青い春


 嘘を吐くのは卑怯だと思っていた13の冬。
 嘘にも色んな種類がある事を知った18の夏。

 苦い嘘を知った22の春。





 最初に嘘を吐いたのは藤原だった。
「広い世界を見ろって言ったのはアンタだろ?!アンタといたんじゃ…俺はそんなの見れねぇんだよ!」
 ヒステリックに、喚く声に目を覚ました。
 聞こえたのは階下のリビングからだった。
 自室で夜遊びの代償の惰眠を貪っていた啓介は、その声に強制的に起こされ怒りを覚えた。
 けれど、その叫び声の主が藤原であると気付くと、不機嫌はすぐに消え湧いてきたのは不安。
 藤原拓海。
 ぼうっとした見かけとは裏腹に、勝気なところもある啓介よりも三つ年下の彼は感情を内に秘める。
 怒りも、喜びも。
 あからさまに表すことがなく、ひっそりと微笑み、そして秘めやかな闘志を燃やす。
 そんな藤原が、声を荒げ激昂している。
 その状況にすぐに異常を感じ、啓介はベッドから飛び起きた。
 そっと扉を開け、物音がしないように廊下を歩き階段を下り、気配を殺しながらリビングを覗いた。
 そこにいたのは藤原。
 そして、啓介の兄。涼介がいた。
 藤原は怒りを露にし、立ち上がり興奮に肩で息をしている。
 涼介は、冷静に見えた。
 二人の足元には割れたコーヒーカップ。中身ごと落としたのだろう。砕けた破片と真っ黒な染みが絨毯を染めている。
 涼介は、身を屈めその割れたカップを片付けていた。
「……何も…言わないのかよ」
 震える声。
 啓介の視界には、藤原の顔は見えなかった。だが後姿だけでもその体が小刻みに震えているのは見て取れた。
 表情を見なくても、気配で、声で分かる。
 藤原が今にも泣きそうだと言う事に。
 涼介が顔を上げた。
「…言う必要は無いだろう」
 無表情だった。
 その顔から一切の感情を失くし、能面のように整った冷たい顔で言い放つ。
「お前がそう決めたのなら…俺は頷くだけだ。広い世界を見るんだろう?だったら…そうすれば良い」
 声にも、一切感情を見せない。
 けれど啓介には分かっていた。
 生まれた時より共に過ごし、育ち、そして一番近しい存在であったから。
 涼介が感情を見せない時。
 それは彼が、一番辛い時であるのだと。
「しょせん成り行きで始まった関係だからな。こんな形で終わるのが打倒だろう」
 感情が無ければ、無いほど。その辛さは大きいのだ。
 ブルリと、藤原の体が一瞬大きく震えた。
 俯いていた顔を上げ、真っ直ぐに涼介を見つめる。
 涼介はカップを拾い集めているため、その視線に気付かない。いや、気付こうとしない。
「…そう、ですね。しょせんそんなモンだったんですよね」
 カップの破片を拾い集めた涼介は、拓海を見ずに絨毯を濡れた布巾で拭う。
「そうだな」
 じっと、縋るように涼介を見つめていた藤原の視線が下がる。
 そんな藤原に、あっさり背を向け涼介は汚れた布巾を洗いにキッチンへ向かう。
 彼に、もう何の言葉もかけず。
 藤原は一度だけそんな涼介の背中に視線を残し、けれどすぐにそれを振り切り、わざとのように明るい声を上げた。
「…じゃ、そう言う事で。俺もう帰ります」
 涼介は振り向かない。キッチンで立てる水音だけが響く。
「もう、来ません。………さよなら」
 藤原も背中を見せ、リビングの扉を開けると同時に啓介は階段を昇り自室へ戻った。
 兄である涼介と、ライバルでもあった藤原の二人が、特別な関係にあった事には薄々気が付いていた。
 どんなに隠しても、感じる空気の違いと言うものがある。
 些細な目線。
 ほんの僅かな表情の違い。
 そして二人の間に漂う、柔らかな空気。
 認める、認めない以前の前に、啓介にとってその事実は「見たくない」現実だった。
 だからずっと気付かない「振り」をしてきた。
 今も、だから。
 気付かない「振り」をする。見なかった「振り」をする。
 家の前で、何度も何度も、名残惜しげに、溢れる涙を拭おうともせず振り返る藤原の姿も。
 兄の部屋から、癇癪を起こしたように色んな物をぶちまける音も。
 そしてその音が止んだ後に聞こえてきた、兄のすすり泣く声も。
 何も見ず、何も聞かなかったと、啓介は己に嘘を吐いた。
 二人の関係を感じ取ったあの日から積もってきた胸の奥の濁り。
 それがさらに降り積もり、窒息させそうなほどに息苦しくても、啓介は嘘を吐く。
 大音量の音楽を鳴らすヘッドフォンで耳を塞ぎ、ベッドに寝転び目を閉じて。
 啓介は苦い、苦い嘘を吐いた。



