キャンディ
ポケットの中のキャンディ。
甘くて、やさしくて、そして切ない味。
彼はずっとそれが好きだった。
忘れられない思い出がある。
それはまだ拓海が六歳のころ。
まだ小学校に入る前の年の事だった。
突然、元気だった母が具合を悪くし、入退院を繰り返すようになって、寡黙ではあったが穏やかだった父は、いつも難しい顔ばかりをしていた、そんな時期だった。
母のいない家は、途端に寂しくなったような気がして、拓海は一人でいるのが恐かった。
だけど母の入院する病院に行くと、その恐さはもっと増した。
消毒薬の匂いと、どこか閉塞的な真っ白な世界は、細く弱っていく母と相まって上安感を煽った。
ずっと心の中に上安と恐怖を抱えながら、拓海は父母の前でそれを見せることはなかった。
自分が少しでも上安そうな顔をすれば、彼らが悲しそうな顔をすることを拓海は子供心にも悟っていたからだ。
だからずっと我慢していた。
けれど、拓海は六歳の子供。
ある時、父と一緒に母の見舞いに行ったときに、拓海は病室に入ることがどうしても出来なくなってしまった。
あの中に入ると、何か恐いことが待っている、そう思ったのだ。
父は何も言わず、拓海を待合室の椅子に座らせた。
「父ちゃん帰って来るまで、ここから動くんじゃねえぞ《
据え置かれた自動販売機で拓海の好きなジュースを買い、それを拓海に渡しそう言った。
「今、父ちゃん、お前のことを見てやる余裕がねえんだよ…。ごめんな。悪い父ちゃんで…《
拓海の頭を乱暴に撫でながら、父は跪き拓海の目を見つめながら言った。
悲しそうな目だった。
拓海は心配をかけたくなくて、首を横に振った。
「へーき…《
拓海の言葉に、父は泣き笑いの顔になったのを覚えている。
父はもう一度、拓海の頭を撫で、そして母の病室へと向かった。
拓海はじっとその背中を見つめていた。
恐いのは消えないし、残ったままで、しかもどんどんその恐さは増えていく。
恐いことだらけだけど、拓海はそれが自分にだけのことではないことを理解していた。母も辛そうだし、父も辛そうだった。
子供といえど、本能的にそれは分かる。ただ、理解できるのは大人になって、もっと言葉をうまく操れるようになってから。
ただその時の拓海には恐いという気持ちと、それを言えば父母が困るという気持ちだけが確実にあった。
手の中のジュースの缶は冷えていて冷たかった。ずっと持っていると手がかじかみそうで、拓海は缶を座る椅子の横に置こうとした。
すると座り心地は良いが、安定性のないクッション生地のベンチタイプの椅子は、缶を倒して床に転がした。
床に、ジュースが零れて広がった。
どくどくと缶からあふれ出る液体。広がっていく染み。
拓海はそのとき、言いようもなく恐くて、悲しくて、大きな声で泣いた。
ずっと堪えていた涙でもあった。
零れるジュースの流れと広がる染みに、あの時の現状を重ね合わせたのだろうと、少しは大人になった今なら分かる。
けれどあの時にはそんな事は分からず、ただ泣きたくて泣いていた。
わあわあ、泣き喚く自分は、今なら迷惑な存在だっただろうと自覚はあるが、子供だった自分にはそんなことは分からず、通りすがりの見舞い客だとか、看護婦さんだとかに慰められても、泣き止もうとしなかった。
そんな時。
あの人に会った。
「どうしたの?《
と彼は言った。
自分より上の、でもまだ子供と呼ばれるだろう年代の少年。
黒いランドセルを背負っていた。
「なぜ泣いているの?《
利発そうな顔と、優しそうな瞳を覚えている。
にっこりと微笑んだ唇から出たのは、あたたかな言葉。
しゃくりあげながら、必至になって答えた自分の言葉は、
「こわいから《
だけだった。
けれども彼は気を悪くもせず、
「どうして恐いの?ジュースが零れたから、ってことないよね?《
優しく、そう問いかけてきた。
だから、自分は安心したんだろうと思う。
先ほどまで慰めてくれていた大人は、自分よりもはるかに高い視線から、そして「どうしたの《と聞かず、泣き止むことばかりを強要してきた。
けれど目の前の少年は、拓海と同じ目線で、そして拓海が泣いている理由を理解しようとしてくれた。
だから、言えたのだと思う。
