White Day 2007


「好き……」
 と呟きしなだれかかる身体を抱き締めながら、
「…俺もだ」
 とその耳に囁いた。
 すると腕の中の体は微かに震え、伏し目がちだった瞼を開き涼介を見上げた。
 茜色に染まる、柔らかそうな頬。
 小さく小刻みに震えているふっくらとした唇。
 薄桃色のそれが、何度も言葉を言い出しかけ、飲み込むように動く。真っ白の歯と朱色の舌が時おり見える。
 涼介はゴクリと唾を飲み込み、誘われるようにその唇に顔を近付ける。
 すると「…涼介さん…」と微かな吐息とともに自身の名を呟かれ、大きな潤んだ瞳が覚悟を決めるようにゆっくりと閉じられた。
 長い睫毛が、頬に影を落とす。
 抱きしめる腕に力を込め、清廉なものに触れるような心地で唇を寄せる。
 らしくなくドキドキと胸が割れ鐘のように鳴り響き、引き寄せるように頬に触れた指先は震えていた。
 咽喉が渇き、掠れた声で彼の名を呟く。
「……拓海、愛している」
 彼の小さな頭の後ろに、真っ白なシーツに覆われたベッドが見える。
 涼介は再びゴクリと唾を飲む。
 その白いシーツの上に拓海を押し倒し、身を包むこの衣服を引き剥がし、彼を表す真っ白なシーツの上の薄桃色に肌を染める姿を想像し。
 下腹部に、覚えのある衝動を感じる。
 だが小刻みに震え続ける拓海を、即物的に欲望の対象とすることに躊躇いを感じる。
 けれど閉ざされていた拓海の瞳が、うっすらと開き涼介を見上げた。
 震える唇。乾くそれを舐めるように、ピンクの舌がゆっくりと動く。
「……涼介、さん…早く、きて?」
 ブチン、と涼介の内で理性の糸がブチ切れる音が華々しく響いた。
 拓海を抱え、まるでダイブするようにベッドに倒れこむ。
「…拓海!!」
 そして余裕のない性急な仕草で、彼の白い歯が覗くふっくらとした唇を塞ごうと顔を寄せ、そして―――…。

 …――目が覚めた。

 真っ白ではないブルーグレーの自室のベッドのシーツの上で涼介は目覚めに深い溜息を吐いた。
 身を起こし、寝乱れた髪をグシャグシャとかき回す。
 そして舌打ち。
「……また寸止めか…」
 夢の中でも。そして現実でも…。
 下腹部は、見なくても所謂朝の生理現象が起こっているのが分かる。
 まだ夢精しなかっただけマシだろうか。
 だがこんな夢と朝を、何度迎えただろう?
 涼介こと赤城の白い彗星高橋涼介が、秋名のハチロクこと藤原拓海と交際を初めてから早や27日と6時間。
 同性であるという垣根を越え、バレンタインに決死の覚悟で挑んだ告白に、奇跡のようにOKの返事を貰った。
 嬉しくて、幸せで、らしくなく小躍りしたいくらいに浮かれていた。
 だが、そんな喜びも続かず、想いが通じれば次の段階に進みたいと思ってしまうのが思春期を越えた成人男性。
 恋心が性衝動に繋がってしまうのは、一通りの快楽を味わった身としては当然とも言える。
 当然、涼介もその先を望み、果敢に挑んだ。
 しかし同じ男。おまけに未だ誰とも交際経験がないと言う、まるで未踏の雪原のように真っ白で穢れなき純粋な拓海。
 まずは手を繋ぎ、キスをして、そして二週間目くらいには結ばれたいと、しっかりとタイムスケージュールで計画を練った涼介の野望は、だが敢え無く記念すべき第一回目のデートで壊された。
 涼介の計画では、さりげなく手を繋ぎ、そして別れる時にファーストキス。
 どこまでもスマートに、かつ紳士に事を果たすはず…だった。
 けれど。
 ハァ、と涼介は高ぶる股間を睨みつけながら、あの時の出来事を思い返す。
 さりげなく手を繋ごうとし…
『あ、涼介さん、あれ見て下さい!』
 と、わざとかと問いただしたいくらいのタイミングで外された。
 それでもめげずに甘い言葉を囁けば、
『……何か言いました?すみません、俺、ちょっとウトウトしてて』
 とうたた寝され、おまけに最後の大勝負であるお別れのキス…。
『じゃ、俺はこれで。涼介さん、今日は本当にありがとうございました』
 頬を染め、嬉しそうに微笑みながら拓海が助手席の扉に手をかける。
 その瞬間、涼介は目をキランと光らせ、去ろうとする拓海の手の上に自身の手を重ねた。
『…拓海』
『…え?』
 そっと身体ごと彼に寄せ、握り締めた手のひらに力を込める。
 …イける!
 と、涼介のこれまでの経験がそう物語り、叫んでいた。
 だが。
『……っくしゅん!』
 顔を背けられ、車内にアイドリングの音と、拓海のくしゃみの音が響いた…。
『あ、すみません俺……あ、オヤジ!』
 車が止まっていたのは藤原家から50mほど離れた場所。
 言われ呆然とする頭で前方を見れば店先に人陰が見えた。
『それじゃ、涼介さん、また!』
 と慌しく引き止める間もなく慌しく扉を開け立ち去った。
 目の前で、店先に立つ人影に謝る拓海のシルエットが見える。
 あれは…と、涼介は振り返る。
 人生初の大敗退であった…。
 まさか父親の前でまたも迫るわけにも行かず、涙を堪えエンジンを唸らせ帰宅した。
 その後も、泣きたくなるくらいのタイミングで外され、一ヶ月経った現在。
 涼介は漸く手は繋げたがそれ以降がどうしても進まない。
 目の前に美味しそうな獲物が鎮座しているのに、どうしても食べられない。
 涼介の計画ではベッドインをしているはずの交際二週目。
 その日も涼介は敗戦に終わった。
 そして、ふと沸き起こる不安。

