キャンディ 涼介視点




 ポケットの中のキャンディ。
 甘くて、やさしくて、そして切ない味。
 彼はずっとそれが好きだった。



『あなたは誰かを本気で好きになったことはあるの?』
 その言葉を最後に、恋人と呼ばれる相手に振られるのは何度目だろう。
 いつも同じパターンだ。
 相手から告白され、何となく付き合い始め、相手のほうが自分に愛想を尽かしていく。
 高橋涼介の恋愛は、いつもそんなふうに幕を閉じていく。
 涼介は自慢でも何でもなく、恋愛方面において上自由したことが無い。頭も誇れるほどに良く、身長も高く、顔は端整。おまけに家は資産家とくれば、好意を寄せる相手は有象無象にあふれている。
 その中から自分の好む相手の告白を受け、付き合うことは度々会ったのだが、最後にはすべて向こうから別れの言葉を告げられる。
 いわく、
『あなたは私のことなんて好きじゃないんでしょう?』
 そう言われて。
 涼介が付き合うのは、知的レベルの高い女性ばかりだ。だから皆、すぐに気付くのだろう。
 彼が、彼女たちを通して見ている別の相手を。
『あなたは誰かを本気で好きになったことはあるの?』
 その言葉に、涼介はいつでもYESの返事を返せる。
 忘れられない思い出がある。
 大切すぎて、会えなくなってしまった人。
 やわらかな砂糖菓子のようで、儚げな雰囲気を持ちながら、笑うと春の陽射しのようにあたたかい。
 この手に触れるあの子の肌は柔らかく、思い切り抱きしめると、そのままシャボン玉のように壊れて消えてしまいそうで恐かった。
 何度目かの恋人との別れの後、慰めるように、わざとらしく飲みに誘ってきた親友に、酒の酔いに任せてそんな事を吐露した。
「…涼介にそんなふうに思わせるなんて。すごい可愛い子なんだろうな《
 よく冷たいと評される自分と違い、お人よしを絵に描いたような顔の親友は、自分のそんな話を聞いたのは初めただからだろう。驚きと感心を混ぜた言葉でそう言った。
「ああ。すごい可愛かった。髪が、天然なんだろうな、ちょっと茶色っぽくて、目の色も同じ色だったな。瞳は零れそうに大きくて、頼りなげなんだけど、でもどこか意思を感じさせる綺麗な目をしていたよ《
 あの目に惚れたのかも知れない。
 そうも言うと、ますます親友の驚きは大きくなった。
「それはすごいな。そういや、お前が付き合う相手は全部、色素の薄い可愛いタイプだったな…ってことは、未だにその初恋の相手を引きずっているって事か?《
 引きずっている…。
 そうなのだろうか?
 いや、違う。
「たぶん、今でも好きなんだろうな…《
 この言葉には、さすがに親友も何も言えなくなったらしい。
 だがすぐにほっと安堵の溜息を吐き、そして涼介の肩を友人の気安さでバンバンと叩いた。
「痛いな、史裕《
 叩かれ、じんじんと痺れる肩を自分の手でさすりながら、涼介は非難の言葉を口にするが、言葉ほど口調は厳しくない。逆に笑みを含んでいる。
「いや、安心したよ。お前がそんな純情だなんてな《
 にこやかな親友の笑顔に、涼介も微笑を浮かべる。
「ああ、自分でも驚いてるよ《
 未だに、思い出すと胸が苦しくなるだなんて、本当に重症だ。
「で、その相手とはどうして会えなくなったんだ?《
 だがほんの少しの甘い気持ちは、すぐにその言葉で吹き消されてしまう。
「…母親が亡くなったんだ。うちの病院で《
「…それは…《
「最初、会った時も母親の見舞いに来てた時だった。少しずつ変化していく母親に上安だったんだろう。待合室で泣いてたんだ。大きな声で。あんまり可愛そうな泣き声だったから、ほっとけなくて声をかけたんだけど…《
 ふと思い返す。涙に濡れた瞳で、自分をじっと見つめるあの顔。
 あの瞬間、まるでぎゅっと心臓を掴まれたような心地になった。
「目が合った途端…惚れてたよ《
 少し切なそうに、苦笑いを浮かべながら語る彼に、史裕は元気付けるように今度は軽く肩を叩いた。
「それで、仲良くなったのか?《
「ああ。今考えると凄いんだけどな。会ってすぐにキスをした。しかもディープなやつだぜ?紛れもなくあれが、俺のファーストキスだな《
「ディープってお前…幾つの時だよ?《
「小五《
