猫になった俺様




 世の中には科学や理論では説明できない事象が存在する。
 その最たるものが、秋名のハチロクこと藤原拓海の存在であるだろう。
 若干18歳にしてあの走り。そして俺が主催するチームのドライバーとして参加した彼を、今でも理論的に説明するのは難しい。
 彼の走り、そしてあの勝負強さは俺の最速理論を超えている。
 正に彼こそ奇跡のような存在であると言えるだろう。
 そんな藤原を知ってしまった今、俺は多少の不可思議な事象には動じない。
 それがたとえ、不思議を通り越し、「異常」でしかない事態であったとしても…。


 朝、起きると、俺が俺では無くなっていた。
 俺は確かに昨晩まで高橋涼介と呼ばれる存在であったはずなのに、感触も手触りも、昨日の自分とはまったく違う体になっていた。
 目覚めてすぐに自分の姿を鏡で見た時に、考えたのはこの姿の活用法だった。
 だがそれをするにはこのままの姿では不便であるようだ。
 けれど俺は困らない。こんな時に利用できるのが弟である啓介だ。
 細かな動きが不自由な指で、何とか携帯を引っ張り出して、アドレスから啓介の名前を呼び出し電話する。
 コール音三回目で啓介は電話に出た。
「啓介。今すぐ部屋に来い」
『なんだよ、アニキ〜』
 電話の向こうで、俺の言葉を認識したようである弟を窺いながら、どうやら自分の言葉は姿が変われど、いつもの自分と変わらず、また声も同じであるらしい。
 文句を言いつつも、隣の部屋にいたらしい弟は、すぐに扉をバタンと開ける音がして、廊下をドスドスと歩いてくる音がした。
「何だよ、アニキ〜、電話で呼び出すなんて…って、あれ??」
 いつものように勢いよく扉を開けた啓介は、だが入り口付近で首をかしげて戸惑った。
「アニキ?いねぇのか??」
 きょろきょろと部屋を見回し、俺の姿がないことを確認した啓介は、だがすぐに、ベッドの上で鎮座する今の姿の「俺」に気が付いた。
「…あ、あれ?って、うわぁ。おい、お前、どっから来たんだ??」
 見たくも無いやにさがった顔を近づけて、啓介が俺に向かって腕を伸ばしてくる。
 この姿だと、啓介よりも遥かに俺の視点が下である。下から見上げた啓介は、お世辞にも好ましいとは言い難いものだった。
 不快に眉をしかめたのだが、この姿では啓介には通じないらしい。通常の姿なら俺が眉をしかめた途端、避難する奴であるのに、やはりこの姿は人に対し警戒心を薄れさせるものであるらしい。一つの確信を得て、俺は計画の実行を決意した。
「もしかしてアニキ、こいつ買ったのか?スゲェ…、これ、たぶんバリニーズだな…。このボディ。色は、白のシールリンクスポイントってやつか。珍しいな。ペットショップとかじゃ売ってねぇだろうに…」
 やたらと嬉しそうな啓介が俺に触ってこようとする。不快だ。
 なので思いっきり奴の手に爪を立てて引っかいてやった。
「痛ぇっ!!」
 痛いようにやったのだ。当たり前である。鈍い弟を持った事は、俺の不幸だ。
「もう、何するんだよ〜。俺はこわくないでちゅよ〜、だから大人しくしててくだちゃいね〜」
 …こいつの兄であることを止めたくなってきた。
「…啓介。馬鹿だとは思っていたが、そこまで馬鹿だったか…」
 思わず呟くと、啓介はぎょっとして辺りを見回した。
「あ、アニキ?!どこにいるんだよ??」
 どこって…目の前にいるんだがな…。
「ここだ」
「どこだ」
「…お前の目の前だ」
「いねぇじゃん!!」
 …あー、面倒くせぇ!!