『…拓海の俺への気持ちは憧れの「好き」で、本当は俺と同じ気持ちではないのではないか』

 そんな考えがフワリと初雪のように涼介の胸の内に振り、そしてシンシンと少しずつ積もっていく。
 だからわざとタイミングを外すようにしているのではないか?
 バレンタインのあの時も、涼介がチームリーダーと言う事で断りきれず頷いてしまったのではないだろうか?
 いやいや、付き合い始めて涼介に幻滅したとか?
 そんな悪い考えばかりが降り積もる。
 そして涼介の不安は如実に夢の中で現れ、現実同様寸止めの毎日。
 恋をする。
 今まで、涼介は何度も恋を重ねてきたのだと思っていた。
 だがそれらは全て恋の真似事で、真実ではなかったのだと実感している。
 本当の恋は、嬉しくて幸せで、けれど切なくてとても苦しい…。
 今までの泡沫の恋など、何の参考にもならない。
 なす術も無く、涼介は溜息を吐き、拓海からの決定的な言葉を怖れ、ただ……笑顔で全てをごまかし…諾々と受け流すだけ。
 ハァ、と再度涼介は溜息を吐き、そして枕の下に潜めていた拓海の写真を取り出し……最近の毎朝の習慣になっている出来事を繰り返した。
 告白前に隠し撮りで撮った写真。
 写真の中の拓海の視線はぼんやりと宙を彷徨い…涼介を見ない。
 そんな些細な事が切ない。
「…っく、拓海…!」
 思わず、指に力が入り写真をギュッと握り締めた。
「…ハッ、いかん…」
 それを慌ててまた引き伸ばし、皺を直す。それの繰り返しでもう写真はボロボロだ。
 だが…捨てようとも思わない。大切なものだから。
 涼介は写真を額に押し当て目を閉じた。
「…………情けねぇ…」
 空しい。
 けれど止められない。
 こんな情けないことになる事を、去年の自分は予想もしなかっただろう。
 ゲームのように異性と交渉を持ち、面倒になればあっさりと切った。
 我を忘れ、愚かになる輩を馬鹿にし、「みっともないものだ」と嘯いた。
 けれど今では自身も、そんな輩よりもさらにみっともない事になっている。
 涼介のプライドが、「あんな面倒なやつ、忘れてしまえ」と囁く。
 けれど魂の奥底が、その言葉に泣いて喚いて拒否をする。
『忘れられるものか!』
 駄々を捏ねる子供のように。みっともなく。
 ハァ、と再度溜息を吐き、涼介は拓海の写真をまた枕の下に戻した。
「…好きなんだよ、畜生」
 枕の上から、写真を置いた場所を手でなぞる。名残を惜しむように。
 こんないじらしい自分がいることなど、きっと拓海は知らない。
 いや、涼介の周囲の人間全て。
 だが、一人だけこんな涼介を知る人物がいる。
 それが涼介の弟である啓介。
 何故か、彼は最初から涼介の恋心を知っていた。
 拓海に恋心を抱いているらしい事を啓介に相談すると、読んでいる雑誌から目も離さないままに言い放たれた。