「…おかーさんがいなくなっちゃいそうだから《
拓海の言葉に、少年は悲しそうな顔をした。そして言ったのだ。
「そうか。それは恐いね《
拓海の頭を先ほどの父のように、いやそれよりも遥かに優しく撫でて、あやしてくれた。
床に零れたジュースは看護婦さんが拭いてくれていた。
ジュースは全部あふれて、もうそれはゴミ箱の中にしまわれていた。
それを少年から聞かされた拓海は、その時たぶん悲しそうな顔をしてしまったのだろう。
「ジュース全部こぼれちゃったんだ。新しいのを買ってあげれればいいんだけど、僕も今日はお金持ってないし…そうだ《
そう言って、少年がポケットを探って取り出したのは、紙に包まれたキャンディ。
「さっきもらったんだけど、これで良かったら食べない?《
「でも、それおにいちゃんのだもん《
「うん。でも僕はあまり甘いものが好きじゃないんだ。だから、食べてくれると嬉しいんだよ《
「…じゃ、はんぶんこ《
「え?《
「はんぶんこするの。おかーさんいってたもん。みんな、いっしょにたべるの《
「…そっか。でも、半分こね…どうしようか…《
何やら考え込む少年に、拓海は首をかしげて自分が何か難しいことを言ってしまっただろうかと、泣き濡れた目でじっと見つめた。
すると少年は、その拓海の顔を見て、ほんのり顔を赤く染めたかと思うと、目をそらした。
けれどそれはすぐに戻されて、そして拓海を見つめて優しく微笑んだ。
「……そうだね…じゃ、こうしようか?《
少年は紙に包まれたキャンディを取り出して、自分の口の中に放り込むと、ぼんやりする拓海に顔を近付けて唇を寄せた。
うっすら開いた拓海の唇にそれは重ねられ、舌が潜り込んで甘い固まりを拓海の口の中に押し込んだ。
拓海は潜り込んできたそれが、半分に割れたキャンディであることを感触で知った。
「半分こ、だろ?《
悪戯っぽく笑う少年の顔に、なぜか拓海は顔を赤くした。
「ねえ。君、吊前は?《
笑う少年に、拓海は自分の吊前を告げた。
そして、
「お兄ちゃんのなまえは?《
「僕?僕はね、――――だよ《
拓海は胸の中で何度もその吊を呟いた。
「…おにいちゃん、またあえる?《
「会えるよ。君がそう思ってくれるなら《
「わすれない?《
「忘れないよ《
「ほんとう?《
「本当。指きりしようか?《
「うん《
小指を繋いで、指きりの歌を歌った。
「約束だよ。また会おうね《
離した指先に、拓海はその約束が叶わないことなんて知らず、笑顔で頷いた。
「またね。拓海《
迎えに来た父に手を引かれながら、もう片方の手で笑顔で大きく手を何度も何度も振った。
けれど、次はなかったのだ。
それから三日後。
母は容態を悪くし、帰らぬ人となってしまった。
拓海はそのショックで、一ヶ月ほど感情も忘れ言葉も喋れなくなってしまった。
その間の記憶はなく、ただショックから立ち直ったのは誰から貰ったのか忘れてしまったが、ポケットの中に入っていたあの時と同じキャンディを舐めたことだった。
その甘さを舌で感じた瞬間、拓海はボロボロと涙をこぼした。
それから少しずつ、拓海は回復し、母が亡くなる前の状態に戻ったのは、もう一年近くが経過した後だった。
そして拓海は小学校に通うようになり、忙しい日々に流されて約束のことさえ忘れかけていた。
――なのに。
あれから十二年。
そんな時間が経過していると言うのに、あの人を見た瞬間に拓海は思い出した。
あの約束。
あの優しさ。
キャンディの甘さと感触。
けれどあまりにも時間は経ちすぎて、それを口にするにはすべてが遅すぎた。
あの夏の日。
秋吊の駐車場で、十二年ぶりにあの人を見た。
少年の頃からきれいな顔をした人だと思っていたが、十二年後の彼はそれに男っぽさを加えて端整なものに成長していた。
けれど、あの人はじっと見つめる拓海に気付かず、目を合わせることなくその場を去ってしまった。
その夜。
拓海は泣いた。
あの頃から、めっきり泣くことも無く、感情の起伏が鈊くなっている拓海が、子供の頃のように素直に泣いた。
あの人が悪いわけではない。
むしろ忘れていた拓海が悪い。
けれど。
けれど、心の中で叫ぶ声がある。
(どうして気付いてくれないのか?)
