彼の車には羽がついている


 今年の冬は寒波の影響で、雪の量が多く道路の凍結も厳しい。
 早朝。拓海は豆腐の配達時、いつもは車の影もない道路に、昨日の夜から嵌ったまま動けないでいるのだろう何台かの車を見かけた。
 どれもこれも、車高の低いFRの車ばかり。
 FRは雪道に弱い。ましてや車高が低いと、五十センチ以上ある積雪量の道を走るには難しい。
 中に人がそのままいるのもあれば、諦め、放置してしまったような車もある。
 その何台かの中に、FDの姿もあった。
 色は、もちろん黄色ではないが、そのFDの姿を見た瞬間、拓海の脳裏に浮かんだのは啓介の姿。
『…啓介さんは大丈夫かな?』
 そんな事を、欠片でも思っていたと知れれば、きっと彼は烈火の如く怒るだろう。
『この俺がそんなヘマをするワケねぇだろ!』
 だが今年の雪は、性能だとか、腕だとかを超えた影響を車に与える。実際に拓海も、慣れた秋名の峠とは言え、かなり危うかった事が少なからずあった。
 ハチロクよりも車高の低いあの車。あれでこんな轍の深い道を走れるのだろうか?
『…でも、啓介さんの家ところなんて、住宅街だし、きっとしっかり除雪されてるんだろうな…』
 未だ細い道が連なり、除雪作業のままならない自分の家の近辺の商店街の通路とは違う。ジャリジャリと、朝の気温で凍ってしまった雪の固まりを踏みながら、拓海は慎重に車を走らせた。
 雪道の運転は、道路の凍結だけではなく、視界的にもドライバーの疲労を煽る。
 いつもは色んな色彩が溢れる山の道が、一面真っ白い雪に覆われた銀世界。僅かな太陽光にも雪は反射し、ドライバーの目を眩ます。
 拓海は走り出してから、何度も瞬きを繰り返した。まるでずっと眩いライトを真正面から見続けているかのような感覚に、首筋が強張り頭が痛くなってくる。
 いつもの道。だがいつもよりも凶暴さを増した道を、拓海はいつものように走った。雪の瘤が平坦な道をダートに変えているが、今までこんな状況下で走ったことが無いわけではない。拓海には本人に自覚はないが、環境への順応性が優れている。すぐに悪路に慣れ、それに順応した走りにシフトチェンジする。
 走りながら、また啓介のことを思い出した。
 怒る啓介の姿とともに、思い出すのはあの眩い、見かけも色も派手な車。
『それに…あの車…でっけぇ羽ついてるしな…』
 クスリと、自然な笑みが零れ落ちる。思い出す。初めてあの車を見たときに、自分は本気で『空でも飛ぶんかな?』と思った。
 実際に背後から見たFDは、火花を散らし空を疾走する勢いで駆け抜ける。それを追い越したのは自分のハチロクではあるけれど、あの太陽のような鮮やかな色と、勇壮な姿は、拓海の中に深い印象を残した。
 だから、拓海は真っ白い世界にぽつんと鮮やかな色を乗せた、その黄色い色にすぐに気付いた。
 反射的にブレーキを踏む。雪の中でも、誤まる事無く思い通りに車を停車させ、黄色い車に近寄った。
 さくさくと、足元から雪を踏みしめる音。吐く息が白い。
 そっと車の中を覗き込もうとするより先に、FDのドアが開いて思い描いた通りの人物が現れた。
「…よっす」
 寒そうに、肩を竦めながらニヤリと笑う。
「…啓介さん。どうしたんですか、こんな所に?」
 …まさか、ハマってたわけじゃないよな?
 疑い、後輪を見れば、タイヤが空回りした跡もなく、やはりそれが拓海の杞憂であったことを教える。
「…あー、ま、なんつーか、雪が酷いしな。お前、どっかでハマってんじゃねぇかと思ってさ」
 それはこっちのセリフだ。拓海はムッとしたが、だが啓介の表情からそれが彼の照れ隠しなのだと悟り、すぐに笑みがこみ上げてくる。
「ハマりませんよ。俺を誰だと思ってるんスか?」
「秋名のハチロク。俺もまさか、こんな日にいつも通りに走ってくるとは思わなかったぜ」
 タバコを取り出し、口に銜え、悪戯っぽく拓海に笑いかける。
「…お前、スゲーな」
 子供のように、純粋な感嘆の言葉。けれど、その目には柔らかな熱を孕んで拓海を包む。
 ぷい、とそっぽを向きながらも、拓海の頬は赤い。ムカつく。何でこの人、こうなんだろう?
「…啓介さんこそ、スゲーっすよ。FDじゃここまで来るの、大変だったでしょ?」
「ああ、まーな。こんなに降るのなんて何十年ぶりだ?さすがに今回ばかりはコイツの車高が低いのを恨んだぜ…。きっと腹のところなんて傷だらけになってるんだろうなぁ…」
「そっすね。ハチロクでもちょっとこの雪の深さは辛いですし…」
 はぁ、と息を吐く。吐いた白い息が、啓介の吐いた息と混ざり合って絡み合う。
 視線を合わせず、暫し無言で黙りあう。
 啓介の煙草の煙ばかりが二人の間にたなびく。
 雪は音を吸い込む。しんとした世界に二人だけでいるような感覚。
 冷えた空気が肌を刺し痛みを覚える。それなのに向かいに立つ相手から、自分に向けられる熱がじわじわと感じられるようで、拓海は温かな空気を肌で感じた。
 二人の間には何十センチかの距離。ほんの少し手を伸ばせば触れ合える。
 だけど…。
「あー…、まぁ、ジャマしたな。俺、もう帰るわ」
「え、あ…はい」
 啓介の煙草が雪の中に落ちる。小さな赤い火を点らせていたそれは、すぐに雪の中でジュッと音を立てて黒く色を変えた。
 拓海に背中を向けて、啓介がFDのドアに手をかける。引き止めたいわけではなかったけど、何となくさっきまでの距離が恋しくて、拓海は思わず啓介に声をかけた。
「啓介さん!」
 啓介が振り向く。拓海と同じ目をして。
「あ、あの…その…気をつけて…」
 なのに口から出たのは、どうでもいいような言葉で、拓海は『俺、何言ってんだよ…』と自己嫌悪で俯いた。
 けれど。
「藤原」
 突然、視界が黄色く染まる。
 目の前に啓介の髪。ぎゅっと背中に腕が回されるのを感じ、拓海はやっと自分が啓介に抱きしめられていることに気がついた。
 啓介の体から、煙草の香りがする。この匂いは嫌いじゃない。これを嗅ぐたびに、啓介を思い出すから。
 離れていても熱を感じた体は、触れ合った時には火のように温かかった。心地好い熱に頬を寄せ、自分からも彼の体に腕を回す。すると温かかった熱が、さらに温度を高くする。
「……ありがとな。気ィ付ける…」
「……はい…」
 …何言ってんだ、俺ら?何でこんな事になってんだ?
 疑問なんていっぱいあるけれど、けれどこの肌に感じる温かさの前では、もう何でも良いかもと言う気がしてくる。
 力強い腕に抱かれ、自分もまた引き寄せるように腕に力を込める。
 ほんのり湿った彼の唇が、熱い息を吐きながら耳元を掠め、そして自分の目尻を伝って頬を伝う。
「…藤原…頬、真っ赤」
「…啓介さんこそ、鼻の頭、赤いっすよ?」
「さみーんだよ」
「俺だって寒いですよ」
「…もう少し…こうしていていいか?」
「…あったかいんなら…いいですよ」
 間近にある啓介の目が緩んで笑みを浮かべる。おそるおそる近付いてきた唇が、冷えた拓海の唇に重なり…やがて二人の間の冷たい冬を消した。