『何だ、今頃気付いたのかよ』
 驚いた。自分でもやっと気付いた感情に、啓介が既に気付いているとは思わなかったから。
『覚えてねぇの?アニキさぁ、あいつを初めて見たとき「可愛い」つったんだぜ?俺、アニキが嫌味じゃなく誰かをあんなふうに言うの、初めて聞いたから良く覚えてるよ』
 そうだったろうか。言われてみれば、そんな発言をした記憶がある。
 珍しく、心から素直にそう言った覚えがある。
『ずいぶん可愛い奴だな』
 と、啓介のバトルの前に。
『結局、アニキはあいつに一目惚れだったんだろ?それから後も、そりゃ…あいつの走りに興味もあったのかも知れないけど、あいつのバトルを追いかけたりしたのは、明らかに今までのアニキとは違ったぜ?』
 言われてみれば、確かにあの走りには興味はあったが、ストーカーのようにバトルがあると聞けば追いかけたのは今までの自分なら無かった事だろう。
 レッドサンズの二軍などに偵察させ、その情報を元に分析していたはずだ。常の、自分なら。
『俺、アニキはとっくに自覚してると思ってたよ。あいつを見てる時のアニキ、すっげぇエロい顔してるしさぁ。かと思うと、あいつの前ではやたらと緊張してただろ?いつもよりも、無表情度アップしてたしさ』
 エロい顔…してただろうか。
 だがそう言われて見れば、思い当たることばかりで涼介は瞠目した。
 では拓海を見るたびに胸がワクワクしたのも、目が離せなかったのも、あのぼんやりとした目元やうっすら開いた唇に不埒な妄想をしたのも、「男にしては細い腰だな…」とその服の下を想像しやたらと興奮したのも、なのに拓海の前に出ると表情が強張り、あげくに滅多に汗などかかない手のひらが汗でびっしょりになっていたのも、全て拓海を好きだったからなのだろう。
『そんで、アニキはどうしたいんだよ。アイツに告んの?それとも、男同士だからって諦めんのかよ』
 涼介はその質問に首を横に振った。
『俺は……あいつが欲しい。何があっても』
 その時の涼介の目は、やたらとギラギラと輝いていたと、後に啓介が語った。それだけに涼介の本気も感じ取れたと。
 そして啓介は笑った。
『分かったよ。んじゃ、俺も応援するからさ』
 励まされ、そして涼介はその言葉に後押しされるようにバレンタインのあの日、拓海にチョコレートを手渡した。
 あの日、啓介は涼介の幸福を我が事のように喜び、微笑んだ。
『良かったな、アニキ』
 けれど最近の啓介が涼介へかける言葉はいつも同じ。
『…大変だな、アニキ』
 その言葉が、今は涼介の身に染みる。