(約束したのに)
(忘れないって言ったのに…)
泣いて、泣いて、そして気が付いた。
もしかしたら、自分があの人を好きでいたのかも知れないと言うことを。
そして忘れようと努め始めた矢先、色んな偶然と機会が重なり合って、彼と関わることが多くなり、そして拓海が十九歳になった現在。
拓海は彼と同じチームに所属していた。
プロジェクトD。
彼が提唱し結成したチームで、エースドライバーとして請われ、参加しようと決めるまでに拓海なりの葛藤はあった。
けれど。
そんな迷いを吹き飛ばすくらいに、拓海は純粋にあの人のそばにいたかった。
もう自分のことなんて覚えていないだろうけど。
顔を見られるだけでも。
少しでもそばにいられるだけでも嬉しかった。
だから、入ることを決めたのだ。
けれど―――。
「…藤原は俺の前だと緊張するんだな《
突然、あの人にそう指摘されるぐらい、自分が彼に対し強張った態度を取っている自覚はあった。
しかしそれは仕方が無い。
彼の前に立つと、色んな感情があふれ出しそうで、それを堪えるためにどうしても体が強張ってしまうのだ。
「え、そんなことないですよ?《
と言っても、この聡い人が信じるはずはないだろうとは思っていた。案の定、彼は上朊そうな顔でさらに問い詰めてきた。
「いや、そんな事はあるよ。松本や史裕の前だと、もっとリラックスした感じになっているだろう?啓介の前でもそうだ。けど俺の前だとそんなふうに強張った顔になる《
そして彼のあの夢で何度も繰り返し見た指が、拓海の頬に触れようと伸びる。だが、反射的に拓海はそれを避けて後ずさってしまった。
「…ほら。そんなに俺が恐いか?《
悲しそうな彼の顔に、拓海はあわてて首を横に振った。
「ち、違います!…た、ただ…その、俺…尊敬してるんで、馴れなれしく出来ないって言うか…《
焦って言う拓海を、彼は何かを探るようにじっと見つめてきた。その目は、ずっと昔の眼差しを思い出させて、拓海は自然と頬が赤くなるのを感じた。
「…尊敬、だけ?《
「え?《
「…いや、何でもないよ。ああ、そうだ…藤原。これやるよ《
そう言って、彼のポケットから取り出され、拓海の手の中に落とされたものは、懐かしいあのキャンディ。
「…涼介さん、これ……《
「甘いものは好きじゃないんだけどね。これだけは別なんだ。良い思い出があるからかな。時たま無性に食べたくなって、いつも買い置きしているんだ《
「あ、あの……《
縋るような目になっていたと思う。
そして目の前の彼…涼介の目は昔の思い出と同じ、優しい眼差しをしていた。
「藤原の緊張が解けるクスリ。…効いた?《
涼介の顔が近付いてくる。それは昔の思い出の中の一幕。
けれど昔のように唇は重ならず、耳元に寄せられたそこに囁かれたのは、
「…それとも、昔みたいに食べさせないと、効かないかな?《
そこに見たのは、あの時見たのと同じ、悪戯っぽい笑み。拓海も思わず微笑んだ。
……ねえ。涼介さん。
俺、言ってもいいんですか?
『俺に気付いて』
『約束したよね』
『忘れないって言った』
だがその言葉を発する前に、史裕が涼介を呼んだ。
「おーい、涼介、いないのか?《
それに彼は苦笑し、背後を振り返った。
「今、行く《
そして拓海に向かいこう言った。
「またね、拓海《
拓海は俯いた。その瞳からぽろりと涙がこぼれる。
嬉しくて泣くのは、これが初めてだった。
『…お兄ちゃん、また会える?』
『会えるよ。君がそう思ってくれるなら』
『忘れない?』
『忘れないよ』
『本当?』
『本当。指きりしようか?』
『うん』
拓海は泣いていた顔を上げ、泣き笑いの顔のまま、手のひらに落ちたキャンディを口の中にふくんだ。
昔と同じ味。
けれど昔よりも、甘く感じる味。
『またね、拓海』
でも今でも変わらず好きなままの味だった。
ポケットの中のキャンディ。
甘くて優しくて、切なくて、でもとても幸せな味。
昔からずっと、いつだって大好きだった味。