「ここだって言ってるだろうがっ!」
 ガブッ。
 思い切り奴の腕に噛み付いてやった。
「………いってぇ!!!」
 啓介は痛みのあまりのたうちまわっている。
 どうやらこの顎の力は、侮れないほどに強いらしい。だらだらと腕から零れる血は、驚くほどに大量で、俺は自室の床に染みが付くことを恐れた。
「な、何するんだよ…ってもしかして…アニキ…??」
「そうだ。俺だ。やっと分かったか」
 俺は啓介に無言でティッシュの箱を差し出した。啓介は流れ出る血をティッシュで抑えながら、まじまじと俺の顔を見つめてくる。
 信じられない、と言った弟の顔。しかし現実にそうである限り、信じるより他はないだろう。
 意外と弟は頭が固いところがある。少しはあの藤原の柔軟性を見習うべきであると俺は思う。藤原のブラインドアタックなどのような、柔軟な発想から生まれたあの技は俺の予想を超える。だが弟には本能はあっても、意外性は無い。哀れなほどにこの弟は俺の予測の範囲内でしか行動できない。そんなところが、彼の走りの最大の敵になるのではないかと俺は危惧した。
 だが今はそんな弟への不満ではない。問題なのは、自分の計画の遂行だ。
「…あ、アニキ…。何で猫になってるんだよ…」
 泣きそうな顔の弟に、俺は不快しか感じなかった。
「何でと言われても知らん。朝、起きたらこうなっていたんだ」
「な、何でそんな冷静なんだよ〜」
「非常事態にこそ冷静な判断が必要なんだ。それとも何か?お前は、俺が馬鹿のようにうろたえて泣いてでもいれば満足か?」
「…その言い方…やっぱりアニキだ〜」
  …鬱陶しい…。
「何で姿は猫なのに、声はいつものアニキのまんまなんだよ〜。気持ち悪ぃよ。何か、マイクとか仕込んでどっかから喋ってんじゃねぇか??」
「知るかよ。それより、さっさと車を出せ。俺には行きたいところがある」
 このまま啓介に付き合っていると、俺の計画の遂行が遅れてしまう。この姿の有効期限がいつまでかは知らないが、そう長くはないだろうことは予想できた。突然、猫になっていたのだ。また突然人間になっていたとしてもおかしくはない。
 単純なところのある啓介には、複雑なことを理解させるよりも、シンプルに命令を与え、服従させるほうが手っ取り早い。
「車って、どっか行くのか?病院??」
「いや、病院には行かん」
 下手に病院などに行って、実験動物として捕まったらどうする?もし俺ならこんな存在がいたなら、間違いなく実験に使用するからな。
「じゃ、どこに行くんだよ?」
 不思議そうな弟に、俺は隠し撮りした携帯の待ち受け画面を提示した。
「ここだ」
「…………アニキ、猫になって何する気だよ…」
「せっかく猫だからな。人間では出来ないことをするつもりだが?」
「……ストーカー…?」
「人間ならな」
 フッ、と猫の姿で笑ってみせる。どうやら猫でも笑えるらしいが、今一つ人間の時のように様にならない。
「安心しろ。この俺がバレるような事をすると思うか?つべこべ言わず、お前は俺を送っていけばいいんだ」
「……はい」
 …まぁ、人間じゃないから犯罪にはならないか…とまだ啓介はぶつぶつ言っているようだが、どうやら納得したらしい。俺が先立って部屋を出ると、啓介もしぶしぶながら付いてくる。
 だがそんな俺の後姿を見た啓介から、なにやら不穏な視線を感じた。
「…なぁ、アニキ、ちょこっと抱っこさせてくんねぇ?」
「断る!」
 シャーっ!!と猫らしい威嚇の声が出た。
「俺が抱っこされたいのは、藤原だ!!」
 俺の携帯の待ち受け画面。そして俺の片思いの相手。
 それが、俺の理論を超えた奇跡の人。藤原拓海。
 俺は猫の姿を利用して、今から藤原に甘えに行くのであった。


『うち、食べ物屋やってるんで、昔から動物とか飼えなくって…』
 峠の隅で、野良猫にこっそりエサをやっていた藤原は、俺に見つかった気まずさもあったのだろう。頬を赤く染め、いつもより口数多くそんなことを語った。
『犬も好きですけど、やっぱ猫のほうが好きなんですよ。何か、プライド高いぶん綺麗って言うか、そっけないのに、たまに甘えてくるところとか、かわいいですよね』
 …いや、そうやって照れ笑いを浮かべるお前のほうが、百倍は可愛いな。
 俺はそう言いたい気持ちをぐっと堪えて、彼の話を聞いた。
『だから野良とか見ちゃうと、つい構いたくなるんですよ』
 それを聞いてから、いつか猫をダシに彼を家に誘い込もうと画策したのは昨日の夜のこと。
 そして翌日。目覚めてみれば自分が猫だった。
 俺が考えるに、これは日ごろから行い正しい俺のために、神様がくれたご褒美と、そしてチャンスであるのだ。
 であるから、俺の今の行動は神の意に適ったものである。
 そう車中で言い放つと、啓介は涙ぐんでいた。
 本当に鬱陶しいやつだ。