嘘を吐くのは卑怯だと思っていた13の冬。
嘘にも色んな種類がある事を知った18の夏。
苦い嘘を知った22の春。

そして。

優しい嘘を吐いた25の春。





 三年間。
 決まりごとのように兄は啓介にこう聞いた。
「…藤原はどうしている?」
 医師となり多忙を極める兄と、着々と、駆け出しながら己の夢を叶えていく啓介。
 自然、二人が接する時間も短くなり、一年の内に2、3度顔を合わせられれば良い方と言う状態が続いた。
 涼介は、その度に啓介に一通りの近況を聞いた後、必ずこう聞くのだ。
『藤原はどうしているか』と。
 それに答える啓介の言葉は簡潔だ。
「元気だよ。頑張ってるみたいだな、あいつも」
 分野は違えど、同じ夢を見て、そして同じように駆け上がっていくかつてのライバル。
 その彼とも、顔を合わせるのは稀である。
 だが、確実に涼介よりは顔を合わせているはずだ。
 啓介の素っ気無い言葉に答える涼介の言葉も同じ。
「………そうか」
 安堵と、どこか寂しさを含んだ言葉。
 その度に啓介の胸の中に、過去に吐いた嘘の痛みが蘇る。
 いつか消えると思った痛みと濁りは、年を経る毎に益々その厚みを増した。
 その理由を考えた時、啓介の脳裏に今の涼介と同じ顔で微笑む藤原の顔が浮かぶ。
 藤原も同じだ。
 兄と同様、啓介と顔を合わせる度に必ず同じ事を聞く。
『…涼介さんは元気ですか?』
 そして啓介は拓海にも同じ言葉を返す。
『元気だよ。いつも忙しそうだけどな』
 そして藤原も、兄と同じように安堵と寂しさの混じった表情で微笑む。
『…そうですか』
 嘘を吐く。
 ずっと、三年前から嘘を吐き、さらに嘘を重ねている。


『元気じゃねぇよ。いつも寂しそうだ』
『後ろばかり振り返って、不安そうな顔をしてる』
『藤原が』
『アニキが』
『いないからだろ?』


 本当を隠し、己にも嘘を吐き。
 嘘を重ねすぎて、もう色んな感情が麻痺してしまった。
 耳を塞いでも声は響き、目を閉じても脳裏に浮かぶ。
 だから最後に啓介は、辛い嘘を吐く。


 兄の結婚話を聞いたのは両親の口からだった。
 見合いの話は星の数ほどあったが、それのどれも断っていた兄だった。
 頷いた理由を、啓介は知っている。
 その話が出たほんの少し前。藤原が週刊誌に載った。
 名の売れたある女の、恋の相手として。
 啓介なら、それが嘘だと鼻で笑える。頭角を現し始めた藤原が、売名行為に使用されたのだと。
 現に、何度か啓介も経験がある。
 真っ直ぐなやり方しか知らない藤原とは違い、啓介はそんなやり方で名を売る事を真っ先に覚えた。
 だから啓介は断言できる。それが嘘であるのだと。
 けれど涼介はそうでは無かった。
「……良いのかよ」
 兄に詰め寄り、不機嫌を隠そうともせず問いかける啓介のその言葉に、涼介が自嘲の笑みを浮かべ答えた。
「…もう、疲れたよ」
 啓介は塞いでいた耳を解き放ち、閉じていた目を開けた。
 辛い。辛い嘘を吐く。啓介にとってとても辛い嘘を。
 藤原を呼び出し、最後の嘘を吐く。