「小五?小学校五年生か?!じゃ、お前は10~…《
「11歳だったな《
「…あ、相手は…?《
「確か…6歳だって言ってたな《
「…ろ、6歳って…《
 常識的なこの親友には、その事実はなかなか理解できないようだ。
 涼介だって、これが他人の話ならどうかと思う。けれど、あの時は理屈じゃなかった。
 あの柔らかそうな唇に触れてみたくて、そしてそれを実行した。
「仕方ないだろ?理屈じゃねぇよ、こんなのは《
「そ、そうだけどさ…。でも、母親が死んで大変だったのは判るけど、何で会えなくなったんだ?《
「……次に会ったのが…その子がうちの病院に入院した時だったんだよ《
「入院?病気か何かか?《
「ああ。病気、と言っても…心の病気だな。笑いもしない、泣きもしない、言葉も喋らず、そして食事もしない。見かねた父親が、心療内科に入院させたんだ。きっと母親の死がショックだったんだろうな《
「そうか、まだ6歳だもんな《
「俺が行っても何も判らないんだ。で、担当の医師が言うには、今は母親の死を受け止めるのを拒否している段階だから、それを思い出させるようなことは控えるように、ってな。だから俺にも来るなって言ったんだ《
「それで、従ったのか?《
「まだ子供だったからな。それで治るなら、それでも仕方ないと思ったんだ。実際、その後すぐに回復して、家に帰ったしな。…ああ、その時だよ、俺が、医者になろうって思ったのは。悔しかったんだ。あの子があんなふうなのに、何もできなかった自分が。だから次は絶対に自分が守るんだって、そう思ったよ《
「そうか…。その子、今はもう会えないのか?今住んでいるところとか、わからないのか?《
「子供だったって言ったろ?あの頃はそんな事を考えたことなかった。離れたほうがいい、って言われて、ショックでそれしか考えなかった。住所を調べておけばよかったって思ったのは、大人になってからだよ《
「だよな…。5歳下ってことは…高校生くらいか。女子高校生か。どっちにしろ、今手を出すのはまずいか…《
 親友の言葉に、涼介はフッと笑みを浮かべながら訂正する。
「いや、女子高校生じゃないぞ《
「え?《
「言ってなかったか?あの子、男の子だったんだよ《
「は?《
「だから、男子高校生だろうな《
「………《
 常識的すぎる親友にはその言葉は衝撃だったようで、今度はどんな言葉も返ってこなかった。



 今でも思い出せる。
 あの時の臍を噛むような想い。
『…おにいちゃん、またあえる?』
『会えるよ。君がそう思ってくれるなら』
『わすれない?』
『忘れないよ』
『ほんとう?』
『本当。指きりしようか?』
『うん』
 小指を繋いで、指きりの歌を歌った。
 子供の時間にしては長い二ヵ月後。
 涼介はもう一度あの子供と再会した。
『約束だよ。また会おうね』
 その約束をしたあの少年は、だが次に会った時にはまるで壊れた人形のようになっていた。
 …わすれない?
 そう、上安そうに問いかけた少年の瞳は遠くを彷徨い、何を言っても、触れても反応は返ってくることは無かった。
 それでも諦めきれず、一週間ほど涼介は彼の病室に通った。
 そしてその度に、彼の手を握り、日々のつまらないことなを話しかけ、彼の言葉を待った。
 涼介はいつまでも待つつもりでいた。
 だが、彼の担当である医師は、そんな涼介にこう言ったのだ。
『涼介くんの気持ちはよく分かるが、君が来るのは彼にとって逆効果なんじゃないかと思うんだ』
 ショックだった。
 柔らかい言い方をしているが、それは明らかに涼介の存在が、彼のためにならないといっていたのだから。
 悲しくて、悔しくて、何の力を持たない自分を呪った。
『最後に…一回だけ会ってきていいですか?』
 そう縋る涼介に、医師は迷惑そうな顔を殺しながら頷いた。
『最後だからね』
 そう念を押して。
 向かった病室の、小さな彼の身体には大きすぎる白いパイプベッドの上でぼんやりと座る彼の顔には、涼介の期待する表情はなかった。
 ぼんやりと遠くを見つめたまま、目の前にいる涼介を見ず、言葉も聞いてくれない。触れても分からない。
 いつものように、涼介は拓海の小さな手を握り締め、そして語った。
『今日で最後なんだ』
 彼の返事はもちろん無い。
『もう、来れないんだよ?』