 二十歳超えた男の涙が愛らしいと思っているのだろうか?…いや、藤原は別だが。
「…アニキさぁ、そんな好きなら普通に告白すればいいじゃん。あいつもアニキ見て顔赤くとかしてるだろ?いけるんじゃないのか?」
「…それで?いけなかった場合はどうなるんだ?もしそうなったら、俺はきっと藤原を拉致監禁して、藤原には『恨むなら俺を焚き付けた啓介を恨め』と言うぞ?」
「……ごめんなさい」
 本気の恋ほど臆病だ。顔を赤くしているからと言って、それがすぐに恋に結びつくとは俺には思えなかった。ただでさえ立場的に違いすぎ、藤原のほうが俺に一線を引いた態度しか取らない上に、男同士と言うハンデ。これで楽観的に上手くいくと思えるほど、俺は無謀には生まれついていない。
 もし振られたら…。そうなったら俺は過去、自身が鼻で笑ったゲーテの「若きウェルテルの悩み」の末路だ。
 だからそうならない為にも、俺はプロジェクトを通じて藤原を誘い込んで、少しずつ彼との距離を縮めようと努力している。
 そんな繊細な俺の努力を知らず、この弟はずいぶん勝手なことを言う。
 かつてプロジェクトの中で、啓介に繊細なアクセルワークを教えたのだが、中身まで矯正することは出来なかったらしい。
 やけに腹ただしく、俺は啓介の太ももに爪をじわりと立ててやった。
「…いってぇ!」
「ああ、スマン。つい爪が出ていたようだ」
「…ぜってぇわざとだ…」
 不機嫌な顔で啓介が俺を睨んできた。だが猫のように可愛らしく、
「にゃぁぁん?」
 と鳴いて、小首をかしげてやれば、たちまち啓介の機嫌は上昇した。
 かつて、啓介は捨て犬や捨て猫を拾ってきては、衛生面に厳しい親によってまた捨てられるという事を繰り返してきた過去を持っている。いつしか、実際に動物を飼うことを諦めて、動物図鑑などで満足するようになり、密かに犬通、猫通になっているような動物オタクだ。だから無条件に猫には甘い。それがたとえ、中身が俺であったとしても。
「な、なぁ、アニキ。マジに触っちゃダメか?」
「嫌だ」
「ちょっとだけ…」
「お前は人間の俺の腹や背中を撫でて喜びたいか?」
「…今は猫じゃん」
「中身は俺だ」
「ちょっとだけだって」
「嫌だって言ってるだろうが!」
 シャー!と威嚇するが、動物オタクには利かない。鋭い爪の猫パンチも、オタクを喜ばせることにしかならなかったようだ。
 俺は貞操の危機を感じた。俺が触られたいのは藤原だ。このままでは啓介に咽喉を撫でられて、ゴロゴロと鳴いててしまう。それは屈辱だ。
 追い詰められた俺の視界に移ったのは、何度かうろついた藤原の自宅近辺の光景。
 俺は咄嗟に窓を開け、そこから脱兎の勢いで飛び出した。
 背後で、啓介が急ブレーキを踏む音がしたが、それには構わず一目散に「藤原豆腐店」を目指す。
 猫の足は思ったよりも速い。すぐに見慣れた町を越え、俺の目には目指す豆腐屋の店の文字が見えてきた。
 店の横にはハチロクではなく青のインプレッサ。そしてどうやら店は営業中のようで、扉は開かれている。だが無用心なことに親父さんの姿はなかった。
 チャンスだ。
 猫ならではの忍び足で店内に潜り込み、自宅スペースまで入り込む。
 そして迷わず階段を駆け上がり、藤原の部屋を目指した。
 俺の過去のたゆまぬ情報収集のおかげで、藤原の部屋は二階の道路側に面した方と知っている。
 幸いにも藤原の部屋は襖で、爪を引っ掛け戸を開けて、労する事無く俺はずっと夢見ていた藤原の部屋への潜入に成功した。
 畳敷きのシンプルな部屋に、ベッドと昔使っていたのだろう勉強机。壁には押入れがあり、タンスが中には置かれていた。
 普通、若い男の部屋などは啓介の部屋まではいかないだろうが、散らかっているのが常だろう。
 しかし藤原の部屋は、確かに生活観があるが、適度に片付けられたものだった。
 俺はクンクンと、人間の時よりも鋭くなった嗅覚で藤原の部屋の匂いを堪能した。
 やはり彼の匂いが強いのは今朝まで眠っていたのだろう少し乱れたベッドで、側に寄っただけで俺の咽喉はゴロゴロとすさまじい勢いで鳴り出した。
 堪らず、ベッドの上に乗りあがり、布団の中に潜り込む。
 …ここはパラダイスか…。
 思わずそう錯覚してしまうほどの、強い藤原のフェロモン臭に当てられて、俺は心地好い酩酊感に意識が遠くなっていった。
 そして猫、の語源であるとされる「寝る子」の如く、俺はそのまま眠ってしまったらしく、目覚めたのは、ドスンとベッドに感じた衝撃によってだった。
「あー、疲れた…」
 パチリと目を開けて、おそるおそる布団の端から目だけを覗かせて見れば、もう暗くなった窓の外に、証明をつけた部屋の中、面倒くさそうに服を着替える藤原の姿だった。
 生ストリップである。
 まるで豆腐のような艶やかな白い肌に、細そうに見えて意外としっかりとした骨格の上のしなやかな筋肉に包まれた身体。それが惜しげもなく俺の前にさらけ出されて行く。
