レモンの日
「会えない」
そう言った次の日。
決まって恋人の体からは、違う匂いがした。
車も、いつも煙草と恋人のコロンの混じった匂いしかしないのに、室内には脱臭剤が置かれ、作り物の甘ったるい匂いが充満している。
「…そりゃ浮気してんだろ?」
そう答えたのは、会社の先輩。
会社の帰りに飲み会があり、薦められて断れず、ついつい飲んだビールが拓海の口を柔らかくした。
「それにしても、藤原から恋愛相談を受けるとはなぁ。お前、あんまり自分のこと話さないから、そう言うの苦手なのかと思ったよ」
熱燗を片手に、真っ赤に顔を酔いで染めている先輩の言葉に、拓海は黙って俯いた。
相談したくなかったわけじゃない。
ただ、誰にでも気軽に話せるような相手ではないし、そんな軽い恋でも無かった。
「で、相手どんな奴だよ?まだ学生ってことは年下か?…あ、でも車に乗ってるって事は、同級生とか?」
「…いえ、年上なんで…」
「そっか。年上のお姉様かぁ。藤原、かわいいもんなー。確かに年上から可愛がられるタイプだよ」
『…確かに可愛いってよく言ってくれますけど…お姉様なんじゃなくて、お兄様なんですよ』
なんて、そんな事が言えるはずもなく、拓海は曖昧に笑ってごまかした。
「それより、他の匂いがしてるのって、やっぱ、浮気…だと思います?」
「そーだろ、普通。匂いなんて余程じゃなきゃうつらないし、会えないって言った次の日に必ず違う匂いがしてるんだろ?そんなの完璧浮気に決まってんじゃん」
「…次の日って言うか、翌々日とかでもそうなんですけど…」
「どっちにしろ、怪しいときはたいていそうだって。でも、まぁ、落ち込むなよ。車にニオイ消し入れてるって事は、少なくともお前にはそれを知られたくないって事だろ?だったらまだ好きだって事なんだろうしさー」
先輩が慰めるように背中を叩くが、拓海の慰めにはならなかった。
『…やっぱ…浮気…してんのかな…』
ずっと不安に思っていたことだった。
それを、つい酒の勢いで相談してしまい、自分でも本当は気付いていた答えを他人からダメ押しされた気分だった。
浮気、ならまだいい。
本当は自分が浮気とか?
いや、それとも遊び?
そんな不安がいつも消えない。
だって仕方がない。
拓海の年上の恋人は、顔もスタイルもモデル張りに良くて、おまけに頭も良くてお金持ち。
全ての男たちが憧れるような物を全てを兼ね備えた完璧すぎる人だから。
「でも俺よりも、そんな相談なら高橋さんにすればいいんじゃないか?あの人なら経験豊富そうだし、いい答えくれるだろ?何しろ、群馬の走り屋の憧れるカリスマ、『高橋涼介』だからな」
目の前の先輩は、実は池谷たちが率いる秋名スピードスターズのメンバーだったりする。
もちろん拓海が秋名のハチロクである事も知っているし、Dの活動で仕事の便宜を色々図ってくれたりする。以前から顔見知り程度であったのだが、会社に入って一番親しくしているのはこの先輩だろう。
だからつい口が軽くなってしまった。
「言えないっスよ、こんなこと…」
「そうだな。まぁ、あの高橋涼介に、そんな相談できないよな。恐れおおくて…」
一人、納得顔で頷いている先輩を横目に、拓海は溜息を零した。
『言えるわけねぇじゃん。だって、その年上の恋人ってのが、その高橋涼介なんだから…』
まさかその当の本人に、浮気相談なんて出来るはずもない。
拓海は苦い気持ちをごまかすように、目の前の杯を空にした。
涼介と付き合うようになって早や数ヶ月。
Dの活動とともに向こうから告白を受け、信じられない気持ちのままに頷いて、恋人同士と呼ばれる関係になった。
涼介が自分を好きなのは本当なのだと思う。
他の人間には見せない柔らかい笑み。そして嬉しそうに自分を見つめるあの瞳。そして二人きりの時にだけ見せる、熱っぽい欲をはらんだような眼差し。
あんな目で見つめられ、気持ちを疑うほど鈍くはないと思う。
「好きだ」
とか。
「可愛い」