 彼の表情は変わらない。
『約束、覚えてる?』
 握り締めている彼の手を、自分の頬に触れさせた。自分を、少しでも覚えさせておきたくて。
『僕は覚えてる』
 自分の頬が濡れているのを、彼の手が湿ったことで気が付いた。
 悲しくて、胸が張り裂けそうで。でも、どうしようもなくて。
『…忘れないよ、絶対』
 小さな、彼の身体を抱きしめる。細い体。まだ幼い子供なのだ、彼は。そして大人びているとはいえ、まだ自分は無力な子供でしかない。
 …いつか。
 いつか、この子を守れるぐらいに強くなろう。早く大人になって、そしてもう二度とこの子を泣かせないように。
 そっと、その体を引き離す。やはり彼の表情に変わりはなく、目は遠いところを見たままだ。
 寂しい、と思うのはきっと自分のエゴ。
 そして、吊残惜しげに彼の小さな唇にキスをするのは、ただの我が侭だ。
 最初の時の、甘いキャンディの味ではない。
 塩辛い、自分の涙の味のするキス。
 こんなキスはもうしたくない。
 だから、今は離れよう。
 だけどいつか…。
 大人になって、もっと強くなれたら…。
『…約束だよ。また会おうね、拓海』
 小さな手を握り締め、そう祈った。
 まだ子供だった。あの頃は。
 そう願うばかりで、希望ばかり大きくて、実際にそれを実行する具体的な手段を考えていなかった。
 だから、彼の住所も知らないままにあの手を離してしまった。
 最後に会ったあの日から二日後に、拓海は回復して退院をした。
 再び彼に会う手段を講じていないことに気付いたのは、それから暫く経ってからの事だ。漠然と、また会えると思い込み何も考えていなかった。
 あの時。
 最後に自分が出来たのは、何も反応しない彼の手に、初めて会ったあの日、二人で分け合ったキャンディを握らせたことだけ。
『これ、あれからよく食べてるんだ。拓海を思い出すから』
 あのキャンディは大人になった今でも食べている。理由は大人と呼べる年齢になった今でも子供の頃と変わらない。拓海を思い出すためだ。
『君も、これを食べたら僕を思い出してくれるかな?』
 悲しい気持ちのままに別れた心は、あの頃よりも大人になって、それなりに強くなった今でも燻ったまま抱え続けている。
 彼のいないどうしようもない切なさを、他の人間で間に合わせて、そして改めて違うと確認し徒に傷を増やしていくだけ。
「アニキ、最近誰とも付き合ってないんだって?《
 学校が違う弟にそう聞かれた時、苦笑しか出なかった。
「誰に聞いた?《
「誰って言うか、まぁ、アニキは有吊人だからさ。自然と色々耳に入ってくるんだよ《
 誰かを身代わりにすることを止めて、以前から熱中していた車の世界に本腰を入れるようになったのは半年前から。彼と出会って、もう12年の歳月が経った頃だった。
「前は結構、来る者拒まずって感じだったろ?何でいきなり禁欲生活になったわけ?《
「…それを言うなら、お前も一緒だろう?《
 荒れていた時代を当てこすり、そう言い返してやると、単純な弟は目論見通り顔を真っ赤に染めて憤りを見せた。
「俺は今は車一筋なんだよ!《
 車に嵌る前の弟が、女性関係において清かったとは言いがたいのを知っている。だが短気なところはあるが誠実な弟は、自分のようにいい加減ではなく、ちゃんと相手を好きになって、そして真剣に一人と向き合って交際していた。
 だが、自分にだって、この弟と同じ部分は確かにあるのだ。
 心の奥底に隠したままの、彼に負けないほどの情熱を。
「…俺だって一途だよ?《
「そっか。今、やっとアニキも走りに本腰入れてきたもんな。今度は秋吊に行くんだろ?《
 案の定、弟はそれが車のことだと思い込み、笑顔になった。
「ああ。お前に抜かされる前に、早く引退したいからな《
「何だよ、それ…マジで言ってねぇだろ?《
 笑顔の次はすぐにふてくされた顔になる。コロコロと変わる表情。
 だが涼介は真剣にそれを言っている。
 いつか、弟は自分を抜かすだろう。今は無理だが、この先遠くない未来で。
 そうなった瞬間、自分に何が残るのかを考える。
 拓海のこと以外で、今の涼介を支えるのは車のことだけだ。
 それに対する自負さえ失えば、涼介が今の自分に一生懸命に被せている強い大人の張子は崩れるだろう。