 しみじみ、俺は自分が猫であることを幸福に思った。
 だがすぐに…。
 バサッと布団が持ち上げられて、急に寒くなった体に、藤原の驚愕の視線が注がれる。
「……お前…」
 その視線で、俺は布団に潜んでいた自分のことを思い出した。
 もしこれが人間のままであったなら、間違いなく警察に通報されていただろう。
 だが、猫で良かった。
 すぐに藤原は驚きの視線を、ほわっとした柔らかなものに変え、俺の顔に顔を近づけて、そして笑みを浮かべて、俺の体におそるおそる手を伸ばしてきた。
「…お前、どこから来たんだ?首輪ないなぁ。野良?にしては綺麗だから、やっぱ飼い猫かなぁ?」
 嬉しそうに藤原が俺の頭を撫でて、体に触れる。
 俺も心地好さにゴロゴロと咽喉を鳴らした。
「うわ、すげぇ慣れてる。やっぱ飼い猫だなぁ。おい、お前、ご主人様はどこだ?」
 俺の中ではお前がご主人様だ。
 その思いを込めて、彼の手に頭を擦り付けた。何度も擦りつけ、そして指の先を舐めてみた。
「うわっ、くすぐったい…。でも、本当に綺麗な猫だよなぁ」
 うっとりと俺を見つめる藤原の眼差し。
 俺はこのまま一生猫でも構わない。
 そう思えた。


「お前、腹へってないか?」
 嬉しそうな顔をした無邪気で愛らしい藤原が俺にそう問いかけてくる。
 …腹…そう言えば、朝から何も食べていないな。
 思い出すと、急に腹が減ってきて、グーと鳴り出した。
「わっ、やっぱお前、腹減ってるんだ。よし、今、何か持ってきてやるからな」
 俺の頭をグリグリと撫でて、藤原は部屋を出て行った。
 猫って素晴らしいな…。
 藤原に思う存分愛撫され、おまけに彼の手料理だ。しかも俺がいるのは彼のベッドの上。堪らないシチュエーションだ。
 しかし、感動に耽ってばかりもいられない。
 俺にはこの部屋に来たもう一つの目的があった。
 それは…家捜し。
 好きな人の全てを知りたいと思うのは、恋する者の我が侭だ。人間の時であったなら叶えられることの無い我が侭を、せっかく猫になったのだから十分活用させていただこう。
 ひょい、とベッドから飛び降り、真っ先にベッドの下を探った。啓介ならばここらへんにエロ本が隠してあるはずだが…。もし見つけたならば、猫の振りでビリビリに破いてしまおう。フフフ…。
 しかしそう言った類の本はなく、ベッドの下は多少の埃はあったが綺麗なものだった。
 俺は安堵を覚える。
 と言うことは、机の引き出しか?
 次に俺は爪を引っ掛けて引き出しを開けた。
 あったのは藤原の小・中・高の卒業アルバム三冊と、車関係の本。そして俺が藤原に手渡した、プロジェクトに関する勉強会のマニュアルなどだけだった。
 俺の目は藤原の卒業アルバムに爛々となったが、悲しいことに猫の非力さと不器用さで、ケースに入った重いアルバムを引き出すことは出来なかった。俺は涙を飲んで、それを諦めた。
 そして次に目指したのはタンスだ。
 しかしこれが大変だった。机の引き出しとは違い、タンスの引き出しを引っ張るのは猫の体では無理なようだった。
 何とか、一番下の段の引き出しをこじ開け、そこにあったジーンズなどを堪能し、「ああ、これはこの前の遠征で履いていたやつだな…」などとほくそ笑みながら、その上に乗り、また上の段をこじ開ける。そこにはTシャツなどがしまわれていた。またも魅惑の世界。俺はまるで藤原に包まれているようじゃないか。
 しかし、まだまだだ。
 こんな所で満足できるほど、俺の恋心は浅くない。俺はさらに上を目指すべくTシャツの棚に乗り、さらに上の引き出しをこじ開けた。
 …努力して良かった…。
 そこは、藤原の下着の棚であった…。
 藤原はどうやらトランクス派らしい。色とりどりのトランクスの山に、俺は思わずダイブした。
 残念なことに、匂いは洗濯物の良い匂いしかしない。
 しかしこれらの布地が藤原を包んでいるかと思うと、俺は嬉しくて下着の中で暴れた。
 だがそんな至福の時間は長く続かなかった。
 ガラッと戸が引かれ、トレイを手にした藤原が現れ、そして俺がどこにいるのかを確認した途端、真っ赤になって俺をタンスから引き剥がした。
「ば、バカ!お前、どこにいるんだよ!!」
 怒られた。ペチリと額を叩かれた。
 俺は落ち込み、しゅんとして項垂れると、藤原は俺を抱き上げて、頭を撫でてくれた。
「…お前、寂しかったのか?でも、悪戯しちゃダメじゃないか」
 俺の咽喉は再びゴロゴロ。
 小さな子供になった気分で、俺は頷いて、そして猫らしく、
「にゃぁ」
 と鳴いた。
 だが。
「うわっ!」
 俺が鳴いた途端、藤原は驚き、俺を腕の中から落としてしまった。けれどさすが猫。俺は無事に床に転落することなく着地した。
 いったい何が起きたんだ?