 ベッドから漸く身を起こし、身支度を整え食事を取る。
 大学は休みに入ったので今日はオフ。
 のんびりと自室で春から始動するプロジェクトDの件を煮詰めていると、涼介の携帯からメールの着信音が響く。
 ドキリと心臓が跳ねるほどに驚いたのは、その音楽が拓海専用に合わせたものだったから。
 緊張する手でフリップを開き、メールを確認すれば間違いなく拓海。
『件名  今日
 今日は時間ありますか?』
 拓海の高校の卒業祝いに、携帯を贈った。
 今時の高校生らしくなく、初めて携帯を持つと言う拓海のメールは慣れない人間らしく、短く簡素だ。
 涼介はそれにうっすら微笑みながら、すぐに返事を送った。
『件名  Re:今日
 今日はオフで家にいる。デートの誘い?だったら嬉しいけどね』
 拓海は知らないだろう。たかが、ふざけた調子を気取りながら、恋人めいたこんな言葉を彼に返すだけで、どれだけ涼介が緊張するかを。
 十分ほどしてまた返信がきた。
『件名  Re:Re:今日
 今からそっちに行きます』
「……え?」
 まさかそんな返事が来るとは思わず、涼介は震える手で、
『件名  喜んで
 待っているよ。気を付けておいで』
 送信した後は、必要ないだろうと思いながらも、ベッドのシーツを交換したり部屋の掃除を始めた。
 万が一、万が一だ。
 けれど期待はしてはいけない。
 そんな期待をして、ドキドキしながら拓海の来訪を待ちわびた十日前。拓海は靴を脱ぐこともせず、玄関先に出迎えた涼介に藤原家の豆腐を手渡し立ち去った。
『これ、うちの豆腐です。涼介さん、前に食べたいって言ったから』
 引き止める涼介の願いも空しく、
『でも今日俺、晩飯当番だし。もう帰らないと…』
 そう言われてしまえば、脳裏に藤原豆腐店店主の顔が思い浮かび…言葉に詰まる。
 不埒な想いを抱くものとして、相手の父親の顔は…やはり見たくないものだ。
 父親に負け、涼介はあっさり拓海を帰してしまった。
 手の中には真っ白な豆腐。
 それを拓海と思い込み、涼介は涙目で食した。
 …美味かった。美味かったのが…ほんの少しだけ心に苦い味がした。
 だから期待はするなと、心に言い聞かせながらも、涼介は枕元にボックスティッシュを配置した。


 高橋邸のセキュリティは最新の物を使用しているが、インターフォンのチャイムは昔ながらの「ピンポ〜ン」だ。
 待ち望んだその音が高橋邸に響く。
 今日は、留守がちな両親は相変わらず在宅していないし、啓介も昨晩から遊び歩いているのか帰宅していない。
 自分一人の家に、恋人が来る。
 このシチュエーションに、涼介は思春期の少年よりも激しく胸を高鳴らせた。
 だが、玄関に行く頃には無表情の仮面を被り冷静を装う。
 拓海の前では、いつでも格好良い姿でいたいから。
 邸内から鍵を開け、「開いてるよ」とインターフォンで声をかける。
 監視カメラに、拓海が門を開け玄関先まで歩いてくるのを涼介は胸を躍らせ待った。
 そして玄関扉の前に立ち、もう一度玄関前のインターフォンを押そうとする拓海よりも早く扉を開ける。
 まさか、こんなに早く出てくるとは思わなかったのだろう。大きな瞳が、零れ落ちそうなほどに見開かれている。
「ようこそ」
 そんな拓海が微笑ましくて、涼介は心からの笑みを浮かべた。
 それに拓海は頬をほんのり染めて俯いた。
「あの…すみません、突然来て…」
「いいよ。藤原ならいつでも大歓迎だ」
 どうやら、今日は玄関先だけで帰るつもりはないらしく、涼介に促され玄関に入り靴を脱ぐ仕草を見せた。
 拓海が俯いた隙に、涼介は思わず小さくガッツポーズをする。
 リビングへと案内し、ソファにちんまりと居心地悪そうに座る拓海の姿に、思わずニヤけてしまう口を手のひらで覆い隠しながら、涼介はキッチンへと移動し彼の為に飲み物を用意した。
「生憎こんなものしか無いんだが…」
 用意したのはアールグレイ。ティーポットに茶葉を詰め、レモンとミルクを添えて差し出すと、拓海はまたも驚き眼を見張った。
「…すげぇ。俺、紅茶なんてティーパックしか見たことないですよ」
 恐縮しながらも嬉しそうにカップを手に取る拓海に、涼介の口元がまた緩む。
 それを咳払いで誤魔化しながら、涼介はフゥフゥとカップに息を吐く拓海に視線を向けた。その尖った唇がまた罪作りだ。
 再度咳払い。
 そしてやっと本題に入る。
「…それより、今日はどうしたんだ?俺は嬉しいが、拓海は今日は大丈夫なのか」
 カップに口を付けていた拓海は、飲みながらコクンと小さく頷いた。
 そしてカップをソーサーに戻し、持っていたカバンを探り何かを取り出した。
 覚えのある包みと…そして香り。
「それは……」
 一ヶ月前に、味わった覚えのある匂いだ。
「あの、お返しです」
 真っ赤に頬を染め、涼介の前に差し出されたのはクッキー。包装紙の色は違うが、匂いや形はあれと同じものだろう。
 それを受け取りながら、涼介は聞き返した。
「…お返し、って?」
「あの…今日、ホワイトデーだから…」
 その答えに、グワンと大金槌で頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。
 全く…失念していたのだ。
 イベント事に興味が薄かったのもあるが、毎晩のあの寸止め劇場に神経をすり減らし、脳までどうやら海綿体になってしまっていたらしい。
 涼介はガックリと傍目で見ても分かるくらいに落ち込んだ。
 項垂れ、掠れた声で謝罪する。
「……すまない…俺は、お前に貰っていたのに何も用意していない…」
 有り得ない失態だ。悔しさで涙が滲む。
 けれど拓海はそんな涼介の様子に焦りながらも必死に手を振り遠慮した。
「そんな!いいんです。俺が勝手に持ってきただけなんだし。それに…涼介さんにはいつも食事を奢ってもらったり、携帯も買ってもらちゃったし…」
 照れくさそうに言い募る拓海に、またもや愛しさが増す。
 今なら、いいだろうか。
 悪魔が涼介を唆す。
 臆病な心をしまいこみ、本能に忠実な心が涼介を動かす。
 頬を染める拓海に手を伸ばし、その肩に指先が触れる。
「……あ」
 一瞬、ビクリと奮え瞳を見開き涼介を見つめる拓海の肩を掴み、そっと顔を寄せていく。
「…拓海……」
 イける!
 涼介の、人生をかけたアクセルポイントだった。
 …が、空ぶかし。
「…ちょっと待って!」
 ぐい、と近寄った顔を手で押しのけられる。
 タイヤは摩擦で煙を上げ、エンジンは唸り、タコメーターは限界を振り切っている。
 なのに…走り出せない。
 走り出せないのだ!
 今しも飛び出す瞬間に、無垢な幼稚園児が前方を横断しているのを見つけたような心地。
 そして何より…拒まれた。
 いつも冷静さをかなぐり捨てて、涼介は地の底まで落ち込んだ。
 …が。
 神は、努力する人間を見捨てなかった。
 たゆまぬ努力と、忍耐。
 それこそが神に愛される条件だったのだろう。

