契約書にサインすると、別の世界。もう、そういう人。
塾生はその世界の中がどんな物か知らないから、彼はヒーローに見えているのだろう。
自分では届かない“高み”へ行ける人に自身を重ねての妄想。その都合の良い夢で、ありえない未来に酔うという不毛な行動。
くだらない。実にくだらない白昼夢。
まあ、今は深夜だけど…。
「トモさん。寒くないですか?」
オレの部屋で飲む事が多いのは便利だから。狭いアパートの部屋は、男三人で居ると余計に狭く小さく感じる。小さなコタツはトモさんに占領され、オレはつま先くらいしか暖をとることができなかった。
他人の部屋でも遠慮が無い。だから、勝手に酔っ払って、勝手に眠る事ができる。この人は自分が特別だと。そう思っているからこの態度なのだろうか…という考えが浮かんだ。
影響力は大きい。この人の言動ひとつで東堂塾の空気まで変えることが出来る人。
その走りに尊敬しているのは、オレも他の塾生と何ら変わらない。だが、彼を目標にするかと問われたら否定するだろう。
表向きは協調でも、腹の中は分からない。
そう。オレも、トモさんも。
オレはどう思われていても構わない。腹の探り合い含めての人間関係は却って心地良いものだ。綺麗事だけで世間は回らない。
皆に“どちらか”と聞かれれば、“好き”と言いつつ“嫌い”と思うオレが居るんだ。表立っての敵対は面倒だから、優しいフリをしているだけの話。
そして今も優しい顔を作って、トモさんに毛布を掛けるオレ。
ああ。なんて滑稽だろう。
「大丈夫か?酒井。」
「ええ。オレは大丈夫ですよ。あまり飲んでいませんから。京一さんは?」
「久々に飲み過ぎた。このバカのペースに付き合わされた。」
オレと飲んでもこんな風にならない。でもトモさんだと、飲み過ぎる。
その差があることを、オレは知っている。
「水でも飲みますか?」
返事を聞き終わる前に、氷水を用意して渡すと、京一さんは「すまない」と短く言って一気に飲んだ。
喉仏の動きに見入っていると、飲み終わった京一さんと目が合った。
「…どうした?」
「顔色が悪いですよ?少し休んでいってください」
「ああ。悪いな。」
優しい顔で提案すると、安心しきったように畳の上に転がる。
無防備で。その太い首筋に、警戒心は無い。
すぐに入った眠りは穏やかで、トモさんと言い合う姿はここに無い。その眠りの為に、オレは部屋の照明をおとした。
暗い空間で時々トモさんの寝言が聞こえるが、その殆どは京一さんに対する文句だ。その内容は、殆ど言いがかりといえる、幼稚なもの。
そんなトモさんと対等に話せるのは京一さん。そして、京一さんにそんな態度をとれるのは、トモさんだけ。他に誰も居ない。
いつも、オレの腹の中にある。それは、結論も意見も要らない、心の中の独り言だ。
そんなどうでもいい事を考えながら足音を立てずに移動し、手探りで押し入れから新しい毛布を引き出して、京一さんに被せた。フワっと掛けた瞬間、新しい布特有の匂いがほのかに。それと同時に届く、京一さんの匂い。
大きな身体のラインを形づけるように、隙間を埋めるように、毛布を撫でた。
それから、呼吸で動く背中に誘われるように、静かに寄り添った。
「京一さん…」
何の反応も無いのは、すでに深い眠りに入っているのだろう。寄り掛かっても邪険にされず、そのまま毛布越しに温かさを感じていた。
暗くて。温かくて。…でも、オレは眠れない。
こうしている時間はすぐに終わる。だから、起きている。
手を伸ばして、その短い髪に触れてみたり。トモさんに対しては顰めている眉を、なぞったりもした。
そして、厚い耳を指先でつまんでみたり。
もしここで目を覚ましても、酔ったフリで上手くはぐらかしますよ。現時点ではそれが、一番良い方法でしょうから。
「やめろ…トモ…」
ふざけて絡むのをたしなめるような言葉は、起きる気配も無いトモさんに向けた言葉。
そうですね、オレにそんな言い方はしませんよね。低い声の向かう先がオレではないのは、いつもの事なんだ。と。
耳から手を離して、今度は毛布の中に潜りこんだ。この子供じみた行動は、酔っているからですよ、という言葉を胸の中に用意して。
シャツ一枚の向こうに京一さんの背中がある、というシチュエーション。この体温を食らいたく、噛み付きたくなる衝動を抑える為に、深呼吸をする。
少しずつシャツをまくると、直接触れる肌。自分の手のひらが熱いのは、一体どちらの温度だろう。
本当にまだ眠っているのかが知りたくなって、背後からゆっくりと丁寧に京一さんの服を弛めた。その日常という拘束が解かれると、微かな汗の匂いがオレを刺激する。
左手で、そこを包むように握ると、僅かに反応。でも拒絶するほどの覚醒には未だ遠いのか、硬く形を変えつつあっても、振り払われなかった。
質量のある深い茂みは、できれば直接この目で見たいと考えてはみるものの。この暗闇の中で、手探りしながら想像するのもまたいいだろう。何より、一度に全部暴くのでは勿体ない。
「ト、モ…っ」
「シー…」
オレは、声を出さずに呼吸だけで京一さんの言葉を止めた。意味は分かるだろう?寝ている人が起きてしまうぞ?という脅しを込めて。
それが通じたのか、さして抵抗もされず。だから調子に乗って後ろから羽交い締めするように玩べば、徐々に上がる吐息を押し込めるよう耐えている。
その姿は、どうやってもっと苛めてやろうか…という嗜虐を刺激された。
執拗に弄れば、手の中に熱いものがドロリと。何度か脈を打ち、その度に手の中の熱が増えた。
まだ、ここに居るのがトモさんだと思っているんですよね。息を潜めてバレないようにしているつもりなんでしょうが、知られたくないであろうオレはとっくに知っているんですよ。
ここでオレがあなたの名前を呼び、種明かしをすれば、絶望してくれるでしょうか。
その目をオレに、向けてくれるのでしょうか。
トモさんではなく、オレを見てくれるのでしょうか。
ねえ?
京一さん。