 そう思い、呆然とする藤原の足に手をかけ、縋るように見上げ、
「にゃぁん?」
 再度、鳴いてみた。
 すると、俺を見る藤原の顔は真っ赤だ。
 そしてやっと我に返ったように、俺をまた抱き上げ顔を近づけた。
「…お前、ずいぶん良い声で泣く猫だなぁ。すっげぇびっくりした」
 じっと、俺の目を見つめる藤原。その目は恥ずかしそうに、目元が赤く染まっている。
「…お前の声…涼介さんに似てる…」
 頬を染め、恥らった表情で俺の名前を呟いた藤原。その顔は俺の目の前にある。ここでやらねば男ではない!俺はその愛らしい唇にキスをしようとさらに自分の顔を近づけた。
 べろ。
「うわっ!」
 べろべろべろ。
「ちょ、こら、もう…」
 藤原は言葉では嫌がっているが、嬉しそうなのはその声音で分かった。
 だから俺はしつこく藤原の顔を嘗め回し、そしてその美味しそうな首筋にまで舌を伸ばし、そして軽く噛んでみた。
 すると、
「……あっ…」
 思わず出た、藤原の艶やかな声。
 俺も驚いたが、藤原はもっと驚いているようだった。
 目を見開き、驚愕に固まっていた藤原は、見上げる俺の視線に気付いた途端、真っ赤な顔のまま、俺を床の上におろし、
「さ、さぁ、お腹減っただろう。ご飯だよ」
 と、何も無かったふりをした。
 …どうやら藤原は首筋が弱いらしい。今も俺にご飯を勧めながらも、噛まれた首筋を何度も手で撫でていた。良い事を覚えた。いつか活用できる日を心待ちにする。
 藤原が用意した俺のご飯は、日本猫の古式ゆかしい猫まんま。
 白飯の上に鰹節を乗せ、さらに煮干がトッピングしてあるものだった。
 そして横にはちゃんと、牛乳の皿が添えられてある。本来なら、猫に人間用の牛乳は良くない。下痢をするのだ。だが俺は、藤原の心遣いが嬉しくて、下痢を恐れずそれも余さず飲んだ。
 ばくばくと食べる俺を嬉しそうに見ていた藤原は、けれどふと思いついたように鏡を見て、そしてまた顔を赤くした。
「うわ、跡残ってる…。誤解されないかな…」
 どうやら俺が噛んだ首筋にはキスマークのような跡が残ったようだ。俺はその事実にはとても満足だったのだが、しかし藤原にはそうでなかったらしい。
 しかも…誤解?
 …誰にだ?!
 俺は直感で、藤原には誰か「誤解されたくない相手」、つまり「好きな人」がいるのだという事を悟った。
 メラメラと嫉妬の炎が燃え上がる。
 俺は口の周りに残ったご飯粒を、舌で舐め取りながら、猫らしくなくほくそ笑んだ。
 絶対に、追求してやる…。
 フフフ、と笑いたかった忍び笑いは、何故か口から出るときには、
「フニャニャニャ…」
 となっていて、藤原の笑いを誘った。



 食べ終わった俺の頭を子供に褒めるように撫で、藤原は立ち上がりご飯の入ったトレイを持ち上げた。
「ちょっと待ってろよ。今、これ片付けてくるから」
 そう言って、また部屋を出ていった。
 藤原の部屋に俺、一匹。
 チャンスだ…。
 さっそく俺は藤原の携帯を探した。
 恋人の有無。それを探るには、携帯が一番有効的だ。もし待ちうけ画面に、見知らぬ女の写真などがあったら、猫の振りで画像を削除してやろう。フフフ…。
 藤原の携帯は、無造作にベッドの上に放り投げられていた。
 二つ折りのそれのフリップを開く。画像は…たぶんこれは初期設定のままなのだろう。元々内蔵されている映像のままのものだった。
 見知らぬ女、または男の映像でなくて良かった…。だがまだこれで安心してはいけない。
 俺は次にアドレスを開く。
 アドレス番号00、または01。それは頻繁にかける相手と言う意味で、主に恋人の番号とされるのはもう一般の常識であるだろう。ちなみに、俺の藤原の番号はもちろん00。
 藤原の携帯。番号00は…無かった…。
 いやいや、まだ安心できない。01は…「うち」。
 携帯を持って俺は震えそうになった。
 何て可愛いんだ!「うち」か?!「自宅」などではなく、「うち」!!
 その藤原の天然な性格に悩殺されて、俺は猫の姿なのを良いことにのた打ち回った。
 いやいや、だがまだまだ喜んではいられない。
 続く番号…イツキ、池谷、健二…なるほど、友人と先輩が来たか。
 会社の番号に続いて、仕事の先輩なのだろう番号が続き、やっとプロジェクト関係の番号が続いた。
 松本、史裕、啓介…ん?何でケンタまであるんだ?…渉ってのは、あのハチロクレビンだな。着信の履歴を覗いてみたが、秋山渉からの電話はかかってきていないようだ。と言うことは、ただの知り合いの範囲内なのだろう。その他、かつてバトルした相手の名前などが何人か並んでいたが、どこをどう探しても俺の名前は見つからなかった…。
 何故だ…なぜ啓介がいて、俺がいない?俺のどこが秋山に劣った?
 悲しみながらも、アドレスの番号をずっと押し続け検索を続けた。
 そして誰もいないアドレスを開き続け86の数字を押した瞬間。
 出てきた名前は…「高橋さん」。表記された番号は、間違いなく俺の携帯のナンバーだった。
 …何故、こんな外れ…しかも、「高橋さん」かよ…。啓介は呼び捨てなのに、何故俺だけ苗字?しかも「さん」付けだ。
 猫でも涙は出る。
 幸い、藤原に恋人らしき人間は無かった。だが、俺はそれよりも知りたくなかった事実を知ってしまったような気がする。
 俺は藤原に嫌われてるのか?