 例えて言うなら真冬の太陽。
 雪の中でも眩く輝き、寒い中でもほのかな熱を放つ。
「じゃあな」
 名残惜しげに体を離し、啓介がFDに乗り込み手を振った。
「事故らないで下さいよ?」
 拓海も手を振る。
 冷たかった体はもう温かい。太陽が拓海を照らして熱を残していった。
「事故るかよ。俺を誰だと思ってる?」
「…プロジェクトDのエース様でしょ?」
 呆れた顔で、拓海がそう言ってやると、啓介はその答えを予想していたのだろう、悪戯っぽくニヤリと笑った。
「…ちげーよ。お前の惚れた男だ」
「なっ…!?」
 ぶわっと全身を真っ赤に染め上げた拓海を揶揄かうように、FDがエンジン音を響かせ、拓海を残し走っていく。
「け、啓介さんのバカっ!…好きだけど」
 走り去る車の背中に怒鳴りながら、ぽつりと本音を付け加える。
 見送る車の姿は、初めて見た時と変わらない。大きな羽根と、散る火花と爆音と。
 拓海はFDを見つめながら微笑んだ。
「…本当に空飛んで来たよ…」
 空も雪も、何もかも飛び越えて拓海の中に真っ直ぐに飛んできた。
 吐く息は白い。手はかじかんで冷たさで肌が痛い。
 けれど。
 拓海はもう寒くなかった。
 空を飛んでやってきた真冬の太陽が、拓海の中に熱を残し、雪の中でも消えない温もりを残したから。
『今度はいつ飛んでくるだろう?』
 はぁっとかじかむ指に息を吹きかけ、拓海は微笑んだ。
 きっと拓海が望むなら幾らでも。
 彼の車には羽が付いている。
 空も雪も何もかも飛び越えて。
 いつでも拓海のために飛んでくる。



2006.1.17

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