダよ、俺にそんな、天使を汚すような真似?!』
『俺だって嫌だ。俺はこんな子供を汚すような鬼畜になりたくない!!』
『そうだそうだ!』
『じゃ、お前は黙っていられるのか?』
そう言われさりげなく見れば、うるうるとした目で見つめてくるはるみちゃん。
『…そんな目で汚れた俺を、見ないでくれっ!』
皆が擦れ切った自分に嫌悪を感じ始めていた時に、バカでかい叫び声が彼等の間で響き渡った。
「晴海ーっ?!!」
声のした方を見れば、そこには背の高い金髪の青年が。
「あ、ケイちゃんだー」
にこにこと笑い、金髪青年に手を振る晴海ちゃん。
『…なるほど。これが例の下僕か…』
思わず皆がそう思った。
ケイちゃんこと高橋啓介が、走り寄ってきてガバリとぬいぐるみごと晴海ちゃんを抱きしめた。
「…良かった…お前に何かあったら、俺はアニキに…」
啓介が出なかった言葉の続きは、研修医たちには手に取るように分かった。
『…殺されるんだろうな…』
しかし。
「…俺が何だって?」
冷凍庫の扉を開いたような錯覚を彼らは覚えた。
冷気の出所を見るまでもなく、背後からは覚えのある声と、振り返りたくなくなるような殺気を感じる。
「あ、ぱぱ」
だがそう晴海ちゃんが声をかけた瞬間、冷気は緩まり、殺気は消え、逆にここは南国か?と思えるほどの、ほんわかとした空気が漂い始めた。
「晴海?どうしたんだ、こんなところで」
「あのね、ぱぱにあいにきたのよ」
「…そうか。啓介が病院に連れて来たのか。そういや史裕もまだ入院してたしな」
フッ、と晴海ちゃんに見えない角度でほくそ笑む高橋医師こと高橋涼介。その笑みには入院者へのいたわりの色はなかった。
「…それで、君たちはこんなところで何をしているのかな?休憩はとっくに済んでいると思うが…」
ギラリと光る刃のような瞳。この瞳に睨まれた研修医たちは皆一年寿命が縮んだ。
しかし、天使は現れた。
「だぁめよ、ぱぱ。おこっちゃだめなの。はるみちゃんとおはなししてたのよ?」
「う…でもな、晴海、仕事があるんだからな…」
「だぁめなの!ぱぱやさしいしないと、ままにいいつけるから!」
怒った晴海ちゃん。こっそり啓介は母親そっくりだ、と思ったとか。
「…ママに言いつける…そ、それだけは…」
みるみる、塩を振りかけられたナメクジのように意気を消沈させていく涼介。そこにカリスマの姿はどこにも無かった。
研修医たちは思った。
『ママ、最強!!』
その後、仕事に戻った高橋医師は、どこかいつもの颯爽とした姿が衰え、少しくたびれた様相をしていたようだ。
看護師や患者たちに、
「今日の高橋先生、少しおかしくありませんか?」
と聞かれても、研修医たちは皆何も答えられなかったという。
そして天使こと高橋晴海4歳はケイちゃんこと下僕、もとい啓介氏と一緒にチャイルドシートを乗せた黄色い車に乗って帰って行った。最後まで「ひるくらいむー」と謎の言葉を残していたが。
鈴木は思い出す。
あの小さな手。
最後の別れ際、晴海ちゃんは啓介氏に抱っこされながら、鈴木の頭に手をやって、そっと何度も撫でてくれた。
「イタイイタイの、なおった?」
心配そうに見つめる目。あんなに喪失していた自信も落ち込みも、消えてはいないが乗り越えてやろうと言う気概が湧いてきた。
意欲的になった鈴木に、周囲の見る目も変わってくる。ミスをしてもそれを取り返してやろうと努力する鈴木は、病院内での評価もよく、患者からもよく声をかけられるようになった。
すべてはあの子のおかげ。
自分にとって、あの子は間違いなく天使だった。
しかし振り返り、感慨にふける鈴木に驚愕の事実が発覚するまであと三秒。
「それにしても、高橋先生のお子さんって可愛いですね。心配でしょう?あんな可愛いお嬢さんを持たれたら」
それは研修医の一人が世間話の中で発した一言。
高橋医師はそれを聞き、かすかに眉をひそめながらもこう言った。
「あれは息子だ」
『えっ!』
鈴木の、ほのかに湧いた恋心は儚く散った。
2005.7.10