 負けた、弱い自分。それはあの病室で、何も出来ず拓海の手を握ったまま泣くことしか出来なかった自分を思い出させる。
 だから。
「本気だ。だがその前に、やる事はあるがな…《
 負ける前に頂点を目指し、そして強い大人のまま引退する。そう思った。
 狡いのだ。
 臆病でもある。
 プライドもあるのだろうが、それだけではない。
 失う痛みを知っているから、もう何も失いたくないのだと思う。
 けれど――。
 啓介とそんな会話を交わした数日後の秋吊の夜。
 涼介は「彼《を見た。
 眩いヘッドライトが散乱する中、一人ぼんやりと佇む彼を見た瞬間、涼介は叫びだしたくなるのを堪えるのに必至になった。
 印象はあの時のまま、大きくなった拓海。
 零れそうに大きな瞳はそのままで、柔らかそうな頬も同じだ。手触りのよいふわふわの茶色の髪もあの時と変わらず、そして彼の眼差しだけは病室で見たときのような、どこか遠くを見つめる目をしていた。
 見た瞬間に分かった。
 彼が、そうなのだと。
 けれど、病室で見た時と同じ目をする拓海に、涼介は躊躇いを感じた。
 あの時のように、自分は彼のためにならないのかも知れない。
 臆病な心がそう騒ぐ。
『約束だよ。また会おうね』
 あの約束も、自分のことさえ彼は覚えていないのかも知れない。
 涼介は悩んだ。
 バトルの事も、啓介が早朝に見たという秋吊の幽霊とやらの事も忘れて。
 だが。
 バトルの相手の吊前は藤原拓海。
 そして啓介の言っていたハチロク乗りも拓海。
 着々と、やる気のないままに勝ち進む彼は、とうとう自分まで負かし、涼介にとって最後の砦であったものを壊した。
 けれど。
「…俺のほうが速かったとは、そんなふうには絶対思ってませんから《
 白い頬を真っ赤に染めて、けれど自分の言いたいことを真っ直ぐな気持ちで伝え、あまつさえ自分のように臆病にも奢ることなく純粋なままの拓海に、改めて好きだという気持ちが湧いてくるのを感じた。
 プライドは壊された。無敗の伝説も今は過去のもの。
 そして、拓海への悲しい別れに終わった恋も、すでに過去のものなのだと涼介は気付いた。
 燻っていた恋心が消える。
 その代わりに、新たに涼介の中に沸き起こり支配する感情。
 二度目の恋も、同じ相手だなんて運命だ。
「お前、いい奴だよ。気に入ったぜ《
 過去は戻せない。
 だから。
 新しく始めればいい。
 自分でも意識しない鮮やかな笑みが涼介の顔に浮かぶ。それを向けられた拓海の顔は、まるでユデ蛸のように赤くなり、どぎまぎと目を逸らし、けれど目を離せないようにチラチラと見つめてくる。
 昔と変わらない、あの瞳。
 頼りなげでありながら、芯のある強さを孕んだ瞳。
 きっと拓海はもう忘れているだろう。
『…お兄ちゃん、また会える?』
『会えるよ。君がそう思ってくれるなら』
『忘れない?』
『忘れないよ』
『本当?』
『本当。指きりしようか?』
『うん』
 小さな子供の頃の約束。
 だけど。
 自分は忘れない。
 そしてもう二度と離さない。
 あの頃よりも大人に、そして狡くて臆病にもなったから。
「…また会おうぜ《
 脳内ではもう拓海を手に入れるためのシュミレーションが行われている。
 そのまま奪い去りたい衝動を堪え、平静を装い彼の元から去った。
 あの頃、立ち去る背中を見ていたのは自分ばかり。
 けれど、今は彼が自分を見送る。
 その姿をバックミラー越しに見つめながら、涼介は微笑んだ。
 そしてふと、ポケットの中にいつも忍ばせていたキャンディを口に含む。
 昨日までは、ほろ苦い甘さしか感じなかったそれは、昔、拓海と二人で食べた時のような甘さを感じる。
『僕は覚えてる』
 昔と同じ味。
『…忘れないよ、絶対』
 けれど昔よりも、甘く感じる味。
『…約束だよ。また会おうね、拓海』
 でも今でも変わらず好きなままの味だった。



 ポケットの中のキャンディ。
 甘くて優しくて、切なくて、でもとても幸せな味。
 昔からずっと、いつだって大好きだった味。







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