 じわっと目じりに浮かんだ涙を、肉球の浮いた手で擦る。
「ふにゃふにゃ…」
 妙な泣き声まで出てきやがった。
 これが人間の姿であったら、屈辱で死にたくなるようなものであるのだが、今の俺は猫だ。思いっきり泣いても構わないだろう。
「ふにゃぁん、ふにゃぁん…」
 悲しくて泣いていると、藤原が慌てて部屋に戻ってきた。
「どうした?何かあったのか?!」
 藤原は涙を流す俺を見て驚いたようだが、すぐに彼もまたとても悲しそうな顔になって、俺の涙を指で拭き取った。
「…お前、寂しいのか?どうしたんだよ、こんな泣いちゃって…」
 俺を膝の上に乗せて、背中を優しく宥めるように撫でた。
 悲しいのに、ゴロゴロと咽喉が鳴る。
「飼い主の元に帰りたいのか?明日になったら、ちゃんとお前の飼い主を探してやるから、今日は俺で我慢しろよ?な?」
 我慢なんてするはずがない。俺は藤原がいいのだ。その思いを込めて、ぎゅっと爪をたてないように彼の体を掴んだ。
「…お前、本当にいい子だな。もし飼い主が見つからなかったら、うちの子になる?」
 なるなる。
「そしたら名前付けないとなぁ…。何がいいかな…」
 お前の子になれるなら、俺はたとえ「トウフ」と名付けられようと我慢する。
「えっと…」
 しばらく考え込んでいたようだった藤原は、ふと、何かを思いついたのだろう。いきなり頬を染めて、恥ずかしそうに瞬きを繰り返した。
「…涼介、さん…?」
 一瞬、バレたかと思いドキリとしたが、それが猫の俺への名前なのだと気が付いた。
「うにゃ」
 返事をしてみると、ますます藤原の顔は赤くなった。
 口を押さえ、視線を逸らす。
「…うわー、俺、何かすげぇ恥ずかしいかも…」
「うにゃん?」
「…お前、涼介さんでもいい?名前?」
「にゃん」
「そっか。…涼介さんはね、大切な名前なんだ」
「………う、うにゃ?!」
 思わず人間の言葉で叫びそうになってしまった…。
 な、何だと??
 それは一体どう言う意味だ、藤原?!
「内緒だぞ。涼介さんは…俺の…好きな人なんだ」
 隙?いや、鋤?いやいや数奇??…違う!…好き、だって??
 空耳か?いや、色気のある顔で、頬を染める藤原の顔が、それが憧れから来る「好意」などではなく、「恋慕」からくる「好意」なのだと教えてくれる。
 俺は感動のあまり藤原に飛びついた。
「ふにゅにゅわー!(フジワラー)」
 猫語のまま叫んだ自分を、俺は褒めてやりたい。
 べろべろ藤原の顔中を嘗め回し、耳の中まで嘗めた。
「うわっ、止めろって、涼介…」
 …涼介…呼び捨てだ。またも感動。
「ほら、落ち着けって。俺、明日は配達ないし遅くてもいいけど、疲れたからもう寝るぞ。お前も大人しく寝てろよ?」
 そう言い、藤原は布団をめくって、俺をベッドの中に誘う。
 …鼻血が出そうな光景だ。素晴らしい。つくづく人間ではない我が身が恨めしい。
 しかし猫とはいえ、この絶好の機会を逃すはずもなく、俺は藤原の隣に潜り込んだ。
「ふふ、お前、すごい毛並みいいなぁ。気持ちいい…」
 俺に頬ずりする藤原にうっとりしながら、俺は彼の腕に頭を乗せた。
 恋人なら誰もが夢見る…腕枕だ。
 本当なら俺が藤原にしてやりたかったのだが、それはまた今度の機会だな。
 今日は思う存分、藤原に甘えよう。
 ぎゅっと藤原のパジャマを掴み、俺は彼の呼吸を聞きながら眠りに落ちた。
 肉球が掴む、この至福を抱きしめて。



 薄暗い夜明け間近。
 車のエンジン音で目が覚めた。
 静かな商店街に似合わない、高排気量の音。そっと目を開け体を起こし、窓から外を眺めれば、青の車体のインプレッサが美しいラインを描いて走り去るのが見えた。
 なるほど。これが噂に聞く豆腐の配達か…。
 ふと、重みを感じる腕に、視線をベッドの上に戻せば、俺の腕を掴んで、幸せそうに眠る藤原の姿があった。
 そう言えば今日は配達じゃないと言っていたな。ゆっくり寝かせてやるか…。
 そう思い、俺もゆっくり眠るかと寝なおそうとしたとき、とある事実に気がついて、一気に目が覚めた。
 藤原が掴んでいないほうの手を持ち上げて、まじまじと見る。
 肉球が無い。
 どう見ても、それはいつもの俺の、人間の手と指だ。
 顔に触れてみる。…髭がない。濡れたような湿った鼻も無い。顔には毛など無く、つるりとした感触の肌があるだけだった。
 そして今いる我が身の姿を省みる。
 いわゆる…マッパだ。真っ裸というやつだ。
 俺は裸のまま藤原のベッドの中にいた。
 これは、状況的に不味いのではないか…。
 そう思い、藤原の携帯を借りて啓介を呼び出し、そっと帰ってしまおうと考え、枕元に置いてあった藤原の携帯を取ろうと手を伸ばした時、
「ん…涼介さん…」
 うっすらと、藤原のその大きな瞳が開かれた。
 潤んだような茶色の瞳に見つめられ、俺は射抜かれたように固まった。
「…涼介さん…あれ?…夢…?」
 どうやらまだ寝ぼけているようだ。
 そうなってくると、俺も腹が据わってくる。
 ニコリ、と意識して優しげな微笑を浮かべ、藤原に向けた。
「おはよう、藤原」
 そして、彼の寝ぼけたままの唇にキスをする。ペロリと、舌で軽く舐めながら。猫であった時のように。
「ん、くすぐったい…涼介、ダメだって…」
 どうやらその感触に、俺を猫と間違えているらしい。
 まぁ、どっちも俺なんだがな。
 昨夜のようにぺろぺろと顔中を嘗め回し、耳まで嘗めて耳たぶを噛んだ。
「痛っ…、もう、涼介、だからダメだって…って、え、痛い…??」
 ん?目が覚めたかな?
