世界は奇跡に満ちている


 世界は小さな奇跡に満ちている。


 けたたましいクラクションの音に、咄嗟にブレーキペダルを踏んだ。
 路面とタイヤの擦れる音がし、涼介は自分の意識が少し遠ざかっていたのを自覚する。
 クラクションを鳴らした後続車が、涼介の車を追い越していく。
 どうやら、少し居眠りをしてしまったようだ。
 目を瞬かせ、意識をはっきりとさせながらも、よくも大きな事故に繋がらなかったものだと感心する。
 医療の現場に携わるようになって五年。
 それだけの年月を過ごすと、嫌でも人の死と言うものが、僅かな油断から生じるものだと言うことを悟らずにはいられない。
 今のような疲労による居眠り運転などで、命を落とした人間を何人見ただろうか。

 運が良かった。

 ホッと安堵の息を吐きながらも、涼介は小さな奇跡に感謝する。
『奇跡?アニキ、そんなの信じてんの?』
 何回か、走り屋時代にこんな風にヒヤリする事態はあった。
 その時に、涼介は「奇跡」と言う表現を用いた。
 すると、夢見がちなくせに現実主義者な弟がそんな風にからかい、涼介はこう返した。
『もちろん。信じてるさ』
 奇跡と言う表現はオーバーかも知れないが、涼介にはそう感じる。
 死、と言うものを、そして事故と言うものを目の当たりにしてきたからこそ、余計にそう思う。
 今、自分が危険な事がありながらも生きながらえているのは、小さな奇跡の積み重ねなのだと。
 現に、今も涼介は最大の奇跡の元、幸せを感じていられる。
 眠気覚ましにコーヒーを購入し、今度は居眠りなどしないように慎重に運転をしながら帰宅する。
 職場からそう遠くない場所に購入したマンション。
 自分の部屋のある位置を外から見上げると、カーテン越しに明るい光が灯っているのが見える。
 自然と、涼介の顔が綻んだ。
 また、小さな奇跡だ。
 エントランスを通り抜け、エレベーター前に立つと、ちょうど上から降りてきたらしく目の前でドアが開く。
 ささやかな偶然。だが、これもまた、奇跡。
 ふ、と微笑み、小さなボックスに乗り込み、上昇する。
 そして目当ての階でドアが開き、エレベーターを降り廊下を歩く。
 この、廊下を歩き、自分の部屋まで行く時間が涼介は好きだ。
 まるで、プレゼントを開ける前のようにワクワクする。
 コツコツと廊下を歩き、目当ての部屋のドアのノブに手をかける。
 鍵はかかっていないのを知っている。
 無用心だから、在宅中でも必ず鍵をかけろと言ってもなかなか守れないのだ、彼は。
 案の定、ドアノブを捻ると、ガチャリとドアが開く。
 そして開いたと同時に、暖かい部屋の空気と、そして美味しそうなシチューの匂い。
「お帰りなさい」
 ドアが開く音で気付いたのだろう。
 パタパタと、明らかに料理の途中と分かる、エプロンを着けたままの彼がスリッパの音を立て出迎えてくれる。
「ただいま」
 自然と涼介の顔に笑みが浮かぶ。

