ROSE 涼介編
興味から始まった感情が、恋になったのはいつだろう?
初めて彼を見た時か。
それとも初めて言葉を交わした時?
面白い奴だと思ったのが最初。
それが恋に変わったのは、間違いなくあの時だ。
『しわ、寄ってたんで伸ばしときました!』
焦って、真っ赤な顔をして大きな声で答えた彼の顔は、普段ぼんやりしていることの多い彼には珍しく感情を露にしたものだった。
常に予想外の事ばかりをしでかしてくれる奴だ。今回もその通りで、俺は思わず数年ぶりに声を上げて笑った。
俺が笑ったのを見て、彼は微笑んだ。
その瞬間から俺の恋は始まった。
誰かを見て、綺麗だと思ったことはその時が初めてだった。
ふんわりと優しい顔で笑った彼は、重くのしかかっていた俺の心の澱を溶かしていくようだった。
不思議な感覚。しかしそれでいて、俺はそれを恋であるとは気付かず、ただ彼にいて欲しくて、
『じゃあ、また寄らないように、見張っていてくれるか?』
狡さを兼ね備えた大人の心で彼にそう言った。
頬を真っ赤にして、それでも嬉しそうに微笑みながら頷いた彼の姿に、自然と俺の肩から力が抜けた。
やわらかい女の膝と違う細く硬い少年の足に頭を乗せ、眠った俺のその時の夢は、ただひたすらに優しくて、暖かくて、心地好いものだった。
目覚めた時に、俺が見たのは眠る彼の姿。彼は膝枕していた俺を、抱え込むように一緒に眠っていた。夢の中で感じた温かさと心地好さは、どうやらこの彼の腕の中の感触から来ているらしかった。すうすうと、気持ちよさそうに眠る彼の顔を見ていると、俺は今まで味わったことのない類の幸せを感じた。
愛しい。
そう思った。
胸が締め付けられるように苦しくて、それでいて嬉しくて。
泣き喚きたいくらいの感情が、俺の中で渦巻いていた。
彼の男にしては睫毛の長い大きな瞳が開き、ひたりと俺と目が合って、俺はとても嬉しくて、自然と口元が笑みを作っていたらしく、それを見た彼はまた眠る前と同じように、いやそれよりも顔を赤くして飛び起きた。
「すいません、俺いつの間にか寝ちゃって…あ、涼介さん、しわ、寄ってなかったですよ?」
一息にそう言ったかと思うと、無造作に手で口を拭い、「涎、たれてませんよね?」と叱られた子供のように俺を見上げてきた。
ぼんやりした顔と、真剣に車を走らせている顔だけしか見ていなかった俺の前に、彼は色んな顔を現してくれた。
嬉しい。
打算ばかりで生きてきたこの俺が、素直に、心からそう思った。
素直でいて、強い彼の眼差し。
ずっとそれを見ていたいと思った。
その衝動のままに、俺はその後も度々彼の元を訪れた。
彼も仕事があるのに、迷惑も顧みず呼び出し、彼の家に泊まらせてもらった。
「…眠れないんだ」
そう言って。
それは事実だった。俺は定期的に不眠症にかかる。原因は分かっている。極度の疲労と漠然とした不安感が募って、精神的に追い詰められた状態のまま眠るとたいてい悪夢ばかりを見る。夢の中の俺は常に恐怖を感じていた。様々な不安が、あらゆる方向から俺を責め、追い詰め、そして一人孤独なままにどこまでも堕ちていく。そしてやっと目覚めた俺を待っていたのは、夢と変わらない恐怖と孤独。
それらの事が重なって俺の不眠を作っていた。
あの時。
彼が俺と一緒に眠っていたとき、俺はもう忘れかけていた安堵感を覚えていた。
眠っていて、楽しい、心地好いなんて思ったのは何年ぶりだろう?
親の期待。周囲の期待。そんなものが年を重ねるごとに増えてきて、俺を徐々に押し潰していた。
けれど、彼と一緒にいるとそれを忘れた。
「何故かな。お前といるととても楽になる。安心するんだ」
つい、そう言ってしまった俺に、彼は微笑みながらこう言った。
「それは俺が涼介さんの抱えているものを、半分持ちたいと思ってるからですよ。俺は涼介さんに、いつだって笑っていてほしいんです」
今まで。
義務のように果たしてきた女との恋愛の真似事の中で、せがまれて「好きだ」だの「愛している」だのを戯れのように口にした。それらが全て、偽りの言葉だと知りながら。
けれど。
今、真摯に願いを込めてその言葉を口にしたい。
「愛してる」
お前はどんな顔をするだろう?
恋が始まったあの時に見たように、とても綺麗な笑顔を見せてくれるだろうか?
笑わないで欲しい。
困らないで欲しい。
俺を拒絶しないで欲しい。
ただ、俺は藤原。お前のそばにいたいだけなんだ。