 半開きだった藤原の目が、大きく開かれる。
 そしてその目が、俺の裸の体にひたりと合わせられた瞬間、ゆっくりと、藤原の顔が頬を中心に赤く染まり、耳どころか首筋まで真っ赤に染め上げた。
「りょ、ええっ?!涼介さん??えっ、何で?あっ、涼介…」
 混乱し、藤原はのしかかる俺の下でバタバタと慌てふためいた。
 俺は慌てる藤原の手を掴み、猫であった時のようにその指を嘗め、軽く噛んだ。
「ひどいな、藤原。昨夜は俺にうちの子になるかって言ってたのに。忘れたのか?」
「え、ええっ??」
「優しくしてくれただろう?ご飯をくれて、俺が泣いてたら慰めてくれて。すげぇ嬉しかったよ」
「は、はぁ??」
「飼い主が見つからなかったら、お前が飼ってくれるんじゃなかったのか?俺はとても幸せだったのに」
「え、あ、でも、あれは猫で…ええっ??」
「…俺が飼われたいのは、藤原だ。俺のご主人様になってくれないのか?」
「ご、ご主人様って…」
 戸惑う藤原の体を押さえつけて、昨日、猫の自分が付けた跡の残る首筋にキスをしてまた新たな跡を付ける。
「……ん、ゃっ…」
 人間の時でやった方が、感度がいいな…。
「りょ、涼介さん??」
「ああ。何だ?」
「な、何でこんな事…」
「藤原が好きだからな」
「す、好きって、あの…これ、まだ夢なんですか??」
「残念ながら、夢じゃない」
「…あああああの、な、何かカタイものが当たるんッスけど!!」
「ああ。生理現象だ。気にするな」
 俺は彼の腰に、自分の腰をすり合わせた。思った通りの反応にほくそ笑む。しかも、今は朝だからな。若い頃はほっといてもそうなるだろう。
「それに、藤原も固くなってるぞ?」
「せ、セーリゲンショーです!!」
 真っ赤な顔で、息も絶え絶えな藤原。
 このまま逃がしてやるほど、俺はお人好しにもできていないし、藤原への気持ちはそんな軽いものでは無かった。
「では大好きなご主人様のために、俺がご奉仕してやろう…」
「うわっ、涼介さん、ダメっ!!」
 藤原のダメが、嫌がっているわけではないことを俺は昨夜で学んだ。
 構わず俺はそのまま布団の中に潜り込み…そして今回は猫のように、ではなく、犬のような忠義さで彼に奉仕し続けた。
「俺を捨てるなよ、ご主人様」
「………はい…」
 恥ずかしそうに布団で顔を隠しながら、藤原が俺の言葉に頷いた時には、すっかりもう夜は明けて、明るい日差しが部屋の中を照らしていた。



 藤原の携帯のアドレス番号00には、俺の名前と番号が入れられた。
 彼に、なぜ俺の番号だけ、あんな外れた、しかも「さん」付けで入っていたのかを問うと、拗ねたように唇を尖らせ、照れながら言うには、
「…他の人と一緒にするの、ヤだったし、それに…恥ずかしかったから…」
 との答えが返ってきた。
 また番号が86であった理由は、それが彼にとって特別な番号である事は、言わないでも分かるだろう。
 俺もまた、藤原に聞かれた。
「でも何で涼介さん、猫になってたんですか?」
 その顔には、本当に自分が猫だったのかを疑う気持ちがアリアリと現れていた。
 それは当然だろう。俺も不可思議な現象ではあると思う。これが史裕や啓介の話ならば、頭から疑って信じることなど毛頭しない。
 だが、これは紛れもなく現実。
「…藤原は猫が好きだと言っていただろう?だから猫になったら、藤原に好きになってもらえるのかと思いながら寝たら、起きたら猫になっていたんだ」
 本当は猫を利用して藤原の警戒心を解かせようと思っただけで、自分が猫になる気なんてサラサラ無かったが、嘘も方便。案の定そう言ってやると、パッと彼は顔を朱に染めて、そして恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「…そんな猫になんなくても、十分……」
 その言葉の後に続く言葉は、猫の時に聞いた。
 もしかしたら、俺が人間に戻ったのはあの言葉を聞けたからかも知れない。
 猫であった時のように愛情表現を態度で表そうと、また藤原の体を抱き寄せようとすると、藤原は飛び退って逃げた。
「あ、ああああの!早く服着て下さい!」
 おっと、そういやまだ裸だった。
 どうやら俺のご主人様は躾には厳しいらしい。
 すぐに藤原の携帯を借りて、啓介に服を持って来るように電話をかけると、コール音一回目で啓介が電話に出た。
『……は、はい…』
「啓介。すぐに藤原の家まで、俺の服を持って来い」
『…ゲッ、アニキ?!』
 誰だと思ったんだ、そう言い返したかったが、これは藤原の携帯だった。あいつは一体、藤原からどんな内容の電話がかかってきたと思ったんだ?あんな、癌告知を待つ病人のような声を出して??