「涼介さん。ホワイトデーのお返し、もう一つあるんです」

 その言葉とともにまたも拓海はカバンを探り、現れたのはピンクのリボン。
 まさか、と言う思いでそれを見つめていれば、拓海はリボンをキュッと首に結ぶ。
 真っ赤な顔で。
 潤む瞳で。
 うっすら開いたその唇で。
 こう言った。

「…俺も、一緒に貰ってください」

 これは夢かと、そう疑ったのは仕方ないだろう。
 まるで夢の中のシチュエーションそのまま。
 これでまた手を伸ばせば、寸止めで終わってしまうのだろうかと躊躇する涼介に、拓海はまたもカバンを探り今度は濃いブルーのリボンを取り出した。
 そしてそれを涼介の首にかけ、蝶々結びを作り結んだ。

「…俺への涼介さんのお返し…これがいいです」

 夢でも何でも。
 寸止めする間もなくヤっちまえばこっちのもの。
 そう涼介は考えた。
 そしてそう考えた後、彼は我を忘れ、一人のケダモノに変貌した。
 無言で拓海の身体を肩にかつぎ、そして荷物を放り投げるように自室のベッドの上に降ろした。
「…りょう、すけさん…」
 ジリ、と拓海がベッドの上で後ずさりをする。きっと、変貌した涼介が怖いのだろう。
 だが、もう止められない。
「…拓海」
 初めて、彼を苗字ではなく名前で呼んだ。
 ベッドの上の彼を、拘束するように上からのしかかり、その手首を握る。
「……愛してる」
 囁き、ずっと夢見ていたその唇にキスをする。
 柔らかかった。
 頭が狂いそうなほどに、柔らかくて、幸せで、嬉しくて、けれどどこか切なくて苦しかった。
 何度も、何度もキスをした。
 夢が覚めないように。夢のままで終わるように。
 性急な手つきで、服に手をかけ毟るように引き剥がす。
 止まらなかった。
 怯えられても、腕の中の体が小刻みに震えていても。
「…愛してる…拓海…」
 贖罪のように何度も彼の耳に注ぎ込み、そして涼介は念願の夢を果たした。