とか、こちらが困ってしまうぐらい、惜しみなく与えられる言葉。言われる度に恥ずかしくて赤面してしまうが、胸の奥で喜びに震える自分がいる。そして今よりもずっと深く、気持ちが自分の中に染み込んでいく。
だけど…。
最初からそうだった。
「すまない。明日は都合が悪くて…」
そう言う日があるのは理解できている。
忙しい人だとの認識もある。
だからそう言われること自体は別に文句はなかった。
けれど、ふとした時に気付いてしまったのだ。
「会えない」
そう言った日の翌日の彼の体から、いつも香るグリーンノートの香りではなく、柑橘系の匂いがすることに。
そして気付いてみれば、会えないと言われた次の日には必ずその匂いがした。
最初はコロンを変えただけなのだと思っていた。
だけど暫くすると彼の香りはグリーンノートに戻り、車の中の脱臭剤は消えている。
もしかしたら…。
そう思う気持ちを胸に秘め、ずっと不安を抱えたままでいた。
それが、他人から確定の言葉を聞いてしまったことで暴れだしそうになっている。
『仕方ない。あの人はあんなにカッコいいんだから…』
そう思う気持ちと共に、
『何で、俺がいるのに浮気するんだよ!』
そう怒鳴って、暴れる自分の気持ち。
ぐるぐると混乱しているところに、涼介から電話がかかった。
「…藤原?すまない。明日、都合が悪くなった。暫く会えないと思う」
自分の気持ちも知らないで!
そう思った。
だから…。
「分かりました。涼介さんも忙しいかも知れないですけど、体には気をつけて下さい」
ものわかりの良い恋人のふりをして、拓海は電話を切った。
…会えない、ってんなら…押しかけてやる!!
ぎゅっと、涼介の言葉を伝える携帯を握り締め、拓海は嫉妬と怒りに満ちた表情でうっすらと微笑んだ。
翌日。
拓海が向かったのは高橋邸。
押しかけてやる、と勢い込んだのはいいが、どこに押しかければいいのかを失念していた拓海だ。
もしかしたらそのままどこかへ行ってしまうのかもしれない。だったら拓海には追跡の仕様がない。
どうすればいいのか分からず、とりあえずいつものように高橋邸へ向かった。
運が良ければ、いったん帰宅した涼介を捕まえられるかもしれない。
自分の車が自宅に停まっていたら警戒するだろうから、わざわざ電車で彼の家へ向かう。
着いた玄関先で、またも拓海は困っていた。
いつもは涼介と一緒に家に入るか、彼に電話をすれば向こうから玄関の扉を開けてくれる。
けれど勿論その彼はおらず、拓海は門前のインターフォンを前に悩んでいた。
『こんなの押して…それで、俺、何言えばいいんだ?!』
涼介さんの友人、ってのは違う。だいたい年齢が違いすぎるし、接点が無さ過ぎる。知り合いだと言っても、その知り合いが何の用だと言われれば、どうしていいのか分からない。
拓海は衝動のままに押しかけてきたのはいいが、自分の考えの無さを悔やんだ。
しかし門前でうろうろする、不審者丸出しの拓海にその時救いの音が現れた。
もう聞き慣れ馴染んでしまった、啓介のFDの音
案の定、FDはすぐに高橋邸の前までやって来て、そして運転席に座る啓介が門前に立つ拓海に気がついた。
「あれ、藤原?お前、何してんだよ、そんなとこで?」
「あ、あの、その…」
心にやましいことがあるので、どうしてもしどろもどろになってしまう。
「ああ、まぁ、いいや。ちょっと待ってろ、今、鍵開けるから」
そう言い、啓介は拓海の前を通り過ぎガレージに車を停め、立ちすくむ拓海を振り返った。
「うちに来たんだろ?とりあえず入れよ」
「は、はい。お邪魔します…」
オタオタしながらも、拓海は啓介に続いて家の中に入った。
だが後ろから付いて入る際、拓海は啓介が抱える大きな袋の中身に気付いた。
「…啓介さん」
「ああ?」
「それ、レモンですよね?」
半透明のビニール袋いっぱいに黄色いレモン。
「レモン、そんなに好きなんですか?」
黄色いから。