 啓介は回転は鈍いが行動は早い。
 法定速度を越えるスピードでやって来たのだろう早さで、啓介は藤原家へやって来た。
 そして藤原の部屋のベッドの上で、優雅に足を組みながら座る俺を見た瞬間、啓介は一気にげんなりとした顔をした。
「…アニキ…マッパかよ…」
 そして項垂れ落ち込んだ。
「…アニキ、もう猫じゃないんだ…」
 しくしくと、泣き始めやがった。
 よほど俺を触りたかったらしい。その手はニギニギと、何かを掴むように動いていた。
 気色悪い。鬱陶しい。
 俺はそんな事よりも、いい加減、服を着たいのだ。
 落ち込む啓介に、 早く服を遣せと手を伸ばすと、啓介は涙目のまま俺の服を手渡した。
「期待に沿えなくて悪いな。それに、猫のままだったとしても、俺はもう藤原のものだから、藤原の許可なく触ることも出来ないがな」
 手早く服を身に着けながらそう言うと、藤原が真っ赤な顔で、だが瞳に熱を潤ませて俺を見つめた。俺はそんな藤原に、軽く微笑み頷いた。
「…ふ、藤原のモンってことは、アニキ、まさか……」
 俺の言葉を聞いた啓介が、何やらずっとブツブツと「ジュウカン?」と呟いているようだが、俺は気にしなかった。
「藤原」
「は、はいっ!」
 声をかけると、藤原は驚き飛び上がった。何を言われるのだろうと緊張した顔。
「名残惜しいがもう帰るよ。今度首輪を買ってくるから、お前、付けてくれないか?」
「く、くびわっ?!」
 驚く藤原と、「…え、えすえむ??」と呟く啓介。
 …首輪と言う名の指輪だがな。
「お揃いで買ってくるから、一緒に付けよう」
 そう言いながら、左手の薬指を翳してみれば、藤原が俺が言いたかったことが分かったらしい。さらに頬を赤らめて頷いた。
「…はい…」
「…アニキ、とうとうそんな趣味が…」
 まだブツブツ呟く鈍い弟を促し藤原の部屋を出る。俺を包んでいた藤原の香り。それらが溢れていた藤原の部屋を出た途端、悲しいような気持ちになった。
 振り返り、藤原の顔を見つめれば、彼も寂しそうな顔になっている。
「…通い猫で悪いが、また来た時は可愛がってくれるか、ご主人様?」
 彼の腕を取り、指を嘗め、歯型が残るぐらいの力で噛んだ。
 うっすら、藤原は幸せそうに笑い、そして俺の頭を猫であったときのように優しく撫でてくれた。
「はい。待ってます」
 大好きなご主人に頭を撫でられて、俺もまた笑顔になる。
「ご、ご主人様って、アニキ…まさかアニキが……なのか??」
 どこか遠くを見つめながら、ずっと呟き続ける啓介の背中に爪を立てた。
「いってぇ!」
 さすがに、もう猫のときのような可愛げがないので、不機嫌な啓介をごまかす事は無理だった。
 だから俺はいつものように、啓介に冷たい視線を向けた。
「いつまでブツブツ言っているんだ。ほら、行くぞ」
 俺の凍て付く視線に晒された啓介は、みるみるしぼんで小さくなっていく。やはりこうやって啓介を押さえつけるほうが楽だな。
「じゃあな、藤原」
 藤原に手を振る。
 興味深そうに俺と啓介のやり取りを眺めていた彼もまた、俺に手を振り微笑んだ。
 束の間の一日だけの不思議。
 だが俺たちにとっては奇跡のようで、そして俺たちはその奇跡をしっかりと手に入れた。
 俺の手にはもう肉球はないが、無くても藤原が俺を好きでてくれる事を知っている。
 肉球が掴んだ幸せは、俺の手の中に、今も抱え込まれたまま離すことはない。
 そして藤原も。
 俺が噛んだ指を、幸せそうに撫でて微笑む彼の姿に、彼もまたそれを手放さないだろう事を知る。
 あの指の跡が消える前に、首輪を買いに行こう。
「――またね、涼介」
 あの奇跡を、忘れないように形にするものを。






2006年1月頃作成。諸事情により下げてた作品です。
もうほとぼり覚めたかなと蔵出ししてみました。