 我に返ったのは一時間後。
 新しいシーツに変え、皺ひとつなくメイクした痕跡が欠片も無い乱れたベッドの上で、薄ピンクに染まった裸体が息も絶え絶えに横たわっていた。
 意識が朦朧としているのだろう。目はどこか遠くを彷徨い、ハァハァと荒い呼吸を繰り返している。
 その頬には涙が伝った後。
 そして肌一面に涼介が残した赤い花びらのような跡が散っている。
 体液に汚された肢体。赤く腫れた胸の尖り。腕には、涼介の手形の跡まで付いている。
 まるで、強姦された後のような姿に、涼介は一瞬で青ざめる。
 裸体の拓海の首に唯一残されたピンクのリボンがやけに涼介の罪悪感を煽る。
「…す、まない…つい夢中で…悪かった」
 謝罪し、その体にこびり付いた体液をティッシュで拭う。その刺激で、目を閉じていた拓海の目がうっすらと開いた。
 そして涼介と目が合った瞬間に…嫌悪される事を覚悟していたのに…批難される事を覚悟していたのに…何故か拓海は頬を染め恥らった。
「…嫌だ…見ないで下さい…」
 モゾモゾと身を捩り、ベッドの脇に落とされた掛け布団に手を伸ばそうとするが、しかし僅かに動いた途端に、「痛ぇ…」と呻き固まった。
「す、すまない。大丈夫か?痛むのか?傷は付いていないか?少し見せてくれ!」
 焦り、戸惑い、涼介は有無を言わさず拓海の足を掴み開き奥を覗いた。
「赤くはなっているが…切れてはいないようだな。中は……」
 と触診しようと指を伸ばそうとした瞬間、バフンと顔に衝撃を受け、羽毛が散った。
「…止めて下さいって!は、恥ずかしいのに……」
 どうやら、枕で顔を殴られたらしく、拓海は涼介に怒鳴った後、顔だけでなく全身を真っ赤に染め、「うう〜」と唸りながら枕に顔を埋めた。
「…涼介さん…エロい…」
 小さな呟きが聞こえる。
 その声音や反応から、涼介は拓海が怒っていない事を覚る。
 そしてこれが夢ではない事も。
 顔が、ニンマリとにやけ、頭の中で天使がラッパを吹く。
 耳に聞こえるのは天から降り注ぐハレルヤグローリーと歌う声。今なら、天国に召されても不思議ではないほどの幸福感。
 枕で顔を隠す拓海のむき出しの肩に手を触れ、ゆっくりと宥めるように撫でた。
「…ゴメン。拓海があんまり可愛いことをするから…つい箍が外れた」
「可愛いって…別に…」
「可愛いよ。最高のプレゼントだ」
 言いながら、拓海の首のリボンを指で弄る。枕が少しずれ、拓海の片目だけが涼介を窺う。
「……涼介さん…あの…」
 何か、言い辛そうな拓海に満面の笑顔のまま涼介は答える。
「何?」
 だが、すぐにその笑顔は凍りついた。
「……俺で…満足した?」
「………はぁ??」
 聞き違いかと耳をかきほじり、もう一度問いかければ同じ言葉が返ってきた。
「俺でも…大丈夫だった?」
 クラクラとよろめきながら、涼介は額に手を当て唸った。
「……すまない。お前の言ってる意味が理解できないんだが…」
 満足もクソも。
 最近の欲求不満が嘘のようなこの爽快感。
 何故そんな言葉が出るのか、心底不思議だ。
「だって……涼介さんモテるし」
 だからどうした。
「俺…男だし…」
 そんな最高の体をしておいて何を言う?
「だからやっぱり…俺なんかじゃダメなのかなと思ってたから…」
 動機。息切れ。眩暈。
 今ここに強心剤があるなら真っ先に飲んでいる。
「あの、な……」
 ハァと深く深呼吸をし、涼介はやっとの思いで言葉を発した。
「どうして…そんな事を思ったんだ?」
「だって…」
 唇を尖らせ、ぷいとそっぽを向く仕草は殺人的なほどに可愛い。可愛い、のだが…。