「アニキ、結婚するんだってさ」

 そう告げると藤原の顔から色が失せた。
 動揺しているのに、それを隠そうとする指が小刻みに震えている。
「…そう、ですか。おめでとうございます」
 啓介は眉をしかめた。
 嘘を吐き続けていたのは啓介だけではない。
 涼介も。藤原もずっと嘘を吐いている。
「お前、それで良いのか?」
 冷静な声で問うと、藤原もまた、涼介と同じ自嘲めいた笑いを浮かべた。
「……別に。俺なんかが良いも悪いも、関係ないでしょう」
 啓介も、笑った。
 涼介と、藤原と同じ笑みを。
 そして三年前から、ずっとごまかしていた真実を解放する。
「あのさ、俺、お前に惚れてんだよ」
 もう、嘘は止めた。
「……え?」
「だから、ずっと嘘吐いてた。本当のこと、言っちまったらお前、アニキとまたよりを戻すだろ?それが悔しかった」
「…あの…啓介さん?」
「黙って…聞けよ!」
 ドン、と目の前のテーブルを叩く。
 テーブルの上のグラスが倒れ、床の上に落ちるが割れずに中身だけを零す。
 壊れたカップ。
 壊れない、グラス。
 あの時とは違うのだ。
 涼介の時のように、啓介との間に壊れるものは無い。藤原には。
 店員が来て、床を拭う間二人は無言だった。
 そして再び口を開いたのは啓介からだった。
「…アニキのところに、行けよ」
 藤原が首を振る。
「俺は嘘を止めた。だから…お前もいい加減止めろよ」
「だって…涼介さんには俺なんてもう……」
 啓介は鼻で笑う。
 二人の心情を、今一番良く知っているのは間違いなく自分だ。
 だから断言できる。
「どうでもいい奴の事なんて、俺と顔を合わせる度に聞いてくるかよ。俺の話なんざロクに聞いてもねぇくせに、お前の話になると目ェひん剥いて聞いてくる。お前に振られたのを引きずって、あれから誰とも付き合ってもねぇよ。結婚話に頷いたのも、お前に他の奴が出来たって知ったショックからだぜ?そんでもどうでもいいってのかよ」
 この二人は馬鹿だ。
「だ、だって…あの時は…!…涼介さん…何も……」
 そして自分は…哀れだ。
「あの後、アニキは自分の部屋のモンを全部ぶちまけて、俺の部屋より酷い有様にしたし、アニキが泣いたのを見たのは俺の25年の人生の中で、あれが最初で最後だ」
 この二人がこのままでいる限り、啓介はずっと自分の事が嫌いなままだ。愚かで…哀れなままだ。
「そんなの……」
 だから…。
「俺は…もう嘘は吐かねぇよ」
 嘘は卑怯モノが吐くものだと思っていた13の冬。
 けれど嘘が必ずしも悪いものではない事を知った18の夏。
 自分をごまかし、苦い嘘を吐いた22の春。
「もう…嘘はやめだ」
 再び巡って三年目の春。
 ずっと吐き続けていた嘘が終わる。
 ポロリと、藤原の持つグラスの中に水滴が落ちた。
「…俺…もう、嘘、吐かなくてもいいのかな…」
 藤原は泣いていた。
 三年前のあの日に垣間見た、あの泣き顔と同じ顔で。
 悲しくて。辛くて。切なくて。
 涙を流している。
「さぁな。アニキに聞けよ」
 コクンと頷いた拍子に、目尻に溜まった涙が再びテーブルの上に落ちた。
 藤原が立ち上がり、啓介に背中を見せ歩み去る。
 けれど、二、三歩歩いたところで藤原が振り返り啓介を見つめた。
「あの、啓介さん」
「…何だよ」
「ごめんなさい」
 ペコリと頭を下げる。
「俺、涼介さん好きなんで、啓介さんの告白受けれないです」
 啓介は笑った。
 心の底から、やっと素直な気持ちで笑える。
「バぁカ」
 最後の最後に、啓介は嘘を吐く。
 優しい嘘を。

「俺はもうお前のことなんて何とも思っちゃいねぇよ」

 一時間後。
 兄から藤原と上手く言ったのだとの電話を貰った。
『ありがとう』
 そう心からの礼を述べる兄に、啓介の胸の奥の濁りが消えた。
 けれど、痛みは消えない。
 だが。
 いつか消えるだろう。時が経ち、また何度目かの春が来る頃に。
 電話を切った啓介は、自然と自分が微笑んでいた事に気付き、また同じ気持ちで微笑んだ。



2007.4
「アイラブナナハチロク」企画参加作品
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