やっぱりこの人、黄色が好きなんだなぁ…なんて拓海が思っていると、頭にバシリと平手が入る。
「んなワケねぇだろ。これはアニキが使うんだよ」
「えっ?」
「あ、そういやお前、今日はどうしたんだよ。今日はレモンの日だろ?」
「は?!…レモンの日って…何ですか?」
「あれ?お前、知らねぇのか?…あ、あー…なるほど…」
「何ですか?一人で納得しないで下さいよ」
ふてくされ、口を尖らせ問いかける拓海に、啓介はニヤニヤと意味ありげに笑った。
「んー、いや、お前、アニキに愛されてんなぁと思ってさ」
何の脈絡もないところから振ってきた言葉に、拓海は動揺を隠せず真っ赤になる。その拓海の反応に、啓介の笑みは深くなった。
「い、いきなり変なこと言わないで下さい!」
「変なことじゃねぇよ。事実だろ?アニキも結構、純情してんじゃん。お前に知られたら嫌われると思ったんだな」
「…嫌われるって…何がですが?」
「んー、まぁ、アニキが帰って来たらすぐ分かるよ。どうせ、お前アニキに会いに来たんだろ?」
「…そーですけど」
「じゃ、俺もう行くから。朝まで帰らねーって言っといて」
その言葉に、さらに拓海の赤面がひどくなる。
しかし啓介は今度はからかいもせず、
「いや、そう言う意味じゃなくてな…でも、これでもしお前がアニキのそばに朝までいれたら、俺、すっげぇ愛情だと思うわ」
「は?」
「ま、医学生のコイビトやるんだから、それぐらい覚悟しないとな」
「え?」
「じゃーな。後はよろしく」
止める間もなく啓介は玄関へ向かい、そしてすぐにFDの爆音が響き、遠ざかって行く。
家の中には拓海一人。
「…すっげぇ無用心」
誰もいないリビングで、拓海は大量のレモンを前に途方に暮れていた。
さっき、啓介が謎々のような言葉も残していった。
それも拓海にとっては途方に暮れる一因にもなっている。
どうやら今日は涼介の「レモンの日」とやらであるらしい。そしてどうも浮気では無いみたいで、そして啓介いわく、拓海は涼介に愛されているらしい。しかも、涼介の純情??
分からないことだらけだ。
レモンに純情に愛情に?
拓海はレモンを一個掴んで、まじまじと眺めた。
とりあえず涼介が帰って来たら、すべては分かるらしい。
思わず力がこもり、ぎゅっと握ってしまったレモンから酸っぱい香りが漂い部屋の中に広がった。
そしてふと、気付いた。
「…そういやこの香り、涼介さんからいつもしてたのと似てるかも…」
さらに謎は深まる…。
一時間ほど、そうやってぼんやりしていただろうか。
ふと、外から聞いただけで胸の鼓動が跳ね上がる、FCの音が聞こえた。
『帰ってきた!』
喜び勇んで玄関に向かい、ドキドキしながらその扉が開くのを待った。
FCのエンジン音が止み、ガチャガチャと鍵を開ける音がする。
ギィ、と扉が開いた瞬間、
「お帰りなさ…」
笑顔だった拓海の顔が歪み、声が途中で途切れた。
目の前の人物。
それは確かに拓海の大好きな涼介で、多少、疲れでよれた感じはあるが、端整な美貌はそのままで、衣服もそう乱れも無い。だいたいいつもと同じだ。
だが――。
「ふ、藤原?!!」
扉を開けた涼介も、玄関に立つ拓海にびっくりしていた。
まさか、いないと思っていた人物がそこにいるのだから。
そして次に思ったのが、「マズい!!」と言う感情。
目の前の拓海を見れば、案の定、彼は顔をしかめ、とても苦いものでも飲んだかのような顔になっている。
「…涼介さん…これって…」
鼻で息をしていないのだろう。やたらと荒い息で、そして詰まった鼻声の拓海に、涼介は深く、深く溜息を吐いた。
「だから…会えないって言ったのに…」
涼介の体からは、拓海が今まで遭遇したことが無いくらいの…ものすごい悪臭がしていた…。
大量のレモンはお風呂場に。
湯船に浮かべるのではない。
半分に切ったそれで、髪の毛はもちろん体全部を隅々までレモンで擦って洗うのだ。
「匂いの成分がもう毛穴にまで浸透してしまっているから、普通の石鹸ぐらいじゃ落ちないんだ」