「涼介さん、いつまで経ってもキスもしてくれないし…」

 その瞬間、涼介は叫びたかった。
 叫んで、この小悪魔をもう一度押し倒し、よがらせ、泣かせ、めちゃくちゃにしてやりたかった。
 だが、それをするには涼介は拓海に惚れすぎていた。これ以上の無体を無意識に控えようと抑えてしまうほどに。
 もう一度深呼吸をして、涼介は脳内を探り、この小悪魔が納得するような言葉を捜した。
 嘘でもなく、けれど本当でもない言葉を。
「…拓海」
 その、柔らかな髪を撫でる。意外と指のすべりが良い。心地好い髪だ。
「本気で誰かを好きになると…臆病になるんだ」
 そむけていた拓海の視線が、涼介へと向けられる。疑惑と、けれど微かな期待を込めて。
 そんな拓海に涼介は苦笑する。
 本当に厄介な恋人。涼介を振り回し翻弄し…そしてさらに恋に嵌らせる。
「触れて、嫌われるのが怖くて、触れられない。本当に好きなら、そんな風になる」
「だけど涼介さん、モテるのに…」
 本当に小悪魔め。その可愛くない口をキスで塞ぐ。
「関係ねぇだろ、そんなの。俺はお前が初恋なんだぞ。過去、何をしてようと役にも立たねぇよ」
「嘘」
「…嘘じゃねぇって。それとも俺がそんなに、軽々しく誰にでも愛の言葉を囁くような人間に見えるか?」
 返事は…無言。疑っている証拠だ。
 小さく尖った鼻を摘み、首筋に顔を埋めて呻いた。
「…頼むよ。俺はそんな安っぽい男じゃねぇぞ。拓海が男でも、まだ18だと分かっても、諦めきれなくて覚悟を決めて告白したんだ。疑ってもいいが、少しは俺って男を信用してくれ」
 本当に堪らない。手に入ったと錯覚した途端、するりとすり抜け涼介を翻弄する。
 おずおずと、拓海の腕が涼介の背中に回る。
「すみま、せん…」
「いいよ。可愛かったから許す」
 結局は惚れた方が負け。何をされても許してしまう。
「可愛いって、またそんなの…」
 ブツブツと文句を言う拓海の尖った唇を摘み、クスクスと笑う。
「後でそんなに文句を言うなら、やらなければ良かったのに」
 変な奴だな、と続けて囁けば拓海は激昂し声を荒げた。
「だって!あれは啓介さんが…」
「……啓介?」
 意外な人物の名が、この場面で現れ涼介は目を眇める。
 そして脳裏に、
『大変だな、アニキ』
 と毎回の言葉の後に、
『ま、俺も協力してやるよ』
 と言われた事を思い出す。
 それが今から三日前。
 拓海は啓介に早朝の豆腐の配達時に待ち伏せされ、「単刀直入に言う」の切り出しとともにこう言われたのだと言う。


「お前、ホワイトデーって何か考えてるか?」
「ほわいと、でー…ですか?」
「ああ。お前、アニキからチョコを貰っただろうが」
「は、はぁ。貰いましたけど…」
「そのお返し!ちゃんと考えてるんだろうな?」
「お返し…いえ、考えてませんでした」
「だからダメなんだって。あの、アニキだぞ?女には不自由しねぇアニキが、お前のために高級チョコを女たちの渦に巻き込まれながらデパートまで買いに行って渡してんだぞ?お前…巷ではホワイトデーは10倍返しって話、知らねぇのか?」
「10倍?!」
「…やっぱりか。ああ、アニキ、かわいそうになぁ…。あんなに努力したのに、コイツには全然伝わってねぇし」
「ど、どうしよう、俺…何も考えてませんでした」
「そんな事だろうと思ったぜ。そんなお前に、この俺が良いアイデアを教えてやるよ」
「どんな、ですか?」
「あのな、藤原…」