 これが、涼介の最大の奇跡。

 恋が叶ったこと。
 そして、この恋がずっと続いていること。
「涼介さん?」
 小首を傾げ、自分を心配そうに見る年下の恋人。
 昔よりあどけなさは消えたが、その容貌から愛らしさが消えることはない。
 いや、昔よりも色気を増し、密かに涼介の不安を煽る。
「疲れてるんですか?先にお風呂はいっちゃいます?もう準備してありますよ」
 自分だって色々と忙しいのに、この恋人が尽くすことを止めない。
 無理をしなくていい、と何度涼介は言ったことだろう。
 だが、彼はそれを聞かない。
『俺がやりたくてやってるんです。涼介さんに…俺と一緒にいて幸せだって…そう思って欲しいんです』
 だから俺、ずるいんですよ?
 そう困ったように笑う恋人に、涼介は幸せだと思わない日はない。
『そう言うのはずるいんじゃない。健気と言うんだ』
 溢れそうな愛情。
 恋は積み重なり、貪り尽くしたいほどの欲求を生む。
 そして不安になりがちな恋人のために、涼介は自分の心に生まれたその欲求を隠さない。
「後で入るよ。拓海と一緒に」
 そう、にっこり微笑むと、いつまでも照れ屋な恋人の顔が真っ赤に染まる。
「な、な、何言ってんスか!」
「何って…食後のデザートに拓海を食べようかと」
 バタンと、玄関のドアを閉めると同時に、彼が履いていたスリッパが飛んできた。
 それを器用にキャッチしながら、涼介はハハハと笑い声を上げた。
 照れ屋な恋人は、照れが過ぎると物が飛んでくることが多々ある。
 だが、そこが可愛くて仕方ない。
「デザートはもうあります!クリスマスケーキ!!」
 カッカと頭から湯気が出そうなくらいに真っ赤な顔。
 まるでケーキにデコレーションされたイチゴのようだ。
「ああ、そうか。クリスマスだったな」
 ネクタイを緩めながら、やたらと病院内でも浮かれていたのを思い出す。
 そして気付いた瞬間、自分の失態に気付く。
 しまった…。
 靴を脱ぎ、部屋に上がりかけたところでピタリと止まる。
「……すまない」
「え?」
 きれいさっぱり忘れていた。
「……プレゼントを用意するのを忘れた」
 言い訳をするようだが、忙しかった。
 通常勤務の他に、緊急の呼び出し、寝不足な上に、今日は難しい手術があり、12時間ほど立ちっ放しで神経を張り詰めていた。
 健気な恋人に、だからこそちゃんと愛情を返したかったのに、これでは怠慢もいいところだ。
「ああ、そんなこと」
 だが、恋人はどこまでも健気だ。
「別にいいッスよ。って言うか、普段から涼介さん、俺にお金使いすぎだもん。俺、もう欲しいもんなんてねぇし」
 それに、と恋人は言葉を続ける。
「俺、もう一生分のプレゼントもらってますもん」
 涼介の首に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
「……これ」
 ハァ、と満足そうな吐息が涼介の耳を掠る。
「…涼介さんが俺のプレゼント」
 瞬間、涼介の優れた頭脳が一瞬で思考を巡らせる。
 超過勤務のため明日は休みになった。
 そして、恋人もまだオフは続いている。
 抱きしめてくる恋人の身体を抱きしめ返し、涼介は恋人の弱点でもある自身の艶めいた低音で囁いた。
「…なぁ」
 瞬間、ビクンと恋人の身体が跳ねる。
 クス、と笑みを零しながら、涼介は続ける。
「…食事は後でいいか?」
 ぴく、ぴく、と跳ねる身体。
 意味ありげに腰のラインを手のひらでなぞると、さらに小刻みに震えが走った。
「もう、待てない。俺もプレゼントを開けていいか?」
「プ、レゼント…って…」
 潤んだ瞳が涼介を見返す。
 その眦にキスを落とし、涼介は囁いた。
「神様から俺に与えられた大切なプレゼント」
 恋が、叶うと思っていなかった。
 彼が、自分を好きになってくれると思っていなかった。
 いつか、別れが来るのではないかと、常に怯えていた。
 愛想を尽かされるのでは?嫌われるのでは?
 常に不安だった。
 けれど、それを振り払うように彼が毎日自分にプレゼントを与えてくれる。
 陳腐な言葉だけれど、「愛情」と言う名のプレゼント。
「拓海に俺をあげるから、俺に拓海をくれよ」
 世界は小さな奇跡で満ちている。
 彼に出会えた奇跡。
 彼と、想いが通じた奇跡。
 彼と、共に入れる奇跡。
「好きだよ」
 だから、変わらずずっとこの言葉を大事な奇跡に感謝と共に注ぎ続ける。
「…しょうがないですね」
 真っ赤な顔の彼が、恥ずかしそうにしながらも、涼介の身体を抱きしめ返す。
 小さな声で、そして囁き返す。
「俺も……」
 好きです。
 小さく聞こえた言葉に、涼介はさらに奇跡が増えたことを感じた。
 世界は小さな奇跡に満ちている。
 その奇跡にただひたすら感謝しながら、涼介は腕の中の奇跡が逃げないように、ぎゅっと強く抱きしめた。




2009.12.25
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