ゴシゴシと、レモンで頭を一生懸命に擦って洗う涼介を、拓海は同じ風呂場で、同じように裸で湯船に浸かりながら見ていたりする。
「レモンで体を洗うのは、監察医の先生から教えてもらったんだ。これが一番匂いが取れるってな」
風呂場いっぱいに広がる酸っぱい柑橘系の香り。それを阻むような涼介の悪臭。
最初は驚いたが、でももうだいぶ鼻が慣れてきた。
「この匂いって何なんですか?」
「…ホルマリン…」
「ほるまりん??」
「…今日、解剖実習だったんだよ」
「解剖…って…まさか…」
医学生で解剖。聞かなくても分かる。まさか小学生の実験のようにカエルの解剖なワケではなくて…。
「そう。ホルマリンと腐臭が混ざった匂い。…これが体中に染み付いて、なかなか取れないんだよ」
「…そ、そうなんですか…」
医学生って…大変なんだ…。
しみじみ。どこか遠い存在のように感じていた医学生というものを、リアルに感じる。
「…涼介さん、これ、頭に何かついてますよ?…トウモロコシ??」
ふと、頭を洗う涼介の髪の毛に、トウモロコシのような粒を見つけた。
手を伸ばし、取ろうとしたその手を涼介が阻んだ。
「?」
「…触らないほうがいい」
そう言って、涼介は自分で髪の毛に手をやって、粒のようなものを取り、そのまま排水溝に流した。
「何だったんですか、あれ?」
「…知らないほうがいい」
「そんな事、言われたら気になりますよ」
ハァ、と溜息をつきながら涼介が言ったのは…。
「…脂肪の塊だ」
「しぼう?…って、脂肪?!」
何の?とは聞かない。考えると恐いから。
青ざめた拓海の表情を見て、涼介は痛そうな顔のまま笑みを浮かべた。
「…嫌になったか?」
「は?」
「気持ち悪いだろう?さっきまで死体の腹の中に手ェ突っ込んでたなんて思ったら」
…気持ち悪くない、とはさすがに言えない。
「匂いも、こんなにヒドいしな…」
ゴシゴシ。体を洗う手を休めず、涼介は拓海から視線を逸らし、そう呟くように言った。
そこでやっと拓海も気がついた。
「レモンで、純情で、愛情…」
「え?」
にっこり、と拓海が微笑む。
…何だ。俺、愛されてんじゃん。
「もしかして、涼介さんが会えないって言った日って、いつもその実習だったんですか?」
「…ああ。そうだよ」
「俺に知られたら、嫌がられると思ったんですか?」
「…だって、嫌だろう?こんな、ひどい匂い…」
確かにひどい。
でも…。
「啓介さんが言ったんです」
ざばり、と湯船から立ち上がる。
「今日の涼介さんのそばに、朝までいれたらすっげぇ愛情だって」
体を洗う手を止め、呆然と拓海を見つめる涼介に近寄り、彼の体に手を触れる。
「…俺、啓介さんに自慢したいんです」
その首に腕を回し、頬を寄せ、
「俺の愛情が、こんなにすげぇんだって…」
微かに震える唇にキスをした。
「だから…朝まで一緒にいていいですか?」
そう耳に注ぎ込むように囁くと、レモンの香りのする腕が、拓海の体を抱きしめた。
彼の体から香る柑橘系の香り。
前は苛立ちしか感じなかったその匂いは、今は拓海を喜ばせる。
翌朝。
帰ってきた啓介相手に、拓海は堂々と自慢した。
「朝まで一緒にいましたよ。すごいでしょ!」
と。
だが…。
「…そりゃすごい…けどな、藤原。お前…」
「はい?」
「アニキの匂い…うつってるぞ…」
「え?」
「お前…くせぇよ、それ…」
慌てて自分の体の匂いを嗅ぐが、全然分からない。どうやら鼻が慣れて麻痺しているようだ。
「…悪い。拓海」
苦笑しながら涼介が手渡してくれたのは黄色いレモン。
二人で同じ香りになるのも悪くはないと思うけど…。
「もう、涼介さんのバカ!」
自分が臭くなるのは嫌だなぁと思うのは、決して愛情が無いからではなく…。
「大丈夫。臭くても拓海なら好きだよ」
相手に嫌われるのが恐いから。
だから、たまには同じ匂いになってもいいかも知れない。
2005.11.18