 ニヤリと微笑み、啓介が教えてくれたのは件の事。
「『俺がプレゼント』って…」
「………」
 涼介は啓介の「嘘」を知った。
 確かに拓海に渡したチョコは高級ではあるが、デパートには直接買いには行かず、高橋家御用達のデパートの外商に頼む取り寄せたものだ。
 十倍返しもまた大げさだ。涼介の耳にした話では三倍返しだとか。
 啓介が拓海を煽り不安にさせ、こんな暴挙に駆り立たせたのだろう。
 そしてその作戦は成功。
 涼介は生まれて初めて弟を持った事を感謝した。
「じゃあ、俺にリボンを付けるのも啓介のアイデアか?」
 しかしながら、啓介の手に踊らされていたようで少々プライドも傷付く。
 我侭だと承知しているが、いかんせん、兄としての意地もある。
「いえ、あれは違います」
「…え?」
「あ……」
 失言したとばかりにまた拓海が枕で顔を隠す。
 涼介はそんな拓海から枕を奪おうとするが、拓海も抵抗し二人で枕を引っ張り合う。
「言えよ、何?」
「やだ、言わない!」
 もみあう内に、拓海の手が一枚の紙片に触れた。
 手に触れたものを掴み、目の前に翳した途端、拓海の顔が一気に真っ赤に染まった。
 そして涼介は見覚えのある紙片に、枕を奪いあっていたことも忘れ、硬直する。
 ボスンと、二人の間に枕が落ちる。
「……涼介さん…これって…」
 それは一枚の写真。
 いつも涼介が欲望解消に使用している大事な写真だ。
「何で俺の写真…こんな所に…」
 まるでエロ本を母親に見つかった少年のように。涼介は居たたまれない。
「何かよれてるし…それに…」
「匂いを嗅ぐな!」
 拓海の手から写真を奪い取り、真っ赤な顔で目を背ける。
「…クソッ!」
 気まずさから髪をかきむしる。
 まさかオカズにしていた写真の相手に、当のオカズを見つけられるとは…哀れすぎて涙も出ない。
「…分かれよ。こんなところに写真を置いてる意味なんて…聞かなくても分かるだろ?」
 拓海の視線を感じる。それがまた羞恥心を煽る。
「…涼介さんでも…一人でするんだ…」
 そう呟かれ、「俺を何だと思ってる?!」とヤケになってくる。
「するだろ、普通。惚れた相手がいるのに、手も出せねぇで我慢してたら嫌でも溜まるだろ?…写真くらいいいじゃねぇか。お前にしか勃たねぇんだ。写真でもなきゃやってらんねぇだろ?!」
 そして言わなくても良いことまで暴露する。
 言った後に、拙いと言う感情はあるが、今更言葉は戻らない。
 恐々と拓海の反応を待つが…いつまで経っても言葉が無い。
 ふと、背けていた視線を拓海に向けると、彼はゴロゴロとベッドの上でのたうちながら顔をまたも枕で隠している。
「…どうしよう…すっげぇ恥ずかしい…」
 チラリと、涼介を枕を外し見たかと思うと、また照れ顔を隠す。
 そんな可愛い姿に、涼介の顔がまた緩む。
 どうやら、拓海は不快感を感じなかったらしい。むしろこれは喜んでいる?
「拓海」
「……や」
「…嫌じゃなかったか?」
「………」
 無言のまま、首を横に降ったのが枕に隠されていても分かった。
 涼介の口元がニンマリと緩む。
「本当に…俺はお前が好きなんだよ」
 ピクリ、と拓海の体が一瞬震え、そしておずおずと枕の下から顔が覗く。
「なぁ、お前は?」
 また、ブルブルと拓海が首を横に振る。
 けれど涼介はもう焦らない。答えを得ているから。
「言ってくれよ。俺だって不安なんだ。お前に、嫌われたんじゃないかとか、幻滅されたんじゃないかとかな」
 そう告げると、真っ赤な顔の拓海は枕を外し、そして涼介の首のリボンに手を伸ばした。
「このリボン…俺が考えたんです…俺だって、涼介さんをプレゼントに貰いたかったから…」
 心臓のど真ん中に矢が突き刺さったかのような衝撃。
「俺だって…涼介さんを貰ったら嬉しいから…」
 堪らず、涼介は拓海の唇にキスをした。
 含み笑いながら彼の口の中にも笑みを注ぐ。
「……また?」
「…優しくする」
 小さく、拓海が頷いた。愛おしい。
「…暫く…写真必要なさそうですね」
「いや、必要だろう」
 写真を放り投げようとする拓海の手を、涼介が留める。
「俺は毎日拓海が不足してるからな。会えない分はこれで補わないと」
 そう写真にキスをしながら告げると、拓海は写真に張り合うように自らキスをしかけてきた。
 真っ赤な頬で、勢いが良すぎて歯が当たり痛みを感じる。
 だが。
「写真じゃなくて…」
 嬉しかった。
 この上なく。
「ホンモノの俺にキスして…」
 涼介は微笑みながら、拓海の願い通りにした。